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2006年12月31日 (日)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部②擬声語・擬態語は存在感がありあり

 マンガは面白い。マンガは生活の一部ともいえます。その面白いマンガ表現には基本要素といわれるものがあります。マンガが日本独自の、世界にも珍しいマス・カルチャーとされるのはまさにこの基本要素を駆使して他のメディアと異なった表現をしているからでしょう。

 マンガ表現の基本要素を整理してみましょう。それは

 1.コマ配列、 2.吹き出し、 3.登場人物、 4.マンガ的記号、 5.擬声語・擬態語、 6.物語性

となります。

20061213_21_1  昨日は手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげて

①吹き出しに書き手の力量が表れる

を見て来ました。手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあります。面白さにぐいぐい引き込まれている時に、ふと気がつくといたるところに表現のうまさにため息が出ることがよくあります。あなたもそんなことがありませんか?

 ひき続き、今日から何度かに分けて、手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげていろいろ見てゆきたいなどと身の程知らずのことを考えてしまいました。折りしも暮れから正月にかけて、次のような恐れ多くも大胆というよりは無謀な行いに、皆様どうかお付き合いくださいませ。

 ②擬声語・擬態語は存在感がありあり

 ③マンガ的記号はアメコミから始まった

 ④人物と背景は対比と連続がポイント

 ⑤コマ割りは事件の成り行きを面白くする

 ⑥コマの飛躍が想像力をかきたてる

であります。

20061213_2_1  読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景、その脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 

 竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

 マンガ表現の二つ目の要素についてふれよう。マンガには、「ギャー」「どくっ!!」とか「ヴッ」とか、吹き出しの外に、デザイン化されたタッチで擬声語・擬態語(オノマトペ)が描かれる。それそのものが、コマの中の視覚的な道具立てになっている。極端な場合には、擬声語・擬態語だけでコマが進行するという場合もありえる。谷岡ヤスジや赤塚不二夫が、そうした遊びを誌面上でよく行ったことを思い出す人も多いことだろう。

061231_01  「ブラック・ジャック」の例では、①の「ビシャッ!!」と⑨「ピシャッ!」などの表現がそうだ。引用した一ページ全体がひとつのドラマになっていて、お茶をかぶった男がピノコに言い寄り、また拒絶されるという展開がコンパクトに収められている。その出だしにある「ビシャッ!!」と終わりの「ピシャッ!」は音の上でも類似し、色も黒字、白地というふうに対応しあっている。

 ただし現在のマンガはもっと過激だ。特にバイクや車の暴走シーン、人間どうしの格闘シーンには、はでな擬声語・擬態語が使用される。また視覚的な工夫がマンガ家ごとに施され、描かれ方は実にバラエティに富む。

061231_02  これは極めて日本的な表現なのだと思う。大学で授業をしていたとき、中国から来た留学生に興味ある話を聞いたことがある。中国語には日本語のように多様な擬声語・擬態語が存在しない。そのため日本に来てマンガの擬声語・擬態語に不思議な気がしたという。日本人はこうしたストレートな感覚・感情表現にたけており、マンガにおける擬声語・擬態語は、それ自体存在感のある視覚的実態として、スピード感や迫力といった表現効果のかなめとなっているのだ。ただし、ストーリー展開の妙や会話表現に巧みさなど、本来備えるべき要素をごまかすために多用し、より過激にはしる疑問もしばしば見うけられる。悲しむべき事態と言うほかない。

 最終章の文献リストを見ていただくとよい。戦後になってマンガの表現が議論されるようになった時、最初に取り上げられた表現の要素がこの擬声語・擬態語だった。マンガというわけのわからぬ表現にアプローチする場合、視覚文化と活字文化の接点として擬声語・擬態語がまず取り上げられたのだ。もっとも身近に議論しやすい対象として、イメージされたであろうことは容易に想像がつく。

 なるほどなるほど。

擬声語・擬態語ひとつにもこれだけの力があるのですね。描き方によって天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

 皆様。

 今年も東京漫画探偵団(まんたん)をお引き立てくださいましてまことにありがとうございました。

また来年もよろしくお願い申し上げます。

どうか皆様には良いお年をお迎えになりますようお祈り申し上げます。

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2006年12月30日 (土)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部①吹き出しに書き手の力量が表れる

061230_00 またまた手塚治虫の「ブラック・ジャック」の登場です。このマンガ大好きなんです。面白くて泣かせるんです。皆さんにもぜひ読んでほしいと思うくらいなんです。でもそれだけで登場させたわけではありません。手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあるからなんです。面白さにぐいぐい引き込まれている時に、ふと気がつくといたるところに表現のうまさにため息が出ることがよくあります。あなたもそんなことがありませんか?

  マンガは面白い。マンガは生活の一部ともいえます。描き手は読み手に対して、マンガを通して感動を与えてくれるし、人生を教えてくれます。だからこそマンガの描き手にとって「何を描くか」ということが重要です。同様にマンガの描き手にとって「どのように描くか」も重要でしょう。マンガの読み手にとっても、描き手にとっても、またこれから描こうと思っている人にとっても「どのように描いているのか」は大変興味のあることです。

 読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景とはいったいどんなものなのでしょう。おそらくその答えは多種多様だと思います。十人十色かもしれません。しかしながらその脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

061230_01 竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

 マンガ表現の細部とはいったいどういうことを指すのか。具体例をあげるとわかりやすい。ここでは、手塚治虫の「ブラックジャック」から一ページを引用してみる。さりげないページだが、さまざまな思考をぼくたちに促す。

 ぼくは「ブラックジャック」を短編のお手本だといつも思っている。よくもまあ毎週これだけバラエティあふれる話を書き続けたものだ。マンガ家をめざそうとする人、マンガ表現に少しでも関心のある人には、かっこうのテキストになるだろう。その中の一編「ピノコ西へ行く」の一ページを取り上げてみた。なにげないコマの連続で、アクションや手術のシーンなど、ハデなコマのオンパレードと比較すると随分と地味だが、なかなかどうしてさまざまな表現の工夫が施されていることに驚かされる。

061230_02 物語はピノコが一人で旅に出るところから始まる。ブラック・ジャックが訴  訟騒ぎに巻き込まれ関西に身を隠す。ピノコがその後を追う。さらに後をつけるのが、画面の男石倉刑事。ピノコは駅弁とお茶を手に急いで列車に飛び乗る、ところが待ち受けていた石倉にお茶が・・・・。石倉はそれにもめげずにピノコのことを探ろうとする、そうしたやりとりが展開していく。

 まず、<吹き出し>について。吹き出しとは、ことばがかきこまれた雲状の空間、会話文を囲った枠線のことだ。英語圏ではスピーチ・バルーン、フランス語ではパフと呼ばれるもの。この吹き出しによって、コママンガは絵物語のように絵と言葉が空間上に分離しなくて済む。絵と言葉が一瞬に対応し、臨場感あふれる表現が可能となっている。

061230_03 図に示された男(石倉刑事)の吹き出しの数は九つ。ピノコのそれは四つ。数から見ても男のほうが積極的にピノコに関わろうとしていることがはっきりする。うち、⑥の中央にある男の吹き出しは、形が少しおかしい。三つの形が融合したものなのだが、これをひとつのものとみなしてはいけない。作家の意識としては、三つの吹き出しなのである。なぜなら、吹き出しひとつにはあまり文字を書き込むことができない、物理的にはかなりの量が可能であるものの、見た目にうっとうしい。六~七字で四~五行あたりが、この場合の限界か。ちなみに1950年代の初め、大阪で赤本マンガを書き下ろしていた手塚は、脚本を描きそのあと絵を付けるという演劇的作法に立って創作したため、吹き出しの中にかなりの量の言葉を書き込んでいた。が、しばらくして言葉の量を減少させていく。その理由は、絵で物語展開をはかるという表現の方法にポイントを移していったためだった。

 ピノコの吹き出しにも変化が見られる。⑦の右「ピノコ二十歳よのさ!!」とある吹き出しは叫びを表す一般的なもの。吹き出しの形状それ自体が、さまざまな表情をもちえるわけで、その点は早い時期のマンガ表現論でよく指摘されたことがらでもある。

 もうひとつ注意したいのは、人物と吹き出しの重なりぐあいである。これは創作した人にしかわからないかもしれない。②を見てほしい。ここでは、吹き出しが男の足を覆っている。左足先が隠れているのだ。⑤では男の姿のほうが優位、吹き出しが後方に描かれる。⑥でも同じだが、男の吹き出しはピノコの右の女性に覆いかぶさっている。当然ながら、背後の列車内の風景は、その遠く背後に追いやられることになる。

 このように、吹き出しは中心人物を押し殺すことが少ない。ただし、⑦のような叫びや、普通の雲状の吹き出しでも、構図の関係で言葉が入りにくい場合などでは、人物を覆うことも多々ありえる。限られたコマ空間の中に、いかに人物とセリフ(絵と言葉)を入れるか、ここら当たりは実際にコマ割りしてみると、むずかしさがよくわかる。何気ないこうした配慮にも、マンガ家の力量がよく示されているのだ。

 なるほどなるほど、吹き出しひとつにもこれだけの力があるのですね。描き方によって天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2006年12月29日 (金)

ペプシマンは新し物好きです

0612072_018 雑誌棚の次にペプシマンが行ったのは、新刊マンガコーナーでした。発売になったばかりのマンガにはことのほか興味を示しました。そして興奮気味に「これは面白いぞ」と、盛んにアピールしていました。

そうか、ペプシマンはマンガが好きなんだ。

それも新しいマンガに目がないんだ。

良かった。

安心しました。

0612072_020ペプシマンが「まんたん」を気に入ってくれたのがとてもうれしいです。

もっとも、この後のペプシマンの行動にも驚かされ続けましたが・・・。

また後日、レポートを続けます。

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2006年12月28日 (木)

ペプシマンは雑誌に弱い?

0612071_077  大変です。

「まんたん」に料金を払って入店したペプシマンがどうしたかを知ったらあなたも驚くでしょう。

ペプシマンは、いきなり、つかつかと、雑誌コーナーに近寄りました。そしてしばらくの間、雑誌の数々を眺めていました。

が、と、突然のことでした。

何を血迷ったのか、あるいは貧血で目が回ったのか、はたまた人々を見下して威張りクサり始めたのか。

0612071_078なんと雑誌棚にヨタリかかってしまったのです。

いったいどうしたの? ペプシマンさん。

雑誌は読むもので、寄りかかるものではないのですよ。

うーん。

やはりペプシマンからは目が離せませんね。

そう。

これでは、どーしても、この後のペプシマンの行動について、逐一皆さんにレポートしていかなければいけませんね。

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2006年12月27日 (水)

ペプシマンが「まんたん」に入ってくれました

0612071_054   感激です。

ペプシマンが「まんたん」に入ってくれたんです。

一時はあれほどまでに漫画喫茶に対して戸惑い、疑い、迷っていたにもかかわらずにです。

皆さんも覚えていますか?ペプシマンがいかに疑り深かったかを。

(もう一度あのおかしいペプシマンを味わいたい方は12月 8日金曜日と9日 土曜日の投稿を参照してください)

0612071_072これも覚えていますか?私たちがどんなに苦労してペプシマンの誤解を解いたのかを。

果てしのない艱難辛苦の末、やっとのことで、ペプシマンには漫画喫茶に対する間違ったイメージを訂正して、もらうことができました。(この時のあのおかしいペプシマンを味わいたい方は12月10日の日曜日の投稿を参照してください)その上ペプシマンは漫画喫茶のことにすごく興味を持ってくれました。

この写真を見てください。なんと、ペプシマンが入場料を払っているのです。

ペプシマンは思っていた以上に賢い方でした。代金を支払い、サービスを受けるということを正しく理解していたのです。

0612072_012感激しました。

そして光栄でした。ペプシマンが「まんたん」に入ってくれたからです。

でも、ペプシマンはマンガが好きなのかしら・・・。

心配です。

だいじょうぶでしょうか?

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2006年12月26日 (火)

あなたもペプシマンと握手できるかもしれません

0612071_035 神田神保町を歩いてきたペプシマンはとても愛想が良くて、好意的でした。みち行く人に笑顔(かな?)を振りまき、行きかう人々とも挨拶を(無言で)かわし合っていました。

 ペプシマンっていい人なんですね。

 思わず握手してしまいました。

 神田神保町すずらん通り、まんが喫茶・東京漫画探偵団付近にペプシマンは時折、出没しています。小春日和の昼下がり、せわしない年の瀬の朝、あるいは新春の晴れたたそがれどきに、あなたもペプシマンに出会えるかもしれません。

その時は迷わず握手をしてあげてください。

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2006年12月25日 (月)

ペプシマンがまたまたやって来た

0612071_031 

 ニュースです。

あの「ペプシマン」が

再び、

またまた、

あらためて、

神田神保町の東京漫画探偵団にやって きたんです。

0612071_032 漫画喫茶に対する妙な偏見をなくして自信を持ったペプシマンは、

臆することなく、

堂々と、

神田神保町のすずらんどおりを歩いてきました。

 でも、

ペプシマンって、本当は

0612071_033全速力で

駆けてくる

ものではなかったかしら・・・。

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2006年12月23日 (土)

「現代人の弱さ」真鍋昌平「闇金ウシジマくん」

Photo どうも、まんが喫茶東京漫画探偵団(TMT)スタッフのうえむらです。もうすっかり師走ですが、皆さんどう過ごされていますか?年末といえば歳末助け合い運動。江戸時代の町人などはこの時期、いろんなお店の借金取りから追い回されていた、なんてよくききますね。うえむらもこの時期、別にお金に困っていなくてもなんとなくソワソワした気持ちになったりします。だからというわけではないのですが、今回ご紹介する漫画は真鍋昌平「闇金ウシジマくん」です。

主人公は法定金利を逸脱した利息(10日5割)で金を貸し付ける違法金融業者(通称闇金)。主人公が金融に携わっている漫画といえば、長寿漫画「ミナミの帝王」や「ナニワ金融道」などが有名ですが、主人公が(客がどんな目に会おうが)とにかく冷徹に「自分の仕事」をやり通すという点で、他の漫画とは一線を画しています。いうまでもないですが、決して楽しい気持ちになれる漫画ではありません。むしろ全部通して読むと気分が沈む漫画です。ただ、小泉政治以降の「格差社会」や現代を生きる人々の心の暗部などを考える際、とても参考になる作品ではないかと思うのです。

主人公・丑嶋は自身の営む会社「カウカウファイナンス」の新入社員に向かってこう言います。

「世間一般ではよ、『極悪人の闇金業者』が『善良な一般市民』から金を毟り取るってイメージだがとんでもねーぜ」

「こっち(闇金業者)からみりゃあ、債務者は怖い!相手が何者かわからねェーンだ!」

「中には最初から騙すつもりで金を借りにくる詐欺師や、闇金業者が違法なのを逆手にとって恐喝してくるヤクザみたいな連中もいる」

「頭がぶっ飛んでる多重債務者から金を回収するのは楽じゃねェ!まじめな客を掴むのは大変だ、だからよ…金はテメエの金と思って貸せ!」

カウカウファイナンスの客は、普通の消費者金融から金を貸してもらえなくなったブラックリストの連中がほとんどです。パチンコ依存症の主婦、見栄っ張りなために買い物依存症気味の若いOL、ギャンブルに身を費やす三十路の男…すべての客が闇金丑嶋の手で地獄に突き落とされてゆきます。その転落劇は本当に見ていて恐ろしいものがありますが、それ以上に怖いのはそれでもパチンコを、買い物を止められない人々の姿です。何が彼らをそこまでかきたてるのか、と問われれば、その答えはただひとつ、金なのです。

「あと1万入れれば絶対に出るンです!なんでもしますから!」

「私にはお金が必要なの!笑うなよォ~!」

この台詞のある場面は是非実際に本を手にとって読んでみてください。金銭感覚が狂った現代人の病理のようなのものがひしひしと感じ取れます。

社長には罪悪感がないのかと社員に問われ、丑嶋はこう答えます。

「お前に罪悪感があるなら、なぜ日常では感じない?豚を殺す罪悪感もなくこま切れ肉を喰い、自然を壊す罪悪感もなくモノをゴミにする。今の生活は負担を感じないようにできてるから人間が鈍感になる。」

この作品を読んで「自分だけは大丈夫」なんて思っていると逆に危ないのかもしれません。どんな人間にもこの漫画に出てくる債務者のようになる可能性があるとうえむらは思います。現代人は本当に弱い部分を沢山抱えて生きていますから。

「闇金ウシジマくん」は東京漫画探偵団「まんたん)に置いてあります。

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2006年12月22日 (金)

男目線でも読める少女漫画が新しい

 近頃マンガが目立っています。TVドラマをみても、映画を見ても、雑誌を見ても、マンガが原作、マンガを特集、といった具合ですし、世界に誇る日本の文化だという声も聞こえます。各地の美術館ではマンガやアニメの展覧会が盛んに開かれていますし、京都にはマンガの総合博物館として「京都国際マンガミュージアム」もオープンしました。 でも、一方ではマンガ雑誌の発行部数が下がっているというし、若者のマンガ離れという言葉を聴くこともあります。

 いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 そして、これからどうなっていくのでしょうか

 島田一志先生は、著書である「ワルの漫画術」の中で次のように書いています。

 現在の日本のコミックシーンを代表するヒット作に、三つの少女漫画「ハチミツとクローバー」(羽海野チカ作)、「のだめカンタービレ」(二ノ宮和子作)、「NANA」(矢沢あい作)があります。

20061226_  いずれも美大生やクラシックの音楽やロッカーが出てくる、「ちょっと変わったアーティストの恋愛物」という点では共通していますが、その読者層は二つにはっきりと分けられると思います。極論かもしれませんが、「ハチミツとクローバー」と「のだめカンタービレ」は男性読者をも取り込むことにより部数を伸ばし、「NANA」は、本来の女性読者の支持のみで巨大な存在に化けたのです。どちらが凄いかというと、まあ、「NANA」のほうでしょうね。映画やCGになる前から、女の子の力だけで爆発的な大ヒット作になっていたわけですから。それだけ矢沢あいという作家と少女読者の底力を感じます。ただし、男である私としましては、今は「ハチミツとクローバー」と「のだめカンタービレ」のほうに注目しています。

 この二つの作品は、男性読者を取り込むことにより部数を伸ばした、と先に書きましたが、実際、男のキャラクターの心理描写がとても見事に描けています。前者で言えば、森田、竹本、真山、後者で言えば、千秋や峰に共感して物語を読んでいる男性読者は少なくないのではないでしょうか。

20061226_32  「ハチミツとクローバー」は竹本の自分探しの物語、あるいは真山の切ない片思いの物語として読むことも可能ですし、「のだめカンタービレ」は、千葉真一という一人の天才指揮者の成り上がりストーリーだとも言えます。時に物語は、主役である女の子たち(はぐみやのだめ)を置き去りにして、彼らの視点で語られていきます。

 これは、かなり新しい少女漫画の作り方だと思います。乱暴な言い方かもしれませんが、これまでの少女漫画に出てくる男性キャラというのは、単なる恋愛の対象、女性から見た一方的な憧れでしかなかったような気がしますから(ただし萩尾望都や山岸涼子や吉田秋生などのマンガは別ですよ)。

20061226_21  そもそも少年漫画はーーー特に「少年ジャンプ」は、八十年台以降、膨大な女の子の読者を取り入れることにより、巨大な存在に成長したとも言えます。だから逆に、少女漫画が男性読者を意識した作りになってきたとしても、不思議ではありません。

 男目線でも読める少女漫画。恋愛よりも夢や友情を丁寧に描く少女漫画。そういう作品は、今後もっと増えていくだろうと思います(むろん、女の子の気持ちを描く、というのが大前提の話でありますが)。

 

 うーん。

 読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、なんというか、これというか、考えさせられますね。

  

 羽海野チカ作「ハチミツとクローバー」、

 二ノ宮和子作「のだめカンタービレ」、

 矢沢あい作「NANA」は、

 東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2006年12月21日 (木)

「ゴルゴ13」のダンディズムは限りなく美しい

20061221_143 たくさんの人が読んでいます。若い人も読んでいます。今も人気があります。私も好きです。昔読みました。買い揃えました。繰り返し読みました。今読んでも感動します。将来も読んでいると思います。そんな漫画だと思います。

 さいとうたかお作。「ゴルゴ13」のコードネームをもつ超A級スナイパーの物語。彼はデューク・東郷の名を使うが本名は不明。大戦中に子供時代を送り、日本人の血を引いているらしい。小学館「ビッグコミック」1968~連載中。原稿枚数では日本一。単行本巻数では秋元治「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に先を越されたが、それでもりイド社SPコミックスで既刊143巻、20061221_142 文庫版も刊行中。

 つかこうへい先生は「マンガ名作講義」の中で「ゴルゴ13」について次のように書いています。

 もう連載が始まって長く、単行本で143巻にのぼるこの作品は、何よりも主人公ゴルゴ13の絶対的なヒーロー性とそのダンディズムにおいて追随するものがないため、これだけの年月読者の共感を得続けている。

 20061221_141彼がどのような困難に向かおうとも、あるいはどれほど優しい女に出会おうとも、決して恐怖や情に揺らぐことなく、依頼された仕事を必ず果たし、標的を殺す。だれにも何にも属さず、彼は彼自身のルールにひたすら従い、仕事をこなし、決してしくじることはない。その姿はまさにダンディズムを体現している。

 劇画というジャンルはダンディズムを語るには最適だ。それは、たとえばクローズアップの手法によるところが大きい。ここという場面でクローズアップされたゴルゴ13の、冷たい表情を見るたびに思う。それは、舞台で役者の顔をスポットで抜くよりも、あるいは小説でことこまやかに描写するよりも、はるかに効果的で、うらやましいと思うこともあるくらいだ。

20061221_120 ダンディズムを語ろうとする時、思い出すことが三つある。ひとつは、日本の野球審判の二出川という人のことだ。優れた審判として有名だった彼が、ある試合で副審たちとアウトかセーフかでもめてしまったことがあった。副審たちは「ルールブックを読んでいないのか」と詰め寄ったが、彼は冷静に「オレがルールブックだ」と言い放ったという。主審という立場を生きようとする強固な意志を感じざるを得ない。

 二つ目はロールスロイス社の話だ。

20061221_117 ある男がロールスロイスを駆って砂漠を走っていたところ、砂漠の真ん中でシャフトが折れてしまった。オフロード向きでない同社の車では仕方ないことだろう。その男が、電話で修理を要請したところ、その日のうちに修理工がやってきて、直してくれた。その対応の早さに感激し、「修理代は?」と尋ねたところ、「ロールスロイスのシャフトは折れません」と、代金を取らずに去ったという。彼らの、自社製の車に対する誇りが、たとえ砂漠向きの車であろうとなかろうと関係ないという姿勢に表れて、見事だといえる。

20061221_116 そして三つ目がゴルゴ13である。

 彼のルールは様々にあり、「手を預けることになる握手はしない」とか、「オレの後ろに立つな」といったものは有名だ。しかし、彼のダンディズムを最も表しているのは「人をころすときは人を殺すのではなく、ひとつの作業を終えると考える」ということばだ。そうすれば、何の恐れもなく、また気持ちが揺らぐこともなく引きがねを引くことができる。一流のスナイパーとして何百人もの人間を殺し、なおかつまゆ一つ動かさずにいられる彼の、やせがまんをしないダンディズムが端的に表された一言だと思う。それは、限りなく、美しいまでの姿だといえる。

 日本のダンディズムを支える作品として、これからも続いていくだろう。

20061221_140

 うーん。

 あなたもダンディズムを味わいなおしてみますか?

 読み返したいですか?

 さいとうたかお作「ゴルゴ13」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2006年12月20日 (水)

「あしたのジョー」を読んで「男のロマン」に憧れるのはむしろ女性かも

20061220_  東京漫画探偵団には「格闘技まんが」コーナーがあります。柔道、空手、プロレス、ボクシングその他格闘技のマンガがいっぱいです。男性のみならず女性のお客様にも結構人気のあるコーナーです。マンガだけではなくて本物のボクシンググローブやサンドバッグのミニチュア、かつてのプロレスラー「ムタ」・「獣神サンダーライガー」のフィギュアなども置いてあり、皆さん面白がってくださいます。なぜって?何を隠そう、何年か前に閉店したプロレス&ボクシングショップ「リングサイド」は東京漫画探偵団の姉妹店だったからなのです。なつかしーっ。

 その「格闘技まんが」コーナーのなかでも、幅広い年代によく読まれているマンガに、高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」があります。

20061220_5  東京のドヤ街にふらりとやってきた矢吹丈は、丹下段平に見込まれてボクシングを始める。少年院で知り合った力石徹やカーロス・リベラといったライバルと死闘を重ね、ついに世界チャンピオンホセ・メンドーサと対決する。講談社「週刊少年マガジン」1968~73年連載。「巨人の星」連載中の梶原一騎が高森名で執筆。講談社文庫全12巻ほか。集英社全集16巻では手書きの「完」の文字がない。近年、再録連載誌「ジョー&飛雄馬」も好評を博した。

 北川悦吏子先生は「マンガ名作講義」の中で高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」について次のように書いています。

 中学生の頃、私の理想の男性は矢吹丈だった。そして、私の憎むべきキャラクターは白木葉子だった。どうしても、乾物屋の紀ちゃんに肩入れしてしまうあたり、自分は生まれながらにして庶民なのだろうと思う。さて、今回この欄を書くになって改めて「あしたのジョー」全16巻(長い!)を読み返した。 

 最初のほうを読んでいると、うん、まあねえ・・・・ジョーが理想だったのは、私がまだ若かったからよねえ、なんつったって思春期、右も左もわからない田舎の中学生だったんだもんねえ、ジョーなんか今読み返したら青い青い、とたかをくくっていたが、どんどんカッコよくなっていくのである。回を追うごとにジョーの顔が変わっていく。

20061220_12  私は昔と同じようにジョーにのめり込んでいく。

 そして全16巻を食い入るように読んでしまったのである。

 ああ、葉子が自分から「好き」なんて告白するシーンがあるじゃない!(このシーンはすごくいいです) 葉子も結構いいやつだ! かっこいいぞ。西と結婚しちゃった紀ちゃんより、いいかもしれない、とか昔思わなかった、いろんなことを思った。.

 そして、やっぱりいまだにジョーは自分の理想の男の人なんだと思う。

 野生で闘争心に燃えていて、へへッおっちゃんよお、と笑って、絶対に人の顔を見て「ありがとう」と言わない。

20061220_5_1 ジョーが「ありがとう」という言葉を言うときは、いつもその人の方を見ていない。

 そういうところが好きだ。いったんリングに上がると熱いけど、人といる時はシャイでストイックでクール。

   私は「あしたのジョー」を読んでいると、いつも葉子よりも紀子よりも、おっちゃんよりも、力石がうらやましい、と思う。

 どうしたって、結局ジョーの心の中を一番、占領していたのは力石だから。ジョーと一緒に生きて戦ったのは力石だと思うから。

 「あしたのジョー」の中には、男の世界のことなんだから、女が口を出すんじゃない、というセリフがたくさん出てくる。

 たいてい、それを言われているのは白木葉子なんだけど。

 現代、こういうことを言う男の人は嫌われることになっている。男女差別。

20061220__1 しかし、ボクシング、拳闘、女が絶対に上がれないリングの上、ということで、「あしたのジョー」の中では、かえって、こういうセリフ、または世界観が映える。

 男のロマンという言葉があるけど、普段、そんな言葉に辟易している女の子たちも、あしたのジョーの中の男の世界は別だと思う。本当は女性たちこそが、「男のロマン」に憧れているのではないだろうか。

 自分が絶対に立ち入れない世界。自分が見ているジョーが見ているのは、四角いリングだけ。

 たぶん、好きな女のことを考えている時間より、力石のことを考えている時間のほうがずっと長いジョーが好きなんである。

 闘って闘って闘って、最後、満ち足りたやさしい顔をして死んでいくジョーは永遠の憧れである。

20061220__2 ムムッ。

 ムッ。

 ムッ。

 なかなかやるナ。

 ところで、あなたももう一度、「男のロマン」にひたってみますか?

 高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2006年12月19日 (火)

マンガ産業の2007年問題はコンテンツの充実によって解決できる?

 近頃マンガが目立っています。TVドラマをみても、映画を見ても、雑誌を見ても、マンガが原作、マンガを特集、といった具合ですし、世界に誇る日本の文化だという声も聞こえます。各地の美術館ではマンガやアニメの展覧会が盛んに開かれていますし、京都にはマンガの総合博物館として「京都国際マンガミュージアム」もオープンしました。 でも、一方ではマンガ雑誌の発行部数が下がっているというし、若者のマンガ離れという言葉を聞くこともあります。漫画の世界の過去、現在、そして未来については私たちの最大の関心事といえるでしょう。

 いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 未来は明るいのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

20061219_2007 中野晴行先生は著書の「マンガ産業論」の中で次のように書いています。

 マンガ「産業」が抱えている問題に「2007年問題」がある。2007年に、ベビーブーマーの最初の一陣のおよそ220万人が60歳を迎え、定年退職するのである。マンガ世代を引っ張って来た彼らがこれほど大規模に現役引退をするのはこれは初めての経験だ。毎週駅でマンガ雑誌を買うこともなくなり、マンガについての「共通の話題」を職場でかわすこともなくなるだろう。会社や学校などの組織に属する人間は共通の悩みや願望があり、一種の連帯感を持つ。マンガには共通の悩みに対するはけ口といった面があり、共通の現実に対する不満や不安に対して、マンガの世界ではそれを克服できることが、マンガの人気の根源であった。日本のマンガ人口拡大を引っ張ってきた消費者集団は、このベビーブーマーである。彼らが、大人になればマンガは読まない、という壁を乗り越えたからこそ、マンガは彼らの生長とともに表現の幅を広げ、市場を拡大してきたのである。しかし、社会から引退した後もやはりマンガを読み続けるのかどうか?そうでなければ日本国内のマンガ市場の拡大はここで終わることになる。

 しかし、現役を引退した後もベビーブーマーたちをマンガ市場にとどまらせることが可能なら、少なくともあと、10年、20年の間ならマンガ市場は拡大を続けるはずである。それだけの時間があれば、従来の市場モデルを再構築することができるかもしれない。

20061219_2007_1 マンガ世代の上限が60歳を迎えることによって、マンガ読者の幅は少なくても小学生から60歳まで広がる。ここまで広がってしまった段階では、マンガのマーケティングは大きく変容するはずである。そこで予測されるのは、子供のマンガ、思春期のマンガ、若者のマンガ、働く若者のマンガ、働く中年のマンガ、シルバー世代のマンガ、といった世代別の戦略がはっきりした雑誌や本が増えるだろうということだ。世代別の思考にあわせたマーケティングを進めることができるのだ。販売ルートなども、それぞれの世代の行動パターンに合わせて、駅売り主体、コンビに主体など、効率的な配本が可能となる。

 マンガは長い間、読み捨て文化によって支えられてきた。次から次に新しいマンガが登場して、旧作は消えていった。しかし60年にわたって蓄積されたコンテンツをスクラップになった車のように捨ててしまっていいのだろうか。古くて捨てられてしまったマンガも若い人たちにとっては、今のマンガと違った新鮮なものに映る。ハリウッドではリバイバルやリメイクがヒットを作る主要な手法の一つになっている。マンガ産業は60年だがコンテンツの豊富さでは映画産業に負けてはいない。漫画家や出版社は手持ちのコンテンツをもっと積極的にリメイクしたり、リバイバルしたり、映像化するように動くべきなのだと思う。

20061219_2007_2 マンガ産業の外側に大きく広がっているマンガ関連市場も実はそれを欲している。マンガこそがコンテンツの宝庫なのだ、と気がつき始めた若いクリエイターも多い。マンガが産業として拡大していく上で、何よりもこの60年の蓄積が貴重なのだ。蓄積してきたものを生かせるのか、結局使い捨てのまま終わらせてしまうのか、が将来のマンガ産業を大きく変えてしまうはずである。

 一方でここまで成熟したマンガ市場に対して今後どのような作品が送り出されるべきなのかという課題もある。特に60年の人生を送ってきたベビーブーマー読者を満足させられる新作がこれからもコンスタントに送り出されるのだろうか。

 漫画家という仕事は思いのほか体力を使う。手塚治虫、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎という戦後マンガの旗手たちが60歳という若さで次々となくなったとき、ハードな仕事を続ける漫画家には相撲年齢(力士の寿命が普通より短いことを言った)と同じようなマンガ年齢が存在するのではないかとといわれたものだった。漫画家にも大きな世代交代の波が来るだろうが、若い漫画家が熟年読者を感動させる作品を提供できるかが問題なのである。

20061219_2007_3 ひとつの方法としては、原作者を増やすことが考えられる。それも社会人経験のある人たちの中から埋もれた才能を発揮して原作の技術を身につけてもらうのである。人材の発掘と育成である。マンガを扱う出版社がせめて投資のつもりで原作者を育てる教室を作れないものか。描き手の育成は外部の学校に任せるにしてもコンテンツの核となる原作者の育成は自らの手で行うべきだろう。

 絵はバリバリ描ける若手でよいのだ。ストーリやねーむにはマンガ以外の経験が大きく関わってくる。そこは人生経験のある原作者で補うのだ。そのうちに漫画家のほうにもストーリーづくりのテクニックがついてくるだろう。

20061219_2007_4 これまでマンガ産業はほとんど自前の育成をしないままで大きくなってきた。マンガ産業は獲物を追って移動する狩猟民族時代のような産業だったとも言える。消費者の上限が60歳を迎えようとしている現在、狩猟型の経営から農耕型に移行するべき段階になったのだ。種をまき、耕すように、コンテンツの作り手、そしてコンテンツを育てなければならない時代はもうすぐそこまで来ている。

 うーん。

 読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、なんというか、これというか、考えさせられますね。

  

 でも、東京漫画探偵団(まんたん)はいつも変わらずマンガを愛し続けます。そしてマンガを愛する人とともにマンガを応援し続けてゆきます。

 なぜなら、

東京漫画探偵団(まんたん)は

マンガ好きのための開放されたコミュニティー
マンガを通じて解放される自分
今日の栄気を養うビタミンスペース

でありたいからです。

 つまり、

純(ピュア)まんが喫茶  /  まんがの心音(こころね)を感じるお店

であるからです。

 

 

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2006年12月18日 (月)

二ノ宮和子先生はマンガで扱うのが難しい音楽をどのように描いたのか

20061218__1  マンガは面白い。マンガは生活の一部ともいえます。描き手は読み手に対して、マンガを通して感動を与えてくれるし、人生を教えてくれます。だからこそマンガの描き手にとって「何を描くか」ということが重要です。同様にマンガの描き手にとって「どのように描くか」も重要でしょう。マンガの読み手にとっても、描き手にとっても、またこれから描こうと思っている人にとっても「どのように描いているのか」は大変興味のあることです。

 読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景とはいったいどんなものなのでしょう。おそらくその答えは多種多様だと思います。十人十色かもしれません。しかしながらその脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

20061218_ 夏目房之介先生は著書の「マンガは今どうなっておるのか?」の中で次のように書いています。

 二ノ宮和子が、「のだめカンタービレ」を始めたとき、こいつはすげぇテーマを選んじゃったな、と思った。何しろ、天才的な音楽大学生が指揮者になろうと決心し、学生同士でオーケストラをやる話なのだ。ただでさえマンガで音楽を扱うのはむずかしいのに。ピアニストを描いたマンガならさそうあきら「神童」があるし、ロックバンドの話ならハロルド作石「BECK」もある。けれど指揮者を中心にオーケストラを描こうとするマンガなんて初めてじゃなかろうか。

20061218_16_1  僕は二ノ宮の「平成よっぱらい研究所」(祥伝社96年)が大好きで、いくつかの特別なマンガとともに今もベッドサイドに置いてある。「笑い」のセンス、ツボが僕好みで、何度読んでも笑う。酒飲みの破壊的でどうしょうもない日々を徹底的に描くエッセイマンガである。胃潰瘍で血を吐いても毎日飲み続けてしまう「人のソコの抜け方」が不思議と読むものを許し慰め、おまけに笑かしてくれる。「そうかぁ、おれ明日もやっていけるかなぁ」という気分になる。「生きる勇気のわくマンガ」(笑)なのだ。

 その二ノ宮が、一体どうやって指揮者とオーケストラのおりなす音楽の世界を描くのだろう。俺は面白いけど、わかりにくくないかなぁ。そう思っていたら、あれよあれよという間にヒットチャートにのるほどの人気作になってしまった。そうか、これって誰でも面白いのだ。

 ヒーローの天才音大生・千葉真一は、周囲から海外留学が当然のエリートと思われているのに飛行機恐怖症のせいで留学できずに落ちこぼれてしまう。一方ヒロインの野田恵(のだめ)は音大生としちゃ完全にダメ生徒で、部屋はゴミ箱同然。勝手に千秋の部屋にきて食事を作らせ、何日も風呂に入らないのでくさいと風呂に投げ込まれ、でも自分は千秋の彼女だと思い込み、学園の貴公子「ちあき様」に憧れる女どもの反感を買う。人のいうことを聞いておらず、譜面もろくに読めないのに、勝手に弾くと千秋がびっくりするような才能を発揮する。

20061218__2  このヒロインのだめに、「平成よっぱらい」の二ノ宮の真骨頂が出ている。少女漫画とは思えない「汚くてだらしないヒロイン」で、いくらギャグとはいえ大丈夫かと思わせた。事実、連載当初は人気が上がらなかったらしい。次第に人気が出て少女マンガ売れ行きベスト10にのるようになり、「ダ・ヴィンチ」で特集されるようになる。ヒロインがこれほど逸脱していなければ少女マンガ的な「貴公子・ダメ女子」構図なのだろうが、のだめのキャラが少女マンガのベクトルからズレているために、千秋・のだめの落差が奇妙な違和感と魅力をもち、読者を引っぱる。

 そこに、大酒飲みでとんでもなくスケべなセクハラおやじのくせに、実は世界的な指揮者、巨匠・シュトレーゼマン(またの名をミルヒ・ホルスタイン)があらわれ、なぜかのだめの尻を追いかけ、気がつくと千秋の師匠となり・・・・話はどんどん、どしゃめしゃに発展してゆく。僕なんぞはこのシュトレーゼマンの人を喰った奇人ぶりが大好きだ。マンガとしても、この3人がからんでから馬力が出てくる。

 音大生の中の落ちこぼれを集めた楽団を千秋が指揮してエリート集団との対決があって盛り上がり、主人公たちが卒業して、ついに千秋とのだめまで海外に飛び立つ。物語は最初の設定からかなり離れ、学園ものドタバタから欧州を舞台の「千秋・のだめの恋」ぶくみの展開に入っているが、相変わらず面白い。

20061218_200  どうやって音楽そのものをマンガで表現するかが音楽マンガの見どころだったりするが、「のだめ」の場合、そういう表現技法的な革新性はあまりない。というより、音楽の表現としてはむしろ平板で凡庸なものにとどまっている。「のだめ」の面白さは逸脱したキャラの人間関係に重点があり、その面白さを描くことで間接的に「オケストラ」(のだめ風発音)を描いているといっていい。そう、オーケストラではなく「ベトベン」を演奏する「オケストラ」の話なのだ。

 でも、こういうとんでもない主題を描くマンガを見るたびに僕は「マンガってすげぇなぁ」と思う。何にせよ、クラシックの楽曲がいろいろ出てくる指揮者の話を、キャラの面白さで人気マンガにまでしてしまうのだ。しかも多分20061218_201クラシックに全然居見のない読者も、それを不思議とも思わず読んでいる。描かれた楽曲を集めたCDは初回ロットが即日完売したらしい。ほんとにすごいのは、そんなメディアとしての「マンガ力」のほうかもしれんなぁ。

 ほんとうですね。マンガの力というのはすごいですね。

 そのすごい力を創り出しているマンガの描き手はやはりすごいと思います。

 マンガの描き手にとって「何を描くか」ということが重要で、同様にマンガの描き手にとって「どのように描くか」も重要でしょう。なるほど、なるほど。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 二ノ宮和子作「のだめカンタービレ」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2006年12月17日 (日)

マンガの世界は縮小しながら静かに両極化しつつある?

20061217__12 20061217__8  近頃マンガが目立っています。

TVドラマをみても、映画を見ても、雑誌を見ても、マンガが原作、マンガを特集、といった具合ですし、世界に誇る日本の文化だという声も聞こえます。

各地の美術館ではマンガやアニメの展覧会が盛んに開かれていますし、京都にはマンガの総合博物館として「京都国際マンガミュージアム」もオープンしました。

20061217__10 でも、一方ではマンガ雑誌の発行部数が下がっているというし、若者のマンガ離れという言葉を聴くこともあります。

 いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

20061217__11

そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 島田一志先生は、著書である「ワルの漫画術」の中で次のように書いて20061217__9います。

 今の動きを見ますと、なんとなく日本の漫画が盛り上がっているように感じますね。でも実際は違います。これまで業界で「一人勝ち」といわれていた漫画の世界にも、出版不況の波は確実に押し寄せています。

 ではなぜこんなにも多くの雑誌が集中して漫画の特集を組んだのか。

20061217__13  私が思うに、その裏にあるのは、少女漫画「ハチミツとクローバー」「NANA」「のだめカンタービレ」の社会現象的な大ヒットです。あるいは、西島大介や五十嵐大介といったカルト作家の登場と再評価です。鬼才・安野モヨコに孤軍奮闘的な大活躍や、大場つぐみ+小畑健の「DEATH NOTE 」の熱狂的なブームも少なからず関係しているのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらは巨大な漫画業界全体から見たらあくまでも一部の話でしかありません。それらは、質においても量(発行部数)においても希望の光ではありますが、決して漫画業界全体が盛り上がっていると考えてはいけません。出版社の人間は浮かれてはいけませんし、漫画ファンは惑わされてはいけません。雑誌が特集しているのは、この「漫画の冬の時代」に突然変異的に生まれた一部の怪物作品ばかりなのですから。

 残念ながらーーーと書くべきかどうか現時点ではわからないのですが、漫画の世界は今、規模を縮小しながら静かに変貌しています。今後の漫画は、その作風(傾向や戦略といっても良いです)の両極化がどんどん進んでいくだろうと思います。それに伴い、多くの無個性な作家が淘汰されていくのは間違いないでしょう。

20061217__7 漫画の両極化。つまりそれは、前述の作品で言えば「NANA」や「DEATH NOTE」のような「従来の枠を超えてしまうほどの大メジャー」か、西島大介のように描き下ろしやそれに近いスタイルでも読者がついてくる「アンダーグラウンドのカリスマ」か、そのいずれしか生き残れないだろうということです(少し前なら、私は、前者を井上雄彦の「バガボンド」に、後者を花輪和一の「刑務所の中」にたとえていました)。どちらも、強烈な個性を持った作家や作品という点では共通していますね。

 もちろん、こういうことは昔から言われていたことではあります。メジャーな「ジャンプ」「マガジン」の一方では、「COM」「ガロ」というカルト雑誌の存在があったわけですから。しかし八十年代から九十年代末にかけての漫画雑誌バブル期には、そのメジャーとマイナーの間に位置する中間層ーー中途半端な内容の雑誌や作品も膨大にありました。繰り返しになりますが、今後漫画の両極化が進むにつれ、そういう作家性のない作品はすべて消えていくことでしょう。 

 厳しいようですが、私は、別にそのことを悲観してはいません。むしろ、これからの漫画は面白くなる、とさえ思っています。シビアな時代だからこそ、本当に面白い作品しか生き残れないと思うからです。

20061217__14  又、そういう時代の漫画はメジャー・マイナーを問わず、雑誌連載よりも単行本(コミックス)刊行に重きをおいた作り方になっていくでしょう。もともと先見性のあった「アフタヌーン」誌は創刊以来この方針を貫いていますし(一時期、雑誌のオマケとしてフィギュアをつけていた企画は、その方針の延長上にあると思います)、現在の「少年ジャンプ」も、どちらかと言えば「コミックス中心主義」に移行しつつあるように見えますね。

 まだまだ刊行数は少ないのですが、松本大洋(「GOGOモンスター」)や西島大介(「凹村戦争」「世界の終わりの魔法使い」)が挑戦した「描き下ろし単行本」は、ある意味ではその究極の姿だとも言えます。

 うーん。

 読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、なんというか、これというか、考えさせられますね。

  

 でも、東京漫画探偵団(まんたん)はいつも変わらずマンガを愛し続けます。

 なぜなら、

東京漫画探偵団(まんたん)は

マンガ好きのための開放されたコミュニティー
マンガを通じて解放される自分
今日の栄気を養うビタミンスペース

でありたいからです。

 つまり、

純(ピュア)まんが喫茶  /  まんがの心音(こころね)を感じるお店

だからです。

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2006年12月16日 (土)

永井豪先生はマンガを描くときにストーリーを最後まで決めない

 マンガを描く人はスゴイと思います。あんな面白いことを創り出すなんて。あんな美しいものを描き出すなんて。あれほどまでに悲しい世界や怖い世界が、頭の中にあるのでしょうか?人一倍思いやりをもっていて、でも同時にあきれるほど残酷だったりしている、そんなハートの持ち主なのでしょうか?読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景とはいったいどんなものなのでしょう。おそらくその答えは多種多様だと思います。十人十色かもしれません。しかしながらその脈打つ実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思います。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

20061216_  永井豪先生は、著書の「デビルマンは誰なのか」の中で次のように語っています。

 ストーリーマンガには、ギャグマンガと違う面白さがあった。それは、キャラクターが僕の思惑を超えて育っていく、ということだ。「デビルマン」でいえば、一番僕の予想を超えて変わっていったのは飛鳥了だった。ストーリーマンガを書いていると良くこういうことが起こる。その最初の体験が、最後まで描きあげた最初のストーリー連載、「デビルマン」の飛鳥了だったのだ。

 「デビルマン」の飛鳥了は、チョイ役ですぐ死ぬはずが、大魔王サタンにまで成長してしまった。 キャラクターが思いもかけない変貌を遂げる一番の理由は、僕が「ストーリーを最後まで決めない」からだ。まず、そうしたほうが絶対面白い作品になる。次に、そうしたほうが描いていて自分が面白い。又、デビュー以来ずっと締め切りに追われていたので、ストーリーを最後まで考えて、それからネームをやるような時間の余裕がない。だから、ネームを紙に起こしながら、ストーリーを作っていく。主要なキャラクターの性格をとことん突き詰めて、「こいつならどうするだろう?」「こいつにこんなことをさせたら面白いな」と考えて、ドラマを進めていくのだ。

20061216__1  これは長編連載に限らず、短編でもそうだ。たとえば「ススムちゃん大ショック」というSF短編がある。「親が子供を殺しちゃって、それが日本中で同時に起こったら怖いな」と思って、すぐネームを描き始めた。ススムちゃんがマンホールの下の下水道を走っているイメージが浮かんだので、後はどんどん転がして言ったのだ。ラストを考える時は「ススムちゃんはいい子だから、周りの仲間が止めても親を信じて家に戻るだろうな。生かせてあげよう」と思い、帰らせてあげた。そうしたら、なんとお母さんに殺されてしまった。「ありゃーこうなったか」と、作者もびっくりである。

 こう書くと、まるでストーリーがどこからか降ってきたみたいだけれど、そうじゃない。たぶん、こういうことだろう。ストーリーを進めていくと、次第に先の選択肢は少なくなっていく。一方で「面白くしたい」「意外性を出したい」「キャラクターに矛盾は持たせない」「予定ページ数で終わらせなくちゃ」などの条件がある。すると頭の中では、無意識のうちに何百何千ものストーリーがシュミレートされ、取捨選択されて、最後に条件を全部満たすものが、いいアイデアとして浮かび上がってくるのだ。そしてもう一度、そのアイデアを冷静な目で再検討して、「やっぱりコレやー!」と自信がもてたら描く。たぶん、将棋を指す人も同じことをやっているのだと思う。

20061216__2  全部の条件を満たすアイデアが浮かぶと、同時にそのシーンがビジュアルに浮かんでくることがある。「ススムちゃん大ショック」の場合は、ススムちゃんの首の絵が浮かんで、「あ、これで終わるとカッコいいな」と思った。「カッコいい」というと誤解されるかもしれないが、要するに意外性があり、インパクトもあり、強烈なメッセージもあり、きれいにページ数もまとまるエンディングだったのだ。もちろん、必ずしも浮かんだ絵をそのまま描くわけじゃない。最後に、必ず、作品全体にバグがないかどうか検証して、この場合はこのシーンで終わるのが一番いい、と判断したら描くのだけれど。

 漫画家の中には、最後までストーリーができていないと不安で描き始められない、という人もいるらしい。でも自分には、ストーリーを決めないやり方がとてもあっている。あらかじめあんまりガチガチにストーリーを決めてしまうと、描いていてちっとも面白くないのだ。急にアドリブを入れてみたり、予定より長くなったり短くなったり、ハプニングがあったり、ちょっと失敗したり、思わぬ人が急に目立ったり。そういうことが起こるから、僕はマンガを描いていて楽しいのだ。「やっぱり、マンガはライヴだな」とつくづく思う。

 

 なるほど、なるほど。書き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう書いていますか?

 永井豪作「デビルマン」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2006年12月15日 (金)

「リアルな感動」ちばあきお「キャプテン」

408617062009 皆様はじめまして。まんが喫茶東京漫画探偵団スタッフ・ うえむらと申します。

これからこのブログ内にて お店に置いてある漫画を
新旧問わずどんどん紹介していく予定ですのでどうかよろしくおつきあいください。

今回ご紹介するのはちばあきおの「キャプテン」。
初回ということでスタンダードに少年漫画の王道、野球漫画のご紹介です。

舞台は荒川が流れる東京下町。
野球の名門・青葉学院から墨谷二中に転校してきた主人公・谷口タカオは入部した転校先の墨谷2中野球部で「あの青葉から来た」ということからすごい実力の持ち主だと部員から誤解されてしまいます。しかし、彼は青葉では補欠でした。それも二軍の。
気が小さくて本当のことを言い出せず、困った彼は
父親に協力してもらって特訓することになります。

この漫画にはいわゆる少年向けスポーツ漫画に
ありがちな「天才」は出てきません。
野球の腕もそこそこで、気が小さかったり、短気だったり、
無愛想だったり、空気が読めなかったりする、
いかにもそのへんにいそうな中学生たちが、
仲間と一緒に努力して成長してゆく物語です。

すごい必殺技やかわいい美少女ヒロインなどももちろん出てきません。地味といえば地味な漫画です。しかし、決して退屈ではありません。その親しみやすいキャラクターが、
リアルな感動を伴って私たちにせまってくるからです。
その感動は「もしかしたら自分も頑張ればできるかも」という気持ちを読者の胸におこしてくれます。


主人公・谷口くんは、凡才であるがゆえにとても真摯な努力をします。影の努力を怠らなかった彼は実力をつけ、2年の終わりに先輩から次期キャプテンに選出されます。そして、徐々にリーダーシップを発揮し、とにかく「がんばる」ことでチームを引っ張っていくことになります。そして彼が卒業し、主人公が後輩にバトンタッチされた後も、その「谷口イズム」は後輩たちに継承され、墨谷二中は強豪校の仲間入りを果たしてゆくのでした。

少年漫画におけるスポーツものは、
とにかくバトルー「戦い」-に重点が置かれがちです。
とにかくすごく強いキャラクターばかりが主人公の周りに現れ、
それを平然とうち負かす主人公という図式がどんどん
作品中の「強さ」のインフレを引き起こしてゆき、
もうすでにそのスポーツ競技を超えたスーパーマンだらけの
超人オリンピック状態
と化してしまった漫画のなんと多いことか。

もちろんそういう漫画にはそういう漫画の楽しみ方がありますし、面白さのベクトルを否定するわけではありません。しかし、昨今の子供たちの特性として挙げられる「根拠のない自信」はこのような漫画の影響もすくなからずあるのではないかと感じます。


本当の自信というものは「これだけやった」という努力によって生まれるということを知ってもらうためにも、大人だけでなく現代の小中学生にも是非読んでもらいたい漫画です。
   

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2006年12月14日 (木)

「ドラえもん」の「のび太」はダメ人間ではなく実は人生を上手に歩んでいる

 マンガは面白い。真面目に読んでも不真面目に読んでも面白い。また、気軽に読んでも真剣に読んでも面白い。その上、朝読んでも夜読んでも面白い。さらに、海で読んでも山で読んでも面白いし、しらふで読んでも酔っ払って読んでも、もちろん面白い。だからマンガを読むのは楽しい。

 面白くて、楽しいからマンガを読みます。でも、面白くて楽しいからだけでマンガを読んでいるのではないのです。時にはマンガから人生を学ぶことがあるのです。マンガの登場人物から人生を教えてもらうことがあるのです。

20061214__4  「ドラえもん」は面白いです。好きです。世界中で読まれています。その「ドラえもん」から人生を学ぶことがあります。「ドラえもん」に登場するあの「のび太」から人生を教えてもらうことがあります。

 横山泰行先生は著書の「<のび太>という生き方」の中で次のように書いています。

20061214_ のび太は、クラスで一番美人の静香ちゃんと結婚し、

 映画では、大活躍してヒーローになります。

 困ったことがあると、誰かが必ず助けてくれる。

 どうしてのび太は、努力もせず、人生の「勝ち組」になれたのでしょう?

 なぜ、ダメなやつの代名詞、のび太の夢ばかりが叶うのでしょう?

 のび太は、勉強に関してもクラスの最下位を堅持し、野球の打率0.01が物語るようにスポーツも苦手な、まったく冴えない男の子です。ジャイアンやスネ夫はもちろんのこと、地域の子供たちからも日常生活でいじめられることが決して少なくありません。また、のび太のママやクラスの担任の先生からも、叱られるのはもはや日常茶飯事となっています。

20061214_gif3  そんな何もかもうまくいっていない子という印象の、「ダメのび太」ですが、私は「ドラえもん学」を研究していくなかで、のび太という男の子は、実は想像以上に人生を上手に歩んでいるのではないか、と思ったのです。

20061214__1 のび太がいじめられっ子であるというのは客観的な事実ですが、後半で発表された大長編の冒険では、彼は友達に信頼され、ときにはドラえもんに代わって集団の中心人物としてリーダーシップを振るうこともあります。勉強や運動は確かに苦手ですが、どんなにノロマでドジであるといわれても、集団のかけがえのない一員として認められています。あのジャイアンやスネ夫も、のび太を大切な仲間として、遊ぶ時には必ず声をかけています。のび太のママや先生からは、いつも叱られていますが、のび太を見放したことは一度もありません。さらに、念願かなって、みんなのマドンナ・しずかちゃんを生涯のパートナーとして射止めるのです。

20061214__2  このように、のび太は人生の重要な節目においては着実に希望をかなえ、負け犬・のび太から勝ち組・のび太に変身しているのです。

 「夢」というキーワードは、「ドラえもん」マンガにおける最大のコンセプトです。われわれ大人にとっても身近でかつ深遠な問題に対するメッセージが、ふんだんに組み込まれています。結論的に言えば、藤子先生からの価値あるメッセージは、「生涯夢に憧れ続ける心を失うな」というフレーズに集約することができるでしょう。

20061214__5  のび太は日本を代表するようなダメな男の子でしたが、ドラえもんの存在や秘密の道具の登場、そしてのび太自身の努力によって、目を見はるような成長を遂げます。それは、従来のぐうたらな「黒いのび太:負け犬ののび太像」から、勇敢で心の広い「白いのび太:勝ち組ののび太像」に変身することです。つまり、ドラえもんのサポートにより、のび太が夢を憧れ続ける心を失わなかったため、白いのび太を大きく伸ばすのに成功したのです。

20061214__3  ここで大切なのは、ドラえもんの存在や秘密の道具はあくまでも補助であり、最終的には、のび太本人の自覚や努力が新しい人生を切り開いたということです。人間というものは、夢に憧れ続ける心のエネルギーが枯渇すると、年齢に関係なく、たちどころに人生の青春の終焉を迎えてしまいます。夢や希望が人生においていかに大切か、のび太やドラえもんはいろんな形でそれを私たちに教えてくれています。そして、この「のび太メソッド」こそが、あなたに対しても、夢をかなえる活力を与えることができるのです。どんなにちっぽけな夢でもかまいません。自分の夢や憧れを胸に、毎日を元気に歩け、と教えてくれているのです。そして自分の夢に向かってチャレンジし続けよう、と言っているのです。

 

  はい。   まったく。   よーく解ります。 

   うん。

   よしっ。

   今からでもいい。  「のび太」になろう

 さて

 あなたはどう思いますか?

 藤子・F・不二雄作「ドラえもん」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2006年12月13日 (水)

「ブラック・ジャック」は混沌の海を泳ぎ、硬質な輝きを放ち続ける

 たくさんの人が読んでいます。若い人も読んでいます。今も人気があります。私も好きです。昔読みました。買い揃えました。繰り返し読みました。今読んでも感動します。将来も読んでいると思います。そんな漫画だと思います。

20061213_ 手塚治虫作。ブラック・ジャックこと間黒男は、治療費はめっぽう高いが手術の腕は神業という外科医。相棒のピノコとともに、今日も世界のどこかで奇跡のメスを振るっている・・・・。秋田書店「週刊少年チャンピオン」1973~80年連載。少年チャンピオンコミックス全25巻、再編集版・文庫1 7巻ほか。90年代の第3次文庫ブームの口火を切り、文庫売上がそれまでの単行本売上を抜いた。TVアニメが放映され、作家競作のシリーズが描かれるなど、根強い人気がある。

 小池真理子先生は「マンガ名作講義」の中で「ブラック・ジャック」について次のように書いています。

 「理想の男性は?」と問われ、思わず「ブラック・ジャック」と口走りそうになってしまったことが何度かある。 医師免許を取得していない、モグリの天才外科医。人里離れた丘の家の一軒家の住人。世間に背を向けた、無口な思索者・・・。

 告白すると私の中では今もなお、ブラック・ジャックが男の理想形として、燦然と輝きながら生き続けている。彼はただの人気ヒーローではない。天才漫画家・手塚治虫がひそかに生命を宿らせてこの世に送り込んだ人物であると断言してもよく、私は今も、この地球のどこかに、あの寂しげな丘があって、そこにブラック・ジャックの隠れ家が立っている、と信じている。そしてその家ではブラック・ジャックがかわいい助手のピノコと共にひっそりと暮らしており、誰かの手術を依頼するために私が彼に電話をかければ、冷ややかな声で「やりますよ。その代わり、高いですぜ」などといってくるに違いない、と思っているのである。

20061213__1  初めて彼に出会ったのは、一九七三年。七十年安保闘争が完全に終わりを告げ、まさに「祭りの後」という雰囲気に包まれていた時代であった。 平和でのどかなのだが、どこかにかすかな痛みと寂しさ、拭っても拭いきれない疲れが残されていたような時代。私は一年浪人して大学に入り、吉祥寺にある四畳半一間のアパートで一人暮らしをしていた。 当時つきあっていた男友達が、あるとき、少年向け週刊漫画雑誌を部屋に持ってきた。暇つぶしにぱらぱらと中を読み、私はそこで初めて、連載されていた「ブラック・ジャック」を知ったのだった。

 一般的にに手塚漫画はヒューマニズムという言葉で括られることが多いようだが、私はそうは思わない。ヒューマニズムという言葉はどこか嘘くさく、軽々しく聞こえる。「ブラック・ジャック」とて同様であろう。ここに描き出されているのは人の優しさ、希望、愛、正義だけではない。むしろ真反対の負の要素が前面に押し出されているような印象を受ける。憎しみ、嫉妬、暴力、絶望、不運、痛み、孤独・・・・「ブラック・ジャック」はある意味で、非情な物語であるとさえ言えるのである。

 本来、人というものは混沌の中に放り出された無力な存在に過ぎず、生きていくためには誰しも自分なりに手探りで、混沌の海の中を泳いでいかねばならない・・・作者である手塚治虫が、この漫画を通して言いたかったのはそれだったのではないか。ブラック・ジャックはその混沌を生き抜こうとする男である。彼は決して諦めない。貶められ、裏切られ、不運の波にもまれてもなお誇りを失わず、自分が信じるものだけを信じ、何ものにも惑わされずにひっそりと、硬質な輝きを放ち続けるのである。

20061213__2 初期の「ブラック・ジャック」に「六等星」という題名の一編がある。花火大会に行った帰り、満天の星を見上げながらブラック・ジャックが、浴衣姿のかわいいピノコに自分の昔の体験を語って聞かせるところから話が始まるのだが、最後、話しを聞き終えたピノコはこう言うのだ。

 「先生って損のよね。いつもいつでもひといぼっちで人にきやわえて」

 そして彼女は、丘の上にパノラマのように広がる美しい星空を指さしてみせる。「ね。先生。あのずーっとはなえて、ひといぼっちで光ってゆのが先生のよね。そいれ、あの先生の横れ、くっついてちっちゃーく光ってゆのがピノコなのよのね。」

 百編を超える「ブラック・ジャック」の数々の物語のなかで、私はこのシーンが一番好きだ。どういうわけか、読み返すたび泣いてしまう。

 あなたも泣いてしまいますか?読み返したいですか?

 手塚治虫作「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2006年12月12日 (火)

「おさなづま」は作中マンガが泣けます

 男性を中心に幅広い年齢層に隠れた人気を誇るマンガがあります。「おさなづま」もそのマンガのひとつです。どん底から人気漫画家へのサクセスストーリーと、変態のだんな様の幼な妻としての苦節ストーリーとが同時に味わえるという豪華なマンガなのです。ちょっぴりエッチなところも随所にちりばめてあります。そしてなんといっても、「おさなづま」は作中マンガが泣けるのです。

20061212__6 森高夕次原作、あきやまひでき作画の「おさなづま」は双葉社「漫画アクション」に連載。

   主人公は16歳の幼な妻。 実家の工場の経営が悪化した時、信用金庫に融資の口利きをしてもらう為、当時信金マンだったロリコンで変態の「だんなさま」のもとに、中学を卒業したばかりなのに「嫁」に出されてしまう。近所の人に馬鹿にされ、テレビも洗濯機も買ってもらえない。虐待を受けながらもひたすら夫に尽くす主人公は、ある時、ふと少女漫画雑誌の「新人まんが賞」に応募する。そして大賞を受賞し、次に描いた「めぐみのピアノ」が雑誌に連載されて評判となり、国民的ヒット作となっていく。「めぐみのピアノ」を掲載している少女漫画雑誌の発行部数は天井知らずに伸びる。その出版社に留まらず、漫画界全般、そしてそれ以上に大きなところにまで影響を与えていってしまう。

 この漫画の主人公は「おさなづま」であり、その夫が中年の「ロリコン」で「変態」。さらに掲載が青年誌なのでその手のシーンもある。しかし 絵が絵なのでイヤらしくはない。ロリコン親父の「だんなさま」がまた、いい味を出している。毎晩のように「女体盛り」や「わかめ酒」を楽しんだり、殴る蹴るの暴行を加える。それでも耐えてひたすら「だんなさま」に尽くす主人公。見所はたくさんある。 

20061212__3 米沢嘉博先生は著書「マンガで読む<涙>の構造」の中で「おさなづま」について次のように書いています。

 「おさなづま」は不思議なマンガである。頭もあまりよくなく、これといって取り柄もない少女は、中学を卒業すると父親の借金のカタのような形で、ロリコン中年社長の妻になる。いじめられ、虐げられ、馬鹿にされ、それでも奉仕しようという少女だったが、ある日投稿したマンガが雑誌に入選、それに惚れ込んだ若い編集者によって、そのまま連載となる。この連載マンガ「めぐみのピアノ」は大ベストセラーとなり、アニメ化されると国民的人気を得、首相を涙させ、ハリウッドの映画監督までも虜にしていく。変わらないのは自分勝手で、ワガママな旦那様だけだった。

 少女漫画の不幸もの、少女のサクセスストーリー、ちょっとエッチなコメディー・・・、そうでもあるのだが、この作品のイントロは、かつて何度も描かれてきた貧乏で不幸な少女の悲しいドラマとして始まっている。そして、ついに「世界征服」を行う作中のマンガ「めぐみのピアノ」は、泣ける感動少女漫画なのだ。「古臭く、陳腐なのかもしれない。だが涙が出てきて止まらないのだよ」と、作中、このマンガの魅力に捕まった人たちは、ボロボロと涙を流しながら語る。

20061212__4  一本のマンガが人を変え、社会を変え、世界を動かしていく様は、バカバカしくSF的かもしれない。それでもこのマンガはリアリティを失わない。人を、人類を涙させ、一体化させる強烈なパワーを持ったフィクションが、悲しい少女漫画として設定されたのは不思議ではない。魂を揺さぶられる感動的な物語の普遍性は、時空間、個や国家を超えることを、実は誰もが解っているのかもしれない。そして大衆がそれをいつも求めていることもだ。しかし、僕らはまだ、「めぐみのピアノ」を持ちえていないのだ。

 他者の物語、フィクションの中に身をさらし、日常のノリや身分や地位、性差などあらゆるものを越えて、根源的な感覚に身をゆだねる時、すべては無化され、救済が行われる。その瞬間こそが、泣くことにはある。そして、フィクションはそうした身体的悦楽によって、人を異世界の中に一時身を置かせようとする。おそらく、それは理屈を超えた感覚でもあるのだろう。--悲しいマンガは、最も手っ取り早くそれを可能にする。そうして感動的なマンガは、単なる悲しみを超えて、そうした場所へと読み手を導く。それを知っているからこそ、読者は、何度も泣ける名作を読み返し、新たな感動を求めて、新たにマンガを読み続ける。時代が変わろうと、その需要がなくなることはない。そのことだけは間違いないことなのである。

 そうだ。私も読み返さなくっちゃ。

 森高夕次原作、あきやまひでき作画の「おさなづま」は東京漫画探偵団においてあります。

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2006年12月11日 (月)

「ガラスの仮面」は泣ける場面が多い

 「ガラスの仮面」を親子で読んでいる人もあちこち。30年にわたって連載されている人気マンガです。2回もアニメ化され、ドラマにもなった他に舞台でも演じられています。少女漫画の傑作に、ここまで支持が広がっているのにはわけがあるはずです。随所に「泣ける」場面があります。

20061211_  美内すずえ作。「ガラスの仮面」は「はなとゆめ」(白泉社)に1976年1月号から連載されているが、近年は休載が多い。略称は「ガラカメ」。

 親を亡くし、貧乏で元来何の取り柄もない少女マヤが、亜弓という金持ちで容姿・才能・家庭とすべてに恵まれている典型的なライバルと、演劇という舞台で戦っていく物語。演技の天才少女が花開き、才能を伸ばしていく様子を描いている。

 米沢嘉博先生は著書「マンガで読む<涙>の構造」のなかで、「ガラスの仮面」について次のように書いています。

20061211__1  不幸を描いた悲しいマンガや人情ドラマ、感動マンガ、泣けるマンガは、時代を超え、変わらず大衆によって支持されてきた。

 人はフィクションという虚構の中で、喜び、笑い、怒り、恐怖し、興奮し、悲しみ、といった感情そのものを楽しみ、建前や外っ面といったものから自由になる時間を求めているのではないだろうか。もうひとつの世界の中での解放。そして、物語の中で、人は日常には余り味わうことのない「感情」そのものを消費していく。

20061211__2  「ガラスの仮面」の始まりはあの懐かしの「悲しき少女漫画」のドラマを踏襲している。母親が死ぬ時、舞台で人形の役を務めるマヤが、仮面が外れ涙を流してしまうシーンなど、泣ける場面は多い。その構造上、マヤは幸福にならなければならないし、勝利しなければならない。だが、亜弓に焦点を当て始めた時、マヤこそが天才であり、努力は報われない場合もあることが語られ出す。亜弓のひたむきな努力が描かれるとき、読者の視点は揺らぐ。マヤは、巨大な壁として立ちはだかる絶対的存在となる。今や、マヤは悪役、敵として読むこともできる。天才と秀才の戦いに果たして決着はつくのか。--相対的視点が持ち込まれる時、読者の主体としての位置は揺らぎ、感情移入はあやふやなものとなっていくのだ。

20061211__3  どうですか?あなたも泣いてみませんか?

 美内すずえ作「ガラスの仮面」は東京漫画探偵団においてあります。「女性誌」4番の棚に全巻そろっています。

 

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2006年12月10日 (日)

ペプシマンの正体とは

そんなこんなで、ペプシマンには漫画喫茶に対する間違ったイメージを訂正して、もらうことができました。0612071_074

その上ペプシマンは漫画喫茶のことにすごく興味を持ってくれました。それがこのときの彼の行動です。

こんな彼の行動を見ていて、思わず

「ペプシマンさん。いったいあなたはどんな人なのですか?」

と聞いてしまったのでした。

すると彼は言葉で答える代わりに

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%97%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9#.E3.83.9A.E3.83.97.E3.82.B7.E3.83.9E.E3.83.B3

を見るようにと態度で示してくれました。

そこには次のように書いてありました。

 ペプシマン : ペプシマンは、 1996年に登場したコンピューターグラフィックを使  った日本独自のキャラクターである。金属的な体を持つヒーローとして登場したが、実は痛がりというコミカルなキャラクターで人気を集め、シリーズCMが作成された。公式設定ではNASAが研究していた謎の金属が意思を持って活動をはじめ、 近くにあった研究者が飲んでいたペプシコーラの影響を受けてペプシマンが誕生したというものであった。

当初は胸から下にかけて太い赤のライン、その上にペプシのマークが入ったデザインであったが、パッケージデザインがリニューアルされた1998年からは、左肩から右腹部、及びその下まで青いカラーリングへと変化した。

2003年にペプシツイストが発売されると、頭にレモン色のニット帽を首までかぶった形で「ペプシツイストマン」として再登場。さらに女性版といえる「ダイエットペプシツイストウーマン」も登場した。

2005年にはトランスフォーマーとのタイアップにより、「キャンペーン司令官ペプシコンボイ」が登場している。

あっ

そうかア、ペプシマンはなぞの金属なのかア。

痛がりやなのかア。

日本独自なのかア。

              ペプシマンってなんだか面白そう。

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2006年12月 9日 (土)

ペプシマンは疑り深い。

 ペプシマンが漫画喫茶に対して持っていた、イメージというか、先入観というか、恐れのようなものはかなり根深いものでした。

 その根拠のない誤った考えを改めてもらうのには、筆舌に尽くしがたい、涙なくしては語れないほどの、努力というか、説得が必要でした。

0612071_025 その結果、なんとかペプシマンの誤解は解けたのですが、これはその時の彼の迷いがにじみ出ている写真です。

・・・・・・・・ ペプシマンって意外と疑り深いンですね。

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2006年12月 8日 (金)

ペプシマンは怪しい人?

 驚きました。あのペプシマンがドアの外から東京漫画探偵団の中を覗いているんです。

0612071_065 こんなことを言ってしまってもいいのかしら。実は昨日「ペプシマンがやって来た」と写真をご紹介しましたが、実はあの写真のシーンの前は、こんなことをしばらく続けていたのです。何か決断がつかなくて入っていいものかどうか迷っているみたい。

あの怪しい人はいったい誰なのかしら?

そうなんですか?。ペプシマンって実はとても小心者?

誰が見たって怪しいですよね。

 ペプシマンに聞いてみても彼は言葉では答えてくれませんでした。でも、よーく彼の様子を見ているとだんだんわかって来ました。ペプシマンは漫画喫茶に入ったことがないのです。漫画喫茶というところは恐ろしいところなのではないか、イヤラシイところではないか、臭いところではないか、と、いろいろ心配で、ペプシマンともあろうものが入っても良いところかどうか、入る前にしっかり探っておかなければならないと思っていたようなんです。

 あんまりおかしくて大笑いしてしまいました。ペプシマンはムッとしていましたけど・・。そこで探偵団のことを説明したらやっと安心してくれました。そのように安心して入ってくれることになったのが、あの昨日の写真だったんです。

 こんな調子ですから、今後のペプシマンさんの行動から目をはずすことはできません。ペプシマンさんのことで何かありましたら、又ご報告しますね。

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2006年12月 7日 (木)

ペプシマンがやって来た

ニュースです。

あの「ペプシマン」が

神田神保町の東京漫画探偵団にやって きたんです。0612071_067

いったい何をしに来たのかしら?

ん?

ペプシマンって、口数が少ないって知ってました?

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2006年12月 6日 (水)

「夕焼けの詩 三丁目の夕日」を読むと善人でありたいと切実に思う

 最近映画化されてヒットし、テレビでも放映されて多くの人が見ました。東京漫画探偵団でも人気の漫画です。心が温まる、どこか懐かしい味わいがあります。でも皆さんがこれを読むのは、どうもそれだけではないような気がします。久しぶりに読み始めると改めて引き込まれてしまうのは、いったい何があるというのでしょう。

20061206_  西岸良平作。「夕焼けの詩」はビッグコミックオリジナルに1974年から連載中。戦後の昭和30年代、東京の普通の下町。団塊の世代前後の人々にとっての「古きよき時代」を描く。当初はブラックな笑いや苦い話が多かったが、「三丁目の夕日」になってからは次第に善人の「いい話」を主にするようになっていく。町の自動車修理工場、鈴木オートを舞台に、集団就職してきた六さんと、ほぼ団塊世代に近いだろう一平君が登場して、いわば戦後日本の都会の「懐かし共同幻想」が作品の中で完成してゆく。

 夏目房之介先生は「マンガに人生を学んで何が悪い?」のなかで「夕焼けの詩 三丁目の夕日」について次のように書いています。

20061206__1  そこには都会の下町と地方の結びつきが、はっきりと描かれていた。六さんは大きな会社を夢見て上京し、自分の故郷と変わらない駅、小さな町工場に愕然とする。昭和30年代は東京に大量の地方出身者が流入した時代であり、都会の子供たちも近所の酒屋やクリーニング屋に勤める「あんちゃん」と呼ばれる若者と日常的に接触し、かわいがってもらっていた。地方にも都会の下町にも、ガキどもの世界にも、高度成長によって破壊される以前の共同体感覚があった。

 シリーズが次第に善人たちによる「いい話」に移行していった時、あまり偽善や欺瞞への反発を感じないで楽しめるのは何でかな?と思った。人間なんてそんなに善人ばっかりのはずがない。実際70年代のマンガ、劇画は、ニヒルでシニカルな人間不信こそが主流だった。でも僕は、西岸のマンガの「善人」ぶりにいやな気がしなかった。西岸作品のどこかに善意を相対化して眺める視線があったのかもしれない。西岸マンガには、ただ懐かしさに淫するだけの甘美さ以外にものがあったような気がする。

20061206__2  今、50歳を越え、あらためて読んでみて、しみじみ思うのはこんなことだ。

 「人はみんな、こんなふうに善人であれたらどんなにいいだろうと、どこかで切実に思うものなんだな」

 そう。西岸マンガは、決して事実人間が善であり、いつもいい結末で終わることを語り聞かせている説教的物語ではないのだ。そこにあるのは、こうであったらどんなによかったかという、過去の選択にまつわる甘美さや切なさである。失ったものの懐かしさの象徴である「夕日」は、日の光のように明らかだったものが隠れ、別の時間に移ってしまう入れ替わりの時間に残る残光で、西岸はその「哀しさ」をすでにデビュー作で描いていた。おそらく西岸の資質はここに現れていて、作家自身が早いうちからそこの気がついていたのだと思われる。

20061206__3  いまや昭和30年代の下町を知るものはマンガ市場の主要な読者ではない。それでも「三丁目の夕日」シリーズはもっと若い読者にも読まれ続けている。実際僕の次男も大ファンで、おかげで奇妙なほど昔の遊びにくわしい。

 西岸のノスタルジックな世界には、いつも「可能であったかも知れない過去」という色合いがある。人がせんないとわかっていてもたどってしまう「もうひとつの人生」についての説話である。誰でも思い当たる既視感のような懐かしさがある。どこかであったかもしれない選択の可能性とは、ある程度生きてきた人間が必然的に持ってしまう人生への思いだ。けれど人はそのつど選択肢をせばめてしか生きていけない。それなりに年をとると、その分だけせばまった自分の人生の幅に切なさを覚えたりする。

20061206__4  西岸の善意は、人生を過去としてみれば、いつでもそういうものだということに優しい目を向けている。必ずしも作者本人が善人であることを意味しないし、読者も善人であることを保証されていない。でも、誰でも実は善人でありたいと思ったり、こんな善人だったら、こんな善意だけで生きられたらどんなにか・・・・と思うことはある。人間がみな悪人だとしても、そういう要素があれば人には可能性が残される。

 うーん。 うん うん。 ん。 近い。

 あなたはどう思いますか? 西岸良平作「夕焼けの詩 三丁目の夕日」は東京漫画探偵団においてあります。

読んでください。

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2006年12月 5日 (火)

「タッチ」で描かれる三角関係な思春期の恋

 男性にも女性にもよく読まれるマンガがあります。また、10年前も読まれ、そして今でも読まれているマンガがあります。そんなマンガの中でも「タッチ」はいつまでも変わらない人気を博しています。あなたももしかしたら一度は読んだことがあるのでは?

20061205_  あだち充作。双子の兄弟の上杉達也と和也、隣家の幼なじみ・朝倉南。当初は微妙な三角関係を軸に学園生活がメインで描かれた。弟の遺志を継いで達也がボールを握り、本格野球マンガとしての面白みが加わる。和也が南に告白し、甲子園優勝が達成されたことが示され、物語は幕を閉じる。高橋留美子とともに小学館「少年サンデー」四半世紀を支えている、あだち充の1982~86年連載作。後の「H2」も恋と野球が全面展開された。

 山崎哲先生は小学館発行の「名作コミックを読む」のなかで「タッチ」について次のように書いています。

 あだち充の最大の魅力は、いうまでもなく、まんがの「線」にある。その線はそう言ってよければ、少年まんががもっている硬さと、少女まんがが持っている柔らかさのほぼ中間にある。硬すぎない、そして柔らかすぎない、「中間」としての線なのである。そのことは主題の側面から言ったほうがわかりやすいかもしれない。

20061205__1 あだち充のまんがの主題は一貫して、「性」にある。しかも、いつも「思春期」の性なのである。まだ青年ではない、かといってすでに少年でもない、言ってみれば、人間の「中間期」としてある思春期の性なのである。あるいは、まだ男でも女でもない、中間としてある性。その領域を描くため、あだち充は「中間」の線を宿命としたのである。そして、その微妙な性を描くことに関しては、あだち充の右に出るものはいない。

 思春期の性の主題は、一言でいえば家族からの離脱である。あだち充の作品では、好きになったもの同志が結ばれることはまずない。恋愛は個を主題としない。「対」を主題とする。相手のまえで個が解体される。それを至福とする、倒錯した心理。それが恋愛なのだ。彼の描く思春期の恋は、常に三角関係としてあらわれる。これも見逃すことのできない重要な主題である。どうしていつも「三角関係」なのだろう。

 一言でいえばそれは、性は三角関係のうちにしかあらわれないからである。たとえば、「タッチ」。この作品ではご存知のように、「南」「和也」「達也」の三角関係が描かれているけれども、興味深いのは、和也と達也のどっちが先に南を好きになったのかよくわからない点である。でも回答はひとつしかない。どっちかではなく、二人が同時に好きになったのだ。 それは、性がライバルの登場によってしか現れないことを意味している。そしてその起源は、母をめぐる父との対立、つまりエディプスコンプレックスにある。

20061205_2 あだち充の描く三角関係は、もうひとつ重大な主題を持っている。それは、恋のライバルが「他者」として現れるの点である。決して自分の思い通りにはならない相手、自分に変容を迫る相手としてあらわれるのである。これも「タッチ」で見事に描かれている。達也にとって、死んだ弟・和也は単に恋のライバルなのではない。いや、はじめは恋のライバルとして現れるのだけれども、次第に自分に変容を迫る他者としてあらわれ始めるのである。だから達也は野球を始めてしまうのだ。

 ともあれ、あだち充の登場が衝撃的だったのは、性の起源と、「他者」の登場を描いたからである。誰もが回避することのできない思春期の主題を、見事に描いて見せたからである。それはそれまでのコミック誌では考えられない出来事だったのだ。

 

 あなたはどう感じますか?東京漫画探偵団の「小学館」の棚に「タッチ」は全巻そろっています。

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2006年12月 4日 (月)

「YAWARA!」はやさしいし、温かくて元気が出る。

 東京漫画探偵団には「格闘技まんが」コーナーがあります。柔道、空手、プロレス、ボクシングその他格闘技のマンガがいっぱいです。男性のみならず女性のお客様にも結構人気のあるコーナーです。マンガだけではなくて本物のボクシンググローブやサンドバッグのミニチュア、かつてのプロレスラー「ムタ」・「獣神サンダーライガー」のフィギアなども置いてあり、皆さん面白がってくださいます。なぜって?何を隠そう、何年か前に閉店したプロレス&ボクシングショップ「リングサイド」は東京漫画探偵団の姉妹店だったからなのです。なつかしーっ。

20061204_yawara その「格闘技まんが」コーナーのなかでも、一部のファンによく読まれているマンガに、浦沢直樹作の「YAWARA!」があります。普通の女の子でいたいのに、祖父・滋悟郎の柔道英才教育を受けた猪熊柔はソウル、バルセロナ両五輪に挑む。彼女を追う記者・松田との恋愛も物語終盤の見所。万人受けを明確に意識して描かれた作品。スポ根ものや、当時受けていた少年、青年マンガ(あだち充、江川達也など)の設定や物語進行が、巧みに取り入れられている。小学館「ビッグコミックスピリッツ」1986~89年連載。単行本全29巻で3000万部以上を発行。

  落語家の桂三枝先生が情報センター出版局発行の「マンガ名作講義」の中で次のように述べています。

  「YAWARA!」が「スピリッツ」に登場した時から欠かさず読んでいた。一回目のタイトルが「国民栄誉賞をとる少女」。すごいつかみ方だと思う。落語で言うなら、まずサゲをタイトルにつけて話が始まったのである。この意表のつき方がいい。そしてキャラクターがいいのである。浦沢氏のマンガに登場する人物は青年やおばはんやおっさんが実に個性的に生き生きとしていて面白い。特に女の子の使い分けがはっきりしていてわかりやすい。安心して読めるのである。可愛い主人公、冷たい金持ちの令嬢、ちょっと不細工なわき役、それはテニスをモチーフにした「HAPPY!」でもまったく同じなのだ。

20061204_yawara_1 武蔵山高校に通う女子高生猪熊柔はある日、学校の帰り、逃げてきたひったくり犯を見事な巴投げで投げ捨てる。この絵がなかなか色っぽくていいのだ。色気の出し方もえげつなくないし、品があるのもいい。その巴投げを日刊エヴリースポーツ社の松田記者がスクープし、日本柔道界の次代を背負って立つ逸材と見込んで取材を始める。こうしてスタートする柔道マンガは新聞記者との恋を絡ませながら進んでゆく。同じ柔道マンガでも昔読んだ「イガグリ君」とは随分マンガも進歩したものだと感心させられる。すべては映画のカット割をマンガに持ち込んだ手塚マンガからはじまっているのだろうが、絵やキャラクター やギャグやストーリーが研究されていて、興奮と感動をまるで映画のように一回目から最後まで引っ張っていくのである。特に「YAWARA!」はやさしいし、温かくて元気が出る。マンガはどんどん進化しているのだ。

どうです? もう一度読んでみたくなったでしょう? 「YAWARA!」は東京漫画探偵団の「格闘技マンガ」コーナーに全巻あります。

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2006年12月 2日 (土)

飲み物が変わりました。

12月1日にリニューアルオープンして変わったことの一つが、飲み物、ドリンクです。

種類が増えました。マシンも変わりました。味も変わりました。

お客様は楽しそうに、でもちょっと悩んでドリンクを選んでいます。機械の操作法も変わって少し戸惑っています。でもお客様はおおむね喜んでくださっているように見受けられます。

どうぞたくさん飲んでください。そして漫画を楽しんでください。

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2006年12月 1日 (金)

リニューアルオープンしました。

東京漫画探偵団は本日12月1日をもってリニューアルオープンしました。

漫画好きの方のための心音(こころね)を感じるお店であるために、新しくなりました。きっと感じていただけると思います。もしも感じてくださいましたら、とてもうれしく思います。

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