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2007年1月31日 (水)

「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方③のび太は意外と欲がない

昨日に続いてマンガの登場人物から人生を教えてもらう話の3回目です。

 「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方
   と題して
①のび太はめげない
②のび太は悪口を言わない
③のび太は意外と欲がない
④のび太は誰にでも優しくできる
⑤のび太はなんに対しても偏見がない
   の5回続くお話です。
 第3回目の今日は「③のび太は意外と欲がない」を見てください。

20061214__10  「ドラえもん」は面白いです。好きです。世界中で読まれています。その「ドラえもん」から人生を学ぶことがあります。「ドラえもん」に登場するあの「のび太」から人生を教えてもらうことがあるのです。

 横山泰行先生は著書の「<のび太>という生き方」の中で次のように書いています。

・・・・・

 株でI度大儲けを経験すると、すっかりはまってしまって失敗する人がいます。これもすべて、「もっと儲かるかも」と欲を出してしまうから。自分にとってある程度の利益が確保できたら、「これでいいや」と引き際を見極めないと、せっかく一度は実現した夢が悪夢に暗転することもあります。

 大長編ドラえもんの中で、「不老不死」という人間のもっとも大きな欲、人間の永遠のテーマに対するお話があるので、そのお話をもとに、「欲」について考えてみたいと思います。

「のび太と夢幻三剣士」の中のお話です。

 「竜の谷」に往む竜の、口からはき出す火を浴びると石になるといわれています。ジャイアンやスネ夫は雄々しく竜に戦いを挑んだものの、竜の炎をまともに浴びて石になってしまいました。

 竜をやっつけるためには、ヒゲを切ること。そうすれば竜は弱って、攻撃ができなくなります。のび太は温泉の吹き出しを利用して、竜のヒゲを切ることに成功しました。竜の血を浴びると不死身になると伝えられているため、ドラえもんから、「なにをぐずぐずしてるの。時間がたつとヒゲがまたのびるんだよ。そしたらこっちがやられちゃうんだよ!」と竜を殺すことを催促されますが、のび太は「こんな秘境でひっそり生きている竜を、殺す権利なんてだれにもない!」と強く主張し、殺害を拒絶してしまいます。

 ヒゲが伸びて元気になった竜はしみじみと、「これまで大勢の人間がわしの血をねらってやってきた。わしは身を守るため、石にした」と言いながら、もうきみたちに危害を加えるつもりはないと断言しました。竜は「はるばるやってきたのに、このままかえすのもきのどくだ。血を流すわけにはいかないが……。温泉にわしの汗を流してあげよう」と言って温泉に飛び込みます。「あびれば不死身とはいかなくても、一度ぐらい生きかえれる体になるはずだ」とされる竜の汗。全身のすみずみに湯をしみこませるがよい」と竜からアドバイスを受け、のび太一行は「一ぺんでも生きかえれば、とくじゃないか」と、久しぶりにゆったりと温泉につかつて、次の戦いの英気を養いました。
                         (大長編ドラえもん第14巻)

20061214__12   不老不死は中国古代の秦の始皇帝の時代から、人類の叶わぬ夢でした。現代の科学の水準でも、この夢はまだまだ実現しそうもありません。しかし、平均寿命も80歳前後となり、昔の人たちにとっては、想像もできないような長寿を謳歌する時代になりました。

 また、「クオリティオブライフ」の概念に代表される、生活の質そのものも尊ばれる時代になりました。晩年まで若い精神状態を維持することができれば、現代流の不老生活を実践していることになります。

 さて、のび太ですが、話中の「一ぺんでも生きかえれば、とくじやないか」というセリフに見られるように、彼の夢は意外に質素でシンプルです。どん欲に不死身を求めるようなことはせず、一回でも生き返ることができれば十分と、余裕のある姿勢を見せます。ドラえもんの催促にしたがい、のび太が竜を殺害して、その血を浴びることができれば、たしかに不死身になれたかもしれません。しかし、その場合、竜が弱っているとはいえ、さらなる熾烈な戦いがのび太と竜の間で展開されることになったでしょう。のび太は竜の戦いで、ジャイアンやスネ夫と同じように石にされていたかもしれません。

 のび太の生き方は、不死身のような永遠の生を求めるよりも、身のまわりのことをひとつずつ実現していく堅実さを志向していて、これが身の丈にあった幸福な人生につながっていくと考えられるのです。

・・・・・

 うーん。
 
欲は深すぎてはならない。

身の丈にあった夢を持つ。

そのために身のまわりのことをひとつづつ実現してゆく。

そうかぁ。

 のび太は意外と欲がないんですね。

 さて、今日の「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方、 あなたはどう思いますか?
 

藤子・F・不二雄作「ドラえもん」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月30日 (火)

「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方②のび太は悪口を言わない

 昨日に続いてマンガの登場人物から人生を教えてもらう話の2回目です。

 「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方

   と題して
①のび太はめげない
②のび太は悪口を言わない
③のび太は意外と欲がない
④のび太は誰にでも優しくできる
⑤のび太はなんに対しても偏見がない
   の5回続くお話です。

 第2回目の今日は「②のび太は悪口を言わない」を見てください。

20061214_26 「ドラえもん」は面白いです。好きです。世界中で読まれています。その「ドラえもん」から人生を学ぶことがあります。「ドラえもん」に登場するあの「のび太」から人生を教えてもらうことがあるのです。

 横山泰行先生は著書の「<のび太>という生き方」の中で次のように書いています。

・・・・・

 職場の上司や同僚の悪口を言って、スカッとした経験はありませんか? また居酒屋などに何人かで出かけると、まず話題にのぼるのが、会社の人間関係の不満と相場が決まっています。江戸時代前期に儒学者として活躍した、謹厳実直で知られる貝原益軒でさえも、酒の肴にもっともふさわしいのは「人の悪口」であると言っています。悪口がひとときの精神安定剤になるのは、江戸の昔も現代も変わっていないのかもしれません。


 のび太はジャイアンやスネ夫に絶えず痛めつけられていますので、ときにはプッツンと切れて妬んだり、罵詈雑言を浴びせても決して不思議ではありません。しかし、のび太は悪口や妬みよりも「なにくそ」といった反発力の方ヘエネルギーを昇華させています。「悪口」はあまり口にせず、すぐ行動を起こすのび太の特性について見てみましょう。

20061214__9  「月の光と虫の声」の話です。
 スネ夫の家で秋の虫の声を聞く会が開催されました。のび太はうっとりしながら、鈴虫や松虫の声に聞き惚れます。ところが、会の終わりにスネ夫は「デパートで買ってきたんだぞ。高かったんだ」と言い、声の聞き賃をひとり5円ずつ徴収します。虫の声を聞くのにお金がいるのかと抗議をしましたが、後の祭りでした。ドラえもんとのび太は「今夜、うちの庭においで。虫の音楽会を楽しませてあげる」と同席していたしずかちゃん、ジャイアン、スネ夫に告げました。

 家に帰って、パパやママに鈴虫や松虫を買ってほしいと頼みましたが、すぐ死ぬからだめと断られます。そこで、タイムマシンに乗って20年前の空き地に行ってみると、あたり一帯が秋の虫の合唱といった様相です。「コロコロ、リーリー、チン千ロリン、ガチャガチャ」と、さまざまな秋の虫が「ひろびろとした草原で、月の光をあびて、楽しそうにうたって」います。ドラえもんものび太も「すみにくい世界へつれていっちゃかわいそうだ」と思い、捕まえて帰るのはやめようという結論に落ち着きました。

 タイムマシンで家に戻ると、ドラえもんは早速、ひみつ道具を取り出しました。それは、ひみつ道具の花のつゆをかけると、どんな虫でもきれいな声で鴫くというものです。そして、家のまわりにいる虫をのび太と一緒に、できるだけ多くかき巣めました。

 おかげてその晩、コ才ロギ、鈴虫、松虫などのきれいな声で鳴く、楽しい楽しい虫の音楽会を開くことに成功。ドラえもんたちがこんなにたくさんの秋の虫をどこで集めたか、スネ夫には不思議でした。そこで彼は家から強力な電気掃除機を持ち出し、野比家の庭で楽しげに歌っているすべての虫をこっそり吸い取ってしまいます。家に帰って虫の声を聞こうと、電気掃除機で吸い取った虫を庭に放してみました。すると、スネ夫のママから「なんで、ごきぶりなんかとってくるざます」と叱責の声が。「チンチロコロリン、スイッチョン」ときれいな声で鳴いている秋の虫の正体は、花のつゆをかけられた多数のゴキブリでした。
                                              (てんとう虫コミックス短編第4巻)

 悪口を□にしないで行動を起こすためには、のび太のように、他人のすばらしい面を素直に「いいな」と肯定する姿勢が必要です。肯定することで、現在の自分の行動をより高い次元まで伸ばす契機になったり、1歩ずつ夢に向かって前進する契機になることもあります。こういう姿勢が、自分を成長させるための大きなエネルギーになるのです。

 妬みは広辞苑によると、「他人のすぐれた点にひけ目を感じたり、人に先を超されたりして、うらやみ憎む」と定義されています。妬みは強烈なマイナスのエネルギーとなって、他人ばかりでなく自分白身の心身をも蝕むものです。

 たとえば、スネ夫がのび太を妬んで、秋の虫と思って電気掃除機で吸い取り待ち帰ったのはゴキブリでした。家庭でその虫を解き放つと、ゴキブリだらけの大混乱に陥り、ママにまで大きな迷惑をかけてしまいます。このように、妬みというのは、当人だけヘの影響にとどまらず、まわりの人たちにもマイナスのエネルギーを振りまいて、波及してしまいます。

 のび太もドラえもんの助けを借りることのできなかったころは、スネ夫をかなり強く妬んでいたものと想像できます。しかし、ひみつ道具の登場によって、他人を妬む機会が極端に少なくなり、のび太の人生も大きく好転していると考えられるでしょう。

 作者の藤子先生は、ドラえもんがのび太にひみつ道具を渡すことによって、妬むことよりも行動を起こす方がずっと建設的であるというメッセ-ジを、読者の子どもたちに伝えたかったのではないでしょうか。

・・・・・

 うーん。
 

悪口を言わない。

妬まない。

他人のすばらしい面を素直に「いいな」と肯定する。

自分を成長させるために行動を起こす。

 このようなことは、やはりとても大切なことですね。

 さて、今日の「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方、 あなたはどう思いますか?

 藤子・F・不二雄作「ドラえもん」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月29日 (月)

「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方①めげない

  面白くて、楽しいからマンガを読みます。でも、面白くて楽しいからだけでマンガを読んでいるのではないのです。時にはマンガから人生を学ぶことがあるのです。マンガの登場人物から人生を教えてもらうことがあるのです。
20061214__6  昨年12月14日のこのブログに<「ドラえもん」の「のび太」はダメ人間ではなく実は人生を上手に歩いている>というテーマで投稿しましたところいろいろご意見をいただきました。そしてもう少し「のび太」から学んでみたいと思うようになりました。そこで横山泰行先生の「<のび太>という生き方」のなかから、今日から5回にわたっていろいろ見てゆきたい、などと身の程知らずのことを考えてしまいました。次のような恐れ多くも大胆というよりは無謀な行いに、皆様どうかお付き合いくださいませ。
「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方
と題して
①のび太はめげない
②のび太は悪口を言わない
③のび太は意外と欲がない
④のび太は誰にでも優しくできる
⑤のび太はなんに対しても偏見がない
の5回です。
第1回目の今日は「①のび太はめげない」を見てください。
「ドラえもん」は面白いです。好きです。世界中で読まれています。その「ドラえもん」から人生を学ぶことがあります。「ドラえもん」に登場するあの「のび太」から人生を教えてもらうことがあるのです。
 横山泰行先生は著書の「<のび太>という生き方」の中で次のように書いています。
・・・・・
20061214__7  他人のことを「うらやましい」と思う瞬間はいろいろあります。才能を持っている人に対して、周囲の評価が高い人に対して、また高級なバッグなどを持っている人に対しても、そんな感情を抱くことはあるでしょう。
 のび太も、スネ夫の持ち物に対して「うらやましい」と思うシーンが、短編で20回以上登場します。のび太はそんなとき、どうしているのでしょうか? まあ、ドラえもんに泣きつくケースがほとんどなのですが、そこには、誰にでも夢が叶えられる鍵が隠されているのです。
「のび太の鉄道模型」の話です。
 ドラえもんも感心するほど、のび太はお正月から机に向かってコツコツと鉄道模型の制作に熱中していました。パネルにレールを敷いたり、立木や家を張り付けた、本物そっくりの電車はガーッという音を立てながら見事に走りました。ドラえもんから「くろうして作ったから、喜びも大きいのだ」と言われ、のび太もあまりに嬉しかったので、会心の模型をスネ夫たちに見せたくなりました。
 ところが、スネ夫の家で逆にその10倍以上もあるような大きな鉄道模型を見せられ、のび太はショックを受けながらトボトボと家路に。でもくじけることなく、ドラえもんから、ひみつ道具「ポップ地下室」と「フエルミラー」を出してもらい、さらにスケールアッブした模型の制作にとりかかります。まず「ポップ地下室」で広い地下室を用意。さらに、映ったものを本物にして出してくれる鏡「フエルミラー」で、鉄道模型に必要なさまざまな素材を一挙に作りました。
 のび太は連日のように学校から飛んで帰り、ママも「このごろまい目、どこへ消えちゃうのかしら」と心配するほど、熱心に制作目打ち込みました。発泡スチロールの山を削り、色を塗って、パウダーをまいて木を植えれば、本物の山のように。シリコンに青いカラーインクを混ぜて流して固めると、川や池になりました。そして、りっぱな鉄橋やトンネル、さらには高架橋まで設置して、広い広いレイアウトの鉄道模型ができあがりました。
 完成した代物は、スネ夫も仰天するようなできです。さらに、電気機関車は実際に乗り回すことができるほどの優れもので、スモールライトで小さく変身したのび太やしずかちゃん、ジャイアン、スネ夫もワーイと歓声をあげながら、乗り込みました。ドラえもんは「なんでも夢中になるのはいいことだ。これでのび太のなまけぐせもなおるだろう」と感心した様子です。
 のび太はさらに熱心に模型を作りました。今度は寝台車にベッドを作り、ドラえもんからスモールライトを借りています。のび太は寝台車のベッドで昼寝することが日課となってしまい、ドラえもんから「あれからまい日ねてばっかり!」と呆れられる始末でした。
                      (てんとう虫コミックス短編第39巻)
20061214__8  のび太が苦労して作った鉄道模型の10倍以上もある大きな鉄道模型をスネ夫に見せられ、非常に大きなショックを受けたのび太。しかし、のび太はこのショックにもめげず、もっと大きな鉄道模型を作ろうと決意します。このお話にもあるように、のび大は一貫してスネ夫の自慢や、「うらやましい」と思うことに対して、自分もそれ以上のものを手に入れようと努力をします。このお話では、ドラえもんのひみつ道具によって、鉄道模型を作るのに必要な環境や用具や部品などもすべて手に入れ、準備にぬかりはありません。このように、ひみつ道具の力を惜りれば「自分も何かできる」とのび太は信じているので、何ごとにもくじけない心を持つことができたのです。
 さらに、せっかく決意しても途中で挫折するというのが、目頃ののび太の姿でした。しかし、今回は、ドラえもんやママもビックリするほど、のび太は日夜模型作りに一生懸命打ち込み、当初計画した以上のものを見事に完成しました。気分が乗ったときののび太の仕事ぶりは、ふだんのぐうたらのび太の生活からは想像できないほど、前向きなものです。「なんでも夢中になるのはいいことだ。これでのび太のなまけぐせもなおるだろう」とドラえもんが言ったように、ほかのものが目に入らないほどの集中力を持って目標に打ち込むことで、「くじけない心」は、さらに強さを増すことができるのです。
 最近、仕事や生活の場で、一心不乱に打ち込むことのできる課題を発見しましたか?とくに打ち込むものもなく、ダラダラと日々暮らしていませんか? まだまだ時間はたっぷりあるのですから、大きな夢を待って、前向きにライフワークとなるような課題を見つけてください。課題達成までの道筋が辛く、諦めそうになったときは、ドラえもんが「くろうして作ったから、喜びも大きいのだ」と言っていたことを思い出してください。夢へのチャレンジは、実現への一里塚です。そして、充実した人生をも約束してくれるのです。
・・・・・
   うん。
   めげないことは大切ですね。
「ドラえもん」の「のび太」に学ぶ心の持ち方、 さて あなたはどう思いますか?
藤子・F・不二雄作「ドラえもん」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月28日 (日)

「ねじ式」の中で、つげ義春は多くのものを活写し、予見していた

深く考えさせられるマンガがあります。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「ねじ式」の中で、つげ義春は多くのものを活写し、予見していた

と題して進めます。

 わりと読まれています。若い人も年配の方も読んでいます。マンガにうるさい人に人気があるのかもしれません。そんな漫画だと思います。

0121_04  つげ義春作。少年とも青年ともつかない男性主人公が、たまたま海辺に泳ぎに来てメメクラゲに左腕を噛まれる。血が流れる腕を押さえながら医者を求めて隣町までを彷徨う・・・・・・。つげ日く、ラーメン屋の屋根で見た夢をもとにした話。青林堂「月刊漫画ガ口」1968年9月増刊号「つげ義春特集」に発表。筑摩書房つげ義春全集、小学館文庫「ねじ式」などに所収。青林工藝舎「つげ義春作品集」には初出形で収録。石井輝男監督により97年に映画化された。

 つげ義春は1955年、若木書房の単行本「白面夜叉」でデビュー。単行本や月刊誌、58年からは貸本マンガ誌でも活躍。「ガロ」には658月号の「噂の武士」で初登場、同年に「西瓜酒」「運命」、翌年に6作、67年には「李さん一家」「海辺の叙景」「紅い花」など7作発表。 68年は「長ハの宿」など温泉・紀行ものを発表して新展開を見せ、さらなる注目を集めていたところに発表されたのが、この「ねじ式」たった。以降、70年まで、つげと「ガロ」の蜜月が続く。

 曽野綾子先生は「マンガ名作講義」の中で、つげ義春作「ねじ式」について次のように書いています。

・・・

「ねじ式」が生まれた一九六八年と言えば、東大闘争、日天闘争の吹き荒れた年であった。ハ月にはソ連軍のプラハ侵入、十月には新宿騒乱、十二月には三億円強盗が発生した。

 暗い年であった。しかし日本人にはこの薄っぺらい暗さが、戦争の記憶から抜け出すためには、必要だったのだろう。

 「ねじ式」の主人公はたまたま泳ぎに来た海岸でメメクラゲに剌される。彼の血管は破れ、血はとめどなく流れ出す。

 戦争中から戦後にかけて、多くの人びとが住処(すみか)を失ったと感じていた。引き揚げ者、帰還兵たち、戦災孤児、焼け出された都市生活者たち。彼らは生き延びたが、皆「異境」に住んでいた。

 主人公の腕からは、血が流れ出して死にそうだというのに、この見知らぬ村の村人たちは、少しもよそ者の命の危機に動じない。同じ日本人なのに全く会話が通じない、という感じである。彼らは主人公の「この近所に医者はありませんか」という問いに、「するとお前さまはイシャを捜しているのだね」と繰り返すだけで必要な情報は何一つ与えない。この卑怯さと鈍感さは、すべて異境に住んだことのある

者の悪夢である。

       ◇   ◇   ◇

0121_01  戦後、日本人は多くの無責任な夢を抱いた。過去の狭量な考え方から解き放たれ、自由な生活方法を選ぶことを許されると夢想したのであった。しかしそれはどれも、悪夢に過ぎなかった。だから主人公がやっとの思いで、医者(救い)を求めて乗り込んだ汽車は頬かむりをしたキツネ面の子供が運転しており、それは主人公が逃げて来た村に向かって走ることになるのである。

 ここでも人間は、運命と、時の流れと、閉じ込められた空間から逃げられない。苛立つ主人公に、キツネ面の運転手は一つの悲痛な真理を教えてくれる。眼を閉じていれば、汽車は、主人公の望む方向に走っていると思えるじゃないか、と言うのである。そこで主人公は覚る。

 「そうだった。僕は淡々としなければいけないのだ・・・・・・」

 これは市民と学生の権利が幼稚に騒々しく叫ばれたシュプレヒコールの最中で、すがすがしいまでの悟りと気品であった。

 しかし着いた村には、外科医はいなかった。目医者ばかり、一つ目の看板ばかりが連なっている。ものごとを複眼の思想で見ることもできない、頭脳や思想と何の連携もない、物欲し気な覗(のぞ)き専用の一つ目玉の人間が犇(ひしめ)き合っている。彼はそこで金太郎飴を作る老女に会う。それが主人公が生まれる以前のおっ母さん」だということがわかる。老女は、その経緯は飴の製法と関係があるが、わけは教えられないと泣く。

 金太郎飴は、どこで折っても、同じ顔をして「ごきげんよう」「達者でなあ」と言う。これも戦後の日本人のしたり顔の一つであった。私たちが、どの新聞でも、人民を圧迫していた中国を褒め称(たた)える記事しか読めなかったのと同じである。

 しかし主人公は、やっと金太郎飴で儲けた老女の建てた金太郎ビルに往む産婦人科の女医者を見つける。シリツをしてください」と言う彼に、女医は「では、お医者さんごっこをしてあげます」と言う。その療法は○×式で決めたものであった。

       ◇   ◇   ◇

 すべてがごっこの時代だった。大学紛争では警官だけが命をかけ、学生側は安全圏内で闘争ごっこをして、「時代を闘った」などと思ったのである。

 主人公はそれ以来ネジで止めた腕で生きる。きつく閉めるとしびれるのはそのせいである。

 つげ義春氏は、実に多くのものを活写し、予見していた。生臭い言い方をすれば、日米関係も、憲法解釈も、民主主義も、大学紛争も、社会主義も、個人の自由も、日本人の哲学と勇気のなさも、病んだ心も、すべてこの作品の中ですくい取っていた。私が優れた短編小説と同様に漫画に深い尊敬を抱いたのは、つげ氏のこの作品と、水木しげる氏の諸作品を通してであった。

・・・

 うーん。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 つげ義春作「ねじ式」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2007年1月26日 (金)

古谷実「わにとかげぎす」

Photo_6
皆さんこんにちは、まんたんスタッフのうえむらです。
自分の足元だけ見て歩いて来てふと顔をあげたら、
とんでもないところに来ていた…そんな経験ありませんか?
今回ご紹介する漫画は古谷実「わにとかげぎす」です。

この作者はいわゆるダメ人間の描写が大変巧いことで知られていますが、
今回の作品ものっけから期待を裏切りません。

主人公は深夜の巨大スーパーマーケットでたった一人働く警備員男、富岡。
一人だけのなのをいいことに勤務中に無人の店内で
筋トレにいそしむ彼は今の自分の状況を次のように述懐します。

「そう…言うなればオレは人生という大切な道のりを…
ずっと己の足元ばかり見て歩いて来てしまった愚か者…
皆が行く先をきちんと見据え 正しい姿勢で歩いていく中
オレはずっと下を向いて…まるでゾンビのように…
心ある人に何度か注意されたような気もするが…
わからなかった…オレのことじゃないと思った…
困難という困難を避け…雨水のごとく流される方へ
流される方へと…ダラダラと歩き続けて32年目の春に…
超久しぶりに顔をあげてみると、
オレは…ぜんぜんまったくわけのわからないところに来てしまったのだ!」

気がつけば、友人と呼べる人は皆無。
ましてや恋人などいるはずがない32歳。

「そ…遭難している!オレは人生において遭難している!」

「32年間も…どうして気づかなかったって?
何を考えて生きてきたかって?何も考えていなかった!!
本当にまったく気がつかなかった!基本的に家で寝ていたのだ!!
幼少期も青春時代もずっと!!まるで眠りの刑に服していたように、
グーグーと眠り倒していたのだ!!
その結果…オレは自分が孤独であることすら気づかないほどの
孤独な男になってしまった…」

この「基本的に家で寝ていた」というところにものすごいリアルなダメさを
感じるのは私だけでしょうか。身につまされます。
とにかく今彼が気がついて分かったのは孤独は罪だということ。
思い直した彼はスーパーの屋上から星に願いをかけます。

「神様、友達をください…友達!!」

生まれて初めて心から強く望むものができた彼。
これと同じくらいの努力をしようと心を新たにした時、
なにものかによって店の出入り口に
「警備員へ おまえは1年以内に頭がおかしくなって死ぬ」
という内容の脅迫状が届きます。

この手紙がきっかけとなって主人公はいろいろな人や事件に巻き込まれて
ゆくことになるのですが、その過程で注目すべきは
主人公の内面描写。不安や妄想が化け物の姿を借りて
現出される不気味な様式は健在です。

ちなみにタイトルの「わにとかげぎず」とは同名の深海魚からとられているそうです。

日の光を見ない孤独な警備員。これから彼を待つ運命は…?
この続きは本書を手にとって確かめてみてください。

古谷実著「行け!稲中卓球部」「僕といっしょ」「グリーンヒル」「ヒミズ」
「わにとかげぎす」はまんたんに置いてあります。

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2007年1月25日 (木)

ペプシマンってマンガ好き?

ご無沙汰しましてスミマセン。

五日間ほど旅行してました。

久しぶりに投稿します。

0612073_016_4

みなさん。この写真を見てください。

ペプシマンって漫画が好きなんですね。

またまたペプシマンが東京漫画探偵団に来てくれました。

そして、なんと、まあ、漫画を読んでいったんです。

詳しくはまた後日報告します。

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2007年1月19日 (金)

山田芳裕「度胸星」

Photo_5 皆さんこんにちは、まんたんスタッフのうえむらです。
周知のことですが、数ある漫画作品には打ち切り作品というものが存在します。
不人気ゆえに読者がつかず、当初予定されていたであろう連載期間を
大幅にカットして、張りまくった伏線も回収しきれずに
駆け足で最終回へともつれこんでゆく漫画を、誰でも
一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
打ち切り作品の大半は、やはり打ち切りになるだけあって
連載を続けてゆくには力不足であったものですが、
なかには「何でこれが終わったの?」と感じるような
明らかに面白い打ち切り作品もごくわずかながら存在します。
今回ご紹介する山田芳裕「度胸星」は、そんなとてつもなくおもしろい打ち切り作品です。

アメリカが誇る人類初の有人火星探査船・スキアパレッリ号。
探査船の乗組員が人類初の火星上陸を果たしたその直後、突如としてその
通信が途絶えてしまいます。
これを受けて早急に乗組員救出計画を立てたアメリカは、世界各国で
学歴・国籍を問わない宇宙飛行士候補を選抜することになります。

日本の宇宙開発事業団NASUDAで行われるその選抜に挑むのが、
主人公の三河度胸。亡き父の後を継いで大型トラックの運転手を
していましたが、ひそかに宇宙飛行士になるための勉強を続けていた
今時珍しい無口で純朴な青年です。
過酷な訓練と容赦ない選抜試験を持ち前の「度胸」で勝ち抜いてゆく主人公。
ライバルたちにもさまざまな個性があり、それが物語にメリハリをつけています。

一方そのころ火星では、突如として現れた謎の「高次元生命体」によって
他の乗組員を惨殺され、たった一人生き残った宇宙飛行士が、地球と交信を
取ろうとやっきになっていました。
人智を超えた物体と命を懸けて対峙する彼の姿は、並みのホラーの比では
ありません。

果たして火星にいる乗組員を救うことはできるのか?
そして火星に行けるのは誰なのか?

…と盛り上がって盛り上がって主人公がついに火星へ向けて
出発するところで、なぜか、なぜか打ち切りになっています。

未完とはいえ、宇宙飛行士選抜試験のリアルさ、
そして高次元生命体と宇宙飛行士のやりとりは必見です。
是非読んでみてください。

そしていつかこの作品がどこかの雑誌で連載再開してくれることを

うえむらは願ってやみません。

山田芳裕「度胸星」「へうげもの」「デカスロン」「泣く男」は
まんたんに置いてあります。

Photo_2

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2007年1月18日 (木)

とうとう青年漫画にも「無料」の波が押し寄せた

近頃マンガが目立っています。最近のマスコミの報道のうち、今日の産経新聞の記事なかから目にとまったものをご紹介します。

0119_01  ◎いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 ◎そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 ◎未来は明るいのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

マンガの世界の過去、現在、そして未来については私たちの最大の関心事

なのです。

・・・

 産経新聞の平成19年1月18日付け文化面で上塚真由氏は次のように書いています。

 フリーマガジン---青年漫画にも「無料」の波---

 さまざまなフリーペーパーが巷にあふれているが、無料の週刊漫画誌「コミック・ガンボ」が16日、創刊された。発行元のベンチャー企業、デジマによると、無料漫画誌の発行は世界で初めてという。

 B5判約230ページで、ターゲットの読者層は20~40代の男性。江川達也や村上もとから著名な漫画家の15作品程度を掲載する他、女性アイドルのグラビアページもあり、従来の青年漫画誌と同じ体裁となっている。

 毎週火、水曜日に首都圏の約30カ所の駅で計10万部を手渡しで配布し、知名度アップを図る。今後、配布場所を徐々に拡大するとともに、主要地点にラックを設置する予定だ。携帯電話やパソコンでも無料で閲覧できるサービスも始めている(http://gumbo.jp)。

 リクルートのフリーペーパー「R25」の成功が発想のきっかけという。甲斐昭彦社長は「読者の多い漫画を無料で配布すれば,より多くの人に読まれると思った」と話す。雑誌発行のコストは広告収入でまかなう。作品の単行本化も予定している。

 約5000億円を維持するとされる漫画市場とはいえ、青年漫画誌の売上は減少している。「ガンボ」の中からキラーコンテンツが生まれるかどうかが、成功の鍵となりそうだ。

・・・

 うーん。

 とうとう青年漫画にも「無料」の波が押し寄せたわけですね。

漫画の読者が増えるのか。

描き手の作品発表機会が増えるのか。

漫画市場規模が拡大するのか。それとも縮小するのか。

読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、大いに考えさせられることですね。

 あなたはどう思いますか?

                  でも、「ガンボ」って、ちょっと読んでみたいナ。

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2007年1月17日 (水)

「イキガミ」は限られた生を懸命に生きようとする若者を描き、同世代の共感を集めている

 近頃マンガが目立っています。最近のマスコミの報道のうち、日本経済新聞の記事なかから目にとまったものをご紹介します。

0115_01_1 ◎いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 ◎そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 ◎未来は明るいのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

マンガの世界の過去、現在、そして未来については私たちの最大の関心事

なのです。

・・・

 日本経済新聞の平成19年1月13日付け夕刊アーバンBiz面で(瞳)氏は次のように書いています。

 さぶかるウオッチング---「イキガミ」---生の不燃焼感 映す

「あなたは後二十四時間で死にます」。二十歳前後の若者の千人に一人に役所からそんな「逝(いき)紙」が届く。 受け取った者は初めて生の意味を真剣に考え、行動し始める。そんな設定の漫画「イキガミ」が「泣ける作品」としてヒット中だ。難病の代わりに権力が生を奪う設定と考えれば理解しやすい。

0116_02  召集令状(赤紙)を記憶する世代は苦く感じるだろうが、実は「巨大な力に残りの人生を突如左右される」物語は千九百九十九年出版の「バトル・ロワイヤル」以降相次ぎ登場して人気を得ている。「極限推理コロシアム」など矢野龍王氏の小説、命ではないが負ければ巨額の借金を背負うゲームに巻き込まれる漫画「ライアーゲーム」などだ。

 中学生一クラスが殺し合う「バトル・ロワイヤル」では暴力描写を嫌悪した大人に対し、若者層は「限られた生を懸命に生きようとする同世代」に実生活の自分を投影し支持した。「イキガミ」の背景にも現実の生の不燃焼感があるのではないか。戦艦大和や硫黄島 の兵士を描いた映画も若者客を集めた。エンターテインメント作品に若い心の危うさが映る。

・・・

0116_04 若者に不燃焼感があるということは、その若者たちが「限られた生を懸命に生きようとする」ことを求めているのではないでしょうか。なかなか難しいことではありますが求めることこそが大切だと思います。

 若者たちの中にそのような「限られた生を懸命に生きようとする」ことを求めているうねりがあるということを踏まえることこそが、読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、必要なことでしょう。

 あなたも「限られた生を懸命に生きようとする」若者に会いに行きませんか?

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2007年1月16日 (火)

「巨人の星」の「星飛雄馬」は身を削っても父親離れする大切さを教えてくれる

 マンガは面白い。真面目に読んでも不真面目に読んでも面白い。また、気軽に読んでも真剣に読んでも面白い。その上、朝読んでも夜読んでも面白い。さらに、海で読んでも山で読んでも面白いし、しらふで読んでも酔っ払って読んでも、もちろん面白い。だからマンガを読むのは楽しい。

 面白くて、楽しいからマンガを読みます。でも、面白くて楽しいからだけでマンガを読んでいるのではないのです。時にはマンガから人生を学ぶことがあるのです。マンガの登場人物から人生を教えてもらうことがあるのです。

0117_00  「巨人の星」は面白いです。好きです。多くの人に読まれています。その「巨人の星」から人生を学ぶことがあります。「巨人の星」に登場するあの「星飛雄馬」から人生を教えてもらうことがあります。

・・・

 大塚英志先生は著書の「教養としての<まんが・アニメ>」の中で次のように書いています。

 主人公の成長を幼年期、思春期から青年に至るまで、その経験や教育の受け方、人格形成などに焦点を当てて描く物語を小説の分野ではビルトゥングスロマンといいます。つまり成長物語です。

 梶原一騎の作品は「巨人の星」や「あしたのジョー」以外でも少年まんがとして発表された作品の多くが、このビルトゥングスロマンとしての枠組みを持っていることが大きな特徴です。当時の日本は高度成長の時代ですから、目標に向かって邁進する主人公の姿は高度成長経済下の日本人の反映だ、などと当時は論じられもしました。

0117_01 けれども「巨人の星」や「あしたのジョー」は主人公の成長物語でありながら、しかしその結末は悲惨です。星飛雄馬は左腕を破壊して姿を消し、矢吹ジョーはご存知の通り「真っ白に燃え尽きて」しまいます。

 そもそも星飛雄馬が左腕を破壊するに至ったのは大リーグボール三号という魔球で左腕を酷使したからです。それは飛雄馬が初めて父親から与えられた野球の技術を一切使わず、いわば父親を初めて克服し編み出した魔球でした。

 しかしそれ以前の問題として何故、飛雄馬は魔球を編み出さなければならなかったのでしょう。それは飛雄馬がプロ野球選手としては余りに小柄で、それゆえに球質が軽いという「致命的な欠点」を克服するために魔球が必要となったからでした。当時「巨人の星」における星一徹の飛雄馬に接する態度は「スパルタ教育」などという言い方で賛美もされました。しかし、この野球に向かない体格の子供を、無理やり野球選手にしようと強要する「父」のすがたは、成長しないロボットのアトムに成長を求めてしまった天馬博士の姿と重なり合うようにみえます。

 「巨人の星」は、父が、「千尋の谷に子獅子を突き落すかのごとく」息子の前に試練として立ちはだかる物語だと長い間理解されてきました。梶原もそう語っていますし、ぼくもまたそこにさして疑問をいだきませんでした。けれども改めて考えてみると、飛雄馬が戦っていたのは息子を成長させるがために父親の与えた試練ではなく、むしろ、プロ野球選手である限りは小さな身体を酷使し父から与えられた野球技術の中で生きなくてはならないという運命、つまり、永遠に父親離れできずに大人になることができないという父親の与えた呪縛との戦いであった、という気がします。

0117_03  そして、飛雄馬は左腕を破壊する形でプロ野球選手としての死を自らの肉体に課し、そして野球という場から降ります。いわば父の物語の外部へと離脱するのです。

 梶原一騎はその後も繰り返し少年たちの成長物語を描きますが、いつも達成されないビルトゥングスロマンでした。しかし、絶筆となった「男の星座」は梶原の死で中断を余儀なくされたことによって、梶一太少年の前に輝かしい未来が開けて終わるという「達成されたビルトゥングスロマン」となりました。

  

・・・

  うーん。

  「巨人の星」の「星飛雄馬」は身を削っても父親離れする大切さを教えてくれているのか。

  うーん。

 さて

 あなたはどう思いますか?

 梶原一騎原作・川崎のぼる作画「巨人の星」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月15日 (月)

懐かしいキャラクターの展覧会は”昭和レトロブーム”と同じ郷愁を誘うのか?

近頃マンガが目立っています。TVドラマをみても、映画を見ても、雑誌を見ても、マンガが原作、マンガを特集、といった具合です。各地の美術館ではマンガやアニメの展覧会が盛んに開かれていますし、京都にはマンガの総合博物館として「京都国際マンガミュージアム」もオープンしました。

 最近のマスコミの報道のうち、産経新聞の記事なかから目にとまったものをご紹介します。

 ◎いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 ◎そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 ◎未来は明るいのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

マンガの世界の過去、現在、そして未来については私たちの最大の関心事

なのです。

・・・

0115_01  産経新聞の平成18年12月13日付け文化面で黒沢綾子氏は次のように書いています。

 「あのころ」の輝きを求めて --なつかしキャラ展--

 懐かしいアニメなどのキャラクターの展覧会が最近、相次いでいる。今年は「鉄人28号」誕生から50年、「ウルトラマン」のテレビ登場から40年。英国のSF人形劇「サンダーバード」も日本上陸40年の節目にあたる。スーパーヒーローの輝きを求めて、かつての少年たちが駆けつけている。

 横浜市中区の放送ライブラリーでは 「ウルトラマン伝説展」(2月4日まで)。

0115_02  東京・渋谷のパルコミュージアムでは 「オブジェクツ・サブジェクツ」展のなかでウルトラマンや怪獣の造形をアートの観点でとらえて12月30日まで開かれた。

 川崎市民ミュージアムでは 「横山光輝回顧展」が1月8日まで、その後1月20日からは「みんなのドラえもん展」。

 東京・渋谷のパルコミュージアムや広島パルコでは 「サンダーバード イン ジャパン」展。

 全国5ヶ所では 「小松崎茂回顧展」が一昨年から昨年にかけて開かれた。

0115_04  ”なつかしキャラ”の展覧会が相次いでいるのは、単に節目が重なったからというだけではなさそうだ。開館当初からマンガをクローズアップしてきた川崎市市民ミュージアムの湯本豪一・学芸室長は,「オジサンたちがニヤニヤしながら(展示を)見てますね。彼らが小さい頃、日本は高度成長期で活気にあふれていた。今は貧しくても、働けばどんどん豊かになれると信じられた。当時夢中だったヒーローに、その時代の空気をオーバーラップさせているのでは」とみる。

 壮大な宇宙の空想世界も、宇宙開発時代に入った1960年代には身近になりつつあった。環境汚染や生命科学の弊害など、戦闘アニメの多くには教訓的メッセージもこめられているが、総じて明るい未来を提示しており、昨年の映画「ALLWAYS 三丁目の夕日」に代表される”昭和レトロブーム”と同じ郷愁を誘うのかもしれない。

0115_05  また、ある美術関係者は「アニメやマンガの展覧会を美術館で行う抵抗感がなくなってきた」と話す。ここ数年、スター・ウォーズ、ジブリ、ガンダム、ディズニーなど、以前はサブカルチャーとして軽視されがちだったテーマを美術館・博物館が真正面から取り上げるようになった。アニメやマンガの”地位向上”とともに、経営が厳しい全国の美術館にとっては、漫画ファンの動員、キャラクターグッズの売上は大きいという。

 先月末には、全国で初めて漫画を総合的に扱う「京都国際漫画ミュージアム」(京都市)がオープン。漫画を日本文化として学術研究する機運が高まっている。今後も、美術館でなつかしのキャラクターに出会う機会が増えそうだ。 

・・・

 うーん。

 読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、うれしいことですね。

 あなたもどこかに、なつかしのキャラクターを探しに行きませんか?

 東京漫画探偵団(まんたん)にももちろん、なつかしのキャラクターは、たくさんたくさん、あちこちにいて、あなたを待っていますよ。

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2007年1月14日 (日)

武富健治「鈴木先生」

Photo_3 皆さんこんにちは、まんたんスタッフのうえむらです。
今回ご紹介する漫画は武富健治「鈴木先生」です。
この作品は不肖うえむらが多くの人に読んでもらいたいと思う作品の一つです。

公立中学で2年生の担任を務める若手教師の鈴木先生が、
生徒たちが巻き起こす数々の問題と真剣に向き合い、ひとつひとつ丁寧に解決してゆく
物語です。こう書くとよくありがちな「教師モノ」でくくられてしまいがちですが、
この漫画の描写力はそのような枠に留まりません。
扱っている問題は小さな学校の中で起きている小さな出来事ですが、
そこから一触即発のドラマ展開が幕を開けるのです。

第1話で登場するのは、席替えをした直後から
給食時間にわざと汚い言葉を並べ立てて
周囲の生徒の食欲をなくさせるという問題行動を起こす男子生徒。
カレーライスを前に「げりみそ」と言ったりして隣の席の女生徒の反感を買います。
この男子生徒は成績も優秀で両親も教育熱心、普段なら絶対にそんな行動は
考えられない生徒でした。そのあたりをおかしいと思いながら
鈴木先生が彼を呼び出して問いただしてみると、

「見ててわかんないんだったら言ってもわかりません!」
「本当はわかってるくせに」

と、突っぱねられます。鈴木先生は彼から3日の時間をもらい、その問題行動の
動機を見極めんと四苦八苦します。その結果鈴木先生は見事男子生徒の
問題行動の原因を突き止めますが、その「真実」に至るまでの過程がとにかく
スリリングで迫力満点、読み手を翻弄します。
この「真実」はあえてここでは明かしません。ぜひ、本書を手にとって
確かめてみてください。驚きと納得、そしてこの「問題」の思わぬ根の深さに
考えさせられることうけあいです。

第2話では給食で一番残し率が高い酢豚が問題になります。
その不人気ゆえに酢豚は給食のメニューから除外されることが決定されるのですが、
ある酢豚好きの女生徒はそれを知って大ショック。なんとかならないのかと
鈴木先生につめよります。鈴木先生はそれを受けて学年で酢豚に関するアンケートを
行うことになるのですが、これがまたじつに考えさせられる結論に至るのです。

「キライなものがひとつあるということがこんなにも他人や社会に
つらい思いをさせることがあるんだってこと…直視してみるとまいるね」

第3話では、、鈴木先生のクラスの生徒が他クラスの友人の妹(小4)と
性的関係を持っていたという事実が親や教師に露見するという事件が発生。

「15歳(高校生)だったらよくて9歳だとダメな理由ってなんなんですか?」
「みんなが結婚するまでガマンしてるならオレだってぜんぜんガマンするよ!
ガマンできなかったヤツが全員有罪で全員罰受けてるなら俺だって同じだけ
罰受けるよッ!!」

この男子生徒の言い分にどう答えるか?
なぜ小学生と中学生は性交渉を持ってはいけないのか?
この厄介な問題に鈴木先生はどう裁きをつけるのか、しつこいですが
ぜひ読んで確かめてみてください。あなたの「こうなるだろう」という
予想を裏切るとともに、説得力を持つ結末に驚かされることでしょう。

武富健治「鈴木先生」1巻はまんたんに置いてあります。
2巻は2月28日入荷予定です。

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2007年1月12日 (金)

携帯でマンガを読むのは実は女性が多くて、世の中を変えるかも?

 近頃マンガが目立っています。TVドラマをみても、映画を見ても、雑誌を見ても、マンガが原作、マンガを特集、といった具合です。各地の美術館ではマンガやアニメの展覧会が盛んに開かれていますし、京都にはマンガの総合博物館として「京都国際マンガミュージアム」もオープンしました。

 最近のマスコミの報道のうち、産経新聞の記事なかから目にとまったものをご紹介します。

 ◎いったいマンガの世界は今どうなっているのでしょうか?

 ◎そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 ◎未来は明るいのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

マンガの世界の過去、現在、そして未来については私たちの最大の関心事

なのです。

・・・

0114_01  産経新聞の平成19年1月3日付け総合面で上塚真由氏は次のように書いています。

 「携帯でマンガブーム」-料金定額制、女性読者後押しー

 漫画を携帯で読む人が増えている。ケータイ世代と漫画の読者層が合致し、電子書籍の中では最も勢いのある市場に成長。大手出版社も内容の充実に力を入れ始めている。

 集英社は自社の携帯サイト「集英社マンガカプセル」で昨年12月22日から「DRAGON BALL」など「少年ジャンプ」の17作品の配信を始めた。

 講談社も昨年10月からの「モーニング」代表作品に続き、1月には「アフタヌーン」の配信もスタートする。

 小学館も約2万点をデジタル化する計画を持っている。

 人気の背景には、携帯電話のパケット定額制が定着したことがある。定額制で契約すれば、通信料を気にせずに会員料金(月額300円程度)だけで漫画が読める。

0114_02  ブームの柱のなっているのは女性読者だ。国内最大の携帯漫画サイト「コミックi」をうんえいするNTTソルマーレのモバイル事業本部、小林克之さんは「当初は男性読者を想定していたが、ふたを開けてみれば6割以上が女性。就寝前に友人に携帯メールを送る際、漫画を読む人が多いようです」と話す。男性同士の恋愛を描いたボーイズラブなど、書店では手に取りにくい作品を周りの目を気にせず読める手軽さが受けているという。

 ほかに講談社では、携帯サイトからパソコンサイト、紙媒体へと、人気によって移行させる新たなビジネスモデルも作りだしている。出版不況が叫ばれる中、漫画を取り巻く風景は変わりつつある。

・・・

 うーん。

 読み手にとっても、書き手にとっても、はたまた業界にとっても、なんというか、これというか、考えさせられますね。

  

 でも、東京漫画探偵団(まんたん)はいつも変わらずマンガを愛し続けます。そしてマンガを愛する人とともにマンガを応援し続けてゆきます。

 なぜなら、

東京漫画探偵団(まんたん)は

マンガ好きのための開放されたコミュニティー
マンガを通じて解放される自分
今日の栄気を養うビタミンスペース

でありたいからです。

 つまり、

純(ピュア)まんが喫茶  /  まんがの心音(こころね)を感じるお店

であるからです。

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2007年1月11日 (木)

福満しげゆき「僕の小規模な失敗」

Photo_4 あけましておめでとうございます、まんたんスタッフのうえむらです。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いします。

さて、本年最初にご紹介する漫画作品は、福満しげゆき「僕の小規模な失敗」です。
昨秋、週刊モーニングに続編が掲載されたので作者名をご存知の方も多いかと思われます。

この作品は、いまや「最後のガロ系漫画家」の異名をとる作者いわく、
「たいしたことのないヤツ版の『まんが道』」です。
この作品では漫画を描き始めてからの作者の「今まで」が描かれているわけですが、
その「今まで」について作者はあとがきで次のように語っています。

「僕は『自分』も『自分の今まで』も、ずっとイヤでイヤでしかたがなくて、
イヤなことがあるたびに『死にたい』だの『生きているのがイヤだ』だのと、
しょっちゅう思ってきました。」

この作品内で描かれる漫画家を志す主人公は、
まさにそんな言葉を体現したさえない男の子です。
入学した工業高校に馴染むことができない彼は漫画を描き始めるのですが、
その動機からして消極的というか、
いかにも現実にありそうなダメな妥協の仕方をしています。

「僕はマンガを描くことにした。昨日はギターを覚えてバンドを組んで
既成概念をブッ壊してやる!!…とか思ったが、人には適性ってものがある…
だいたい僕にはそんな友達がいない。」

その後、工業高校を留年の末中退。

「恋愛ゲームにも参加できず…漫画コンクールで相手にされず…
学歴コースからも脱落しちゃって…ぼくはまだどのスタート地点にも立ててない
わけだから…まだ何も始まってもいないのに…もう…ずいぶん失敗しちゃったような…」

まさに挫折だらけの青春ですが、この作品の主人公のすごいところは
なんとかさえない現状を打破しようと精一杯もがき、あがくところです。
再入学した定時制高校で柔道部を設立したり、生徒会長に立候補したり、
その行動力には目を見張るものがあります。
もちろんその行動は「このままじゃ…こんなとこ居れない…何か始めなければ!」
という焦りからきているのですが、定時制高校に通いつつ、放課後に柔道をやり、
それから漫画を描く…というエネルギーは素直にすごいと思います。
実際は何かを始めなければと思いながらもできず、気に入らない日常にも
怠惰で折り合いをつけて、無気力に日々に埋没してしまう若者が大多数なのでは
ないでしょうか。

しかし、これだけやっても主人公は充実感とは無縁です。
柔道部部長として大会に出場、3位に入賞しても家に帰れば
「みんながデートしているであろう日曜日に3位がどうとか言って…はあ~…」
と、ため息をついています。そう、彼にとって最大のコンプレックスは
「女性にもてないこと」。女性とコンタクトをとることの困難さに比べたら、
それ以外のことなど大した価値がないのです。
その証拠に、友人を介してやっと知り合った女性に
激しくメロメロになり、スムーズに会話するために飲酒して泥酔し、
セクハラまがいのことをして嫌われる…という悪循環に陥ってしまいます。
「女性にもてないのが悩み」というのは裏を返せば「女性にもてたい!」と
強く思っているということ。それだけエネルギーに満ちているということだと思います。
行動力があるのも当然なのです。

たぶん、この作者は「こうありたい」という理想がとても高い人間なのだと思います。
だからこそ行動し、努力し、もがいてあがき続ける。
それは実は一番大事なことなのではないでしょうか。

福満しげゆき
「僕の小規模な失敗」「まだ旅立ってもいないのに」「カワイコちゃんを2度見る」     
は、まんたんにおいてあります。

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2007年1月10日 (水)

「形式結婚」は明るい性の悩み相談室である

0101_37 お正月も はや10日となりました。

寒さも厳しくなりましたので健康にはどうぞお気をつけください。

相変わらず、やっぱりマンガの話です。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「形式結婚」は明るい性の悩み相談室である

と題して進めます。

0110_01  ひそかに読まれています。若い人も年配の方も読んでいます。けっこう人気があります。私も好きです。今読んでも面白いと思います。いつかまた読むかもしれません。そんな漫画だと思います。

 柳沢きみお作。「漫画アクション」連載。全25巻。柳沢きみおには講談社漫画賞受賞「翔んだカップル」やテレビ化されて人気のある「特命係長只野仁」などの代表作がある。一時期は同時に10誌近くに連載をするほどの人気作家。「形式結婚」はストーリー構成がよく、アダルト色もあり、作者本人の社会観や人生論が滲み出ている箇所も多い。

 村上知彦先生は「まんが解体新書」の中で柳沢きみお作「形式結婚」について次のように書いています。

・・・

 「漫画アクション」に連載中の、柳沢きみお「形式結婚」を楽しみにしている、などということはあまり人前では言えないと「週刊朝日」に書いていたのは高橋源一郎だった。近頃マンガが面白くない、惰性で読んでしまうと嘆いた上での、情けなさそうな告白だった。

 しかし、確かに大きな声では言えないが、ぼくも、「形式結婚」は面白いと思ってしまう一人である。単行本でそろえようとまでは思わないが、雑誌を開くといつも三番目ぐらいに読んでしまう。なんというか、楽しみが後を引くのである。ぐいぐい引っ張っていくたぐいの面白さではないのだが、惰性というのともちょっと違う。空しいと思いながらも、こらえきれずについ手が伸びる。いわば受験生のオナニーみたいなもんである。糸を引くような粘着質の楽しみ、とでもいおうか。

0110_02  品のないたとえになってしまったのは、この作品がそういう世界を描いているからである。「形式結婚」は異性恐怖症、不感症、インポテンツ、短小など、性の悩みを抱える現代の様々な男女が繰り広げる、おかしくも悲しい妄想と欲望と挫折と試行錯誤の日々を描いたセックスコメディである。

 最初はタイトルどおり、互いに異性に性的関心を抱けない男女が、偽装結婚によって周囲の目をごまかすというシチュエーションの中で起こる悲喜劇としてスタートした。だが、登場人物たちの苦悩と、その克服にかける真剣かつ滑稽な努力を描くうち、やがて作品は性に関する誤った固定観念を退け、自由な快感にめざめるための技能書の様相を呈してくる。要するに、明るい悩み相談室と化して、テクニック講座としてのセックスシーンが延々繰り広げられるのだ。

 登場人物はみな、一見「性の悩み」とは無縁に思える美男美女ばかりである。それだけにかえって、その内面に抱えられたばかばかしくも切実なこだわりと、その表れの果てしないエスカレートぶりが、妙にいとおしく思えてしまう。

 性に関する情報が氾濫するなかで、おそらくこういった悩みやコンプレックスはかえって増幅され、日々再生産されているのだろう。そしてそれは、あふれる性情報を抑圧することによってはたぶん解消しない。なぜなら、そのような抑圧こそが、人の心の奥底にひそみ、悩みや妄想の棲み家となるものだからだと、この作品は語っているようだ。

・・・

 うーん。

 あなたも明るい性の悩み相談室をたずねてみますか?

 読み返したいですか?

 柳沢きみお作「形式結婚」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります

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2007年1月 9日 (火)

すばらしくて、そして楽しい仲間たち

 東京漫画探偵団(まんたん)も10周年目の正月を迎えました。

 今までもたくさんのすばらしいスタッフに恵まれましたが、この正月をともに迎えるスタッフの仲間たちもまたすばらしい人々です。

0612うえむら」さん。

笑顔がすてき。

誰に言われるわけでもないのに人にできないことをするような人です。それも人が気がつかないうちに。返却口のゴミ箱を見て可燃ごみの中に間違って不燃ごみが入っているのを見つけると、なんと、素手でより分けなおして分別をするような、そんなすてきな人です。

0612_1にゃちゃぼ」ちゃん。

笑顔が可愛い。

甘いものがとっても大好きなのに、人当たりがすごく柔らかいのに、 でも根はしっかりもので、こころは一人立ちできている、がんばりやさんです。

いわれる前にやってほしいことをいつの間にかちゃんとやってくれているような人です。

0612_2オオコウチ」君。

さわやかな好青年。

明るくて礼儀正しくて、でも少しヘン。なぜかと言うと、こんにちわと挨拶する時、ふつうは頭をすこしさげるのに、彼はなんと、頭をさげずにひざを曲げるんです。まるで、中世の貴婦人が王子様に会ったときみたい。

でも、人が困った時には、頼まれても頼まれなくても、人がうれしいと思えることを、いやな顔一つしないで快く自然にやってくれる人です。

 みんなみんな、ありがとう。みんなには才能、若さ、明るさ、元気、特異な趣味などなど、あふれるばかりの煌めきをいただきました。

 今日の東京漫画探偵団があるのもすべてあなた方のおかげです。ありがとう。おかげさまで10周年。昨年12月1日にはリニューアルオープンできました。そしてまた新しい年を迎えることができました。

 あなた方に書いてもらった、個性あふれる自画像を添えてあなた方のすばらしさを紹介させていただきます。

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2007年1月 6日 (土)

「NARUTO」は戦後マンガの重箱であり、「懐かしのアイテム」博覧会である?

0101_35 お正月も六日です。

今日からまた3連休の方も多いことでしょう。

もう本格的に仕事に大車輪の方もいらっしゃるでしょう。

どちらさまにも、やっぱりマンガの話です。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「NARUTO」は戦後マンガの重箱であり、「懐かしのアイテム」博覧会である?

と題して進めます。0106_naruto01

 すごい人気のマンガです。たくさんのお客様に読まれています。テレビでも劇場でもアニメ化されています。ラジオ放送もされています。テレビゲームは10作品以上あり、カードゲームも販売されています。ミュージカルとイルージョンを融合した“忍者イリュージョン”として戯曲化されて、プリンセス天功演出により、昨年舞台化されました。小説にだってなっています。

 岸本斉史作。1999年から「週刊少年ジャンプ」に連載されている少年マンガ作品。忍者の頭目を目指す少年を中心に描く忍者アクションコミック。連載は1999年から7年も続き現在も連載中でコミックスは2006年末で36巻を数える。漫画の中身は忍者同士の戦いが中心で現実の忍者の枠にとらわれない派手な戦いを繰り広げる。アニメ化され、世界でも強い人気を博している。この作品の舞台となるのは中近世の日本をベースに、現実世界における現代文化をミックスした架空の世界である。忍者の位置付けと共に既存の忍者漫画とは一線を画す独特の世界観を構成している。

 夏目房之介先生は「マンガは今どうなっておるのか?」の中で、「NARUTO」について次のように書いています。

・・・

 仕事のからみで岸本斉史「NARUTO-ナルト-」をまとめ読みした。ジャンプ的な少年マンガとして面白いし、よくできている。「面白さ」にはいろんな要素があるけれど、何よりも「この人はほんとにマンガが好きなんだなぁ」というのが熱として伝わってくる。マンガ好きは無条件でほほえんでしまうようなところがあるのだ。何となく「がんばれよ」と応援したくなるんだね。

0106_naruto02  ぼくの世代が読むと「NARUTO」に登場するさまざまな術には、戦前の立川文庫につながるだろう牧歌的な子供マンガの「忍術」(ドロンとガマに化けたりする奴ね)と白土三平が広めた種明かしのリクツがある「忍法」、同じく忍者の階級性(上忍・中忍・下忍)と経済的背景という観点が重なっているように見える。

 また大友克洋・鳥山明の影響下にあった作者の世代の絵の変遷も見える。1974(昭和49)年生まれの岸本が6~18歳、小学校から高校にいたる時期は、少年ジャンプの全盛期であり青年マンガ誌の急速な発展期だった。そんな歴史的要素のむすびつきを読み解いてゆくと、まるで戦後マンガ史の遺産を発掘でもするかのような楽しさがある。

 それらの要素は、ロールプレイングゲームやアニメを基礎教養とする世代の作者らしく、設定と戦闘の文脈の中に並列配置される。マニア的な愛情が感じられるその手つきは、同時にそれ自体がジャンプ的少年マンガの娯楽の王道を作るマーケティング的なキャラクター設定や、「友情・努力・勝利」の公式に同調していく。

 そういう読み方をすれば「NARUTO」は、忍者マンガというジャンルを通した戦後マンガ(及び子供娯楽文化)の重箱みたいだ。

0106_naruto03  面白いと思ったのは「NARUTO」が、「Dr.スランプ」~「DRAGONBALL」初期の「楽園」的なコミュニティ感覚から出発してるという印象だった。私見では、この感覚は80年前後の学園物やラブコメやファンタジー系マンガが共有した時代感覚だった。

 町が一つの国で、忍者を輸出産業化し、それがパワーバランスになって・・・という構造は、うがっていえば白土三平の職業階層共同体としての忍者と、その発展形としても読める士郎正宗の社会観導入のスタイルの援用かもしれない。

 ナルトの孤独な生い立ちが語られ、九尾の狐が登場すると「あ、藤田和日郎<うしおととら>だ」と思う。

 背中に背負うデカい十字手裏剣はもちろん白戸の「風車手裏剣」を思い出す。「千本」という金串みたいな武器も白土忍法に登場する。もちろん「影分身」「変わり身」という忍法の名もそうだ。

0106_naruto05  が、次第に登場するトリッキーな忍法は、ほとんどファンタジー系の魔法で、一族の「血」に関わるものだったりして、これらが横山光輝から「少年ジャンプ」へと発展したトーナメント方式の対決でぶつかり合う。忍法を可能にするエネルギー単位として出てくる「チャクラ」は「DRAGONBALL」が後半で採用した「スカウター」につながるゲーム感覚の戦闘力単位だろう。

 こういう要素を指摘していくときりがないのでやめるが、要するに昔からマンガを読み、あるいはゲームに親しんだ人たちには、まるでオモチャ箱をひっくり返したような「懐かしのアイテム」博覧会のように読めるのだと思う。

・・・

うーん。

あなたも「懐かしのアイテム」博覧会を味わいなおしてみますか?

読み返したいですか?

 岸本斉史作「NARUTO」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2007年1月 5日 (金)

「ぼくんち」は崩壊はしていても、それでもなお「家族」であることを描いている

0101_41  お正月も五日です。

仕事始めの方も多いことでしょう。

さあ、今年も一年がんばりましょう。

やっぱりマンガの話です。

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「ぼくんち」は崩壊はしていても、それでもなお「家族」であることを描いている

と題して進めます。

0105_01_1 ビッグコミックスピリッツで連載され第43回文藝春秋漫画賞を受賞した西原理恵子のベストセラーコミック。うらぶれた港町、どん詰まりのビンボー、とことんツキに見放されたような“水平島”でたくましく生きる一太と二太の兄弟と、ふたりを包む強く優しい姉かの子、そして奔放な女だがどこか憎めない母今日子の一家が繰り広げる、一風変わったホームドラマ。

一太と二太の兄弟は、うらぶれた水平島の中でも貧乏人がふきだまる、うらの港に住んでいる。かあちゃんは家出中。とうちゃんは元からいない。ある日、家出していたかあちゃんが、新しい姉ちゃん、かの子を連れて帰ってきた! かあちゃんはまたすぐいなくなったけど、その日から一太と二太そしてかの子の、ささやかだけど新しい暮らしが始まった。

一太と二太の兄弟は、うらぶれた水平島の中でも貧乏人がふきだまる、うらの港に住んでいる。かあちゃんは家出中。とうちゃんは元からいない。ある日、家出していたかあちゃんが、新しい姉ちゃん、かの子を連れて帰ってきた! かあちゃんはまたすぐいなくなったけど、その日から一太と二太そしてかの子の、ささやかだけど新しい暮らしが始まった。

文藝春秋漫画賞を受賞した西原理恵子の原作は、現在までに25万部を売り上げているというベストセラーコミックである。あっけらかんとした笑いの中に底知れぬ深みを内包し、いつの間にかその毒気がクセになってしまうところが、男女を問わず幅広いファンを獲得している所以である。

フツーのシアワセを求める、一見フツーでない家族・・・ちっとも家に居着かない男運の悪い母親、3人とも父親の違う姉弟、水平島の奇妙な隣人たち。シビアな現実の中で世間を生き抜いていこうとする姉弟の姿を、ドライなほのぼの感を活かしながら、ペーソスたっぷりに描いている。その無邪気な一所懸命さはユーモラスで、どこか切ない。

・・・

0105_02_1  呉智英先生は「マンガ狂につける薬」の中で「ぼくんち」について次のように書いています。

 高校中退、無頼、絵が下手、文章が投げやり・・・・。これを売り物にしているのが西原理恵子である。もっとも、このうち本当なのは高校中退だけで、後はシャイゆえの演技だろう。「ぼくんち」は文字通り、「ぼく」の家族を描いた不思議な味のあるギャグマンガである。

 「ぼく」は二太、兄が一太。どこかの田舎町に住んでいる。かあちゃんは三年ぶりに帰ってきた。初めて会うねえちゃんを連れて。一太と二太とは、とうちゃんが違う。ねえちゃんもそうらしい。初めて会ったので、ねえちゃんに職業を聞くと、ピンサロ嬢だという。そして、ピンサロ嬢がどういう仕事なのか、子供にもわかるように明るく教えてくれた。数日後、かあちゃんはまた家を出て行った。

 ぼくんちの近所は異常なところである。シャブ中毒、かっぱらい、売春婦、ヤクザなんていう人ばかりが住んでいる。二太は泣き虫で、淋しがりで、ひ弱である。しかし,誰も同情はしてくれない。誰もが必死に生きていかなければならないからだ。

 隣町に、こういち君という札付きの不良がいる。どうやら黒人米兵が父親らしい。こういち君はトルエンの密売や、もっとヤバイこともやっている。しかし、自分の中に基準があって、やる仕事とやらない仕事ははっきりと区別している。監禁されているフィリピーナの見張りのような仕事はしない。やさしいのだ・・・・と思って甘えると怖い。彼は甘えたもたれあいは大嫌いなのだ。

 常識から見れば崩壊してしまった家族、崩壊してしまった地域社会である。しかし、「ぼく」にはこれも家族であり、地域社会である。福祉も人権もUNESCOも関係なく、二太の家族と友人はこれでも家族であり友人である。連載の毎回二ページの短さの中に笑いと感動を描いた力量は驚異であった。単行本は可愛く仕上がり、それがかえって迫力となっている。

0105_03_1  私はフェミニズムが嫌いである。本当は、フェミニストたちが自覚していないいくつかの点においてフェミニズムを高く評価しているのだが、彼ら彼女らは、自分たちが描いている以外のフェミニズム像があると気づきさえしない。その鈍感な単細胞ぶりが嫌いなのである。子供の権利だの自己決定権だのを声高に称え、家族の抑圧だの夫婦間性暴力だのを得意げに告発している連中も、まったく同じ意味合いで私は嫌いである。よーっく考えてみるがいい。すべての愛情は精神的な暴力であり、時には肉体的にも暴力である。また、すべての人間関係は精神的な抑圧であり、時には肉体的な抑圧である。そうでありながらなお、人間は愛情を持ったり持たれたりし、人間関係を作ろうとするのだ。

 大哲学者ヘーゲルはこう言っている。家族は精神的な一体感すなわち愛を規範としている。愛は理解力を超えた矛盾である、と。

 ヘーゲルなどという難しいものを考える必要はない。小説にだってマンガにだって、愛という矛盾だらけの感情は描かれている。子供の権利を主張してもいないし、夫婦間性暴力に警鐘を鳴らしてもいないけれど、単細胞のフェミニズム御一統様より人間がわかっているマンガである。

・・・

うーん。

あなたも家族という不条理を味わいなおしてみますか?

読み返したいですか?

  西原理恵子作「ぼくんち」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

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2007年1月 4日 (木)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部⑥コマの飛躍が想像力をかきたてる

お正月も四日です。

0101_23 0101_39 こころ新たに、一年の計をお立てになっていることでしょう。

  あんなことや、

こんなことを、

 いろいろ考えていることでしょうね。

 さて、そんなあなたでもやはりマンガははずせませんね。というわけで、またまたマンガの話です。昨日までに手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげて

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部

と題して

①吹き出しに書き手の力量が表れる

②擬声語・擬態語は存在感がありあり

③マンガ的記号はアメコミから始まった

④人物と背景は対比と連続がポイント

⑤コマ割りは事件の成り行きを面白くする

を見て来ましたが、いよいよ今日は最後です。

⑥コマの飛躍が想像力をかきたてる

を見てゆきたいと思います。

0101_123    手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあります。読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景、その脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 ・・・

 竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

  ここで、コマとコマの飛躍の問題を取り上げておきたい。ストーリーマンガはコマの集積の上に成り立つ。そうした宿命をふりかえる場合、コマとコマの連続あるいは飛躍の問題は避けて通れない問題となるはずだ。マンガは絵を中心としたメディアだといわれる。だから読み手の想像力を喚起しないという見方がある。しかしそれは大きな誤解を内に含んでいる。飛び離れた絵を目で追うことで、マンガには連続した事件が生み出される。その背後には分断した情報を統合化する人間の想像力が大きく関与していることを忘れてはならない。その点では映像の連続する映画やテレビよりもより想像的なメディアであるのかもしれない。マンガのほうがより積極的な読者の関与を必要とさえする。佐藤忠男は「マンガがもし想像力を必要としないとしたら、それは絵によってイメージが限定されるということではなく、その絵に、特に想像力を刺激するほどの内容がないということなのである」と書いているが、大きくうなづけるものがある。

0101__6 再び「ブラック・ジャック」を見ていただきたい。ピノコの追跡シーンだ。①から⑨のコマには本来独立した画像が描かれていた。それを私たちはひとつながりの空間、事件として知覚する。描かれた図柄、特に人物の形の類似性によって連続性が生み出されている。あるいはもっと極端にかけ離れた図柄であったとしても、僕たち読者はそこにひとつの出来事を見出すはずだ。

 ⑧と⑨のこまをよく見ていただきたい。⑧では「そんなうそついたってだめだよ どう見たって七つ八つ・・・・」と男が言い寄る。絵のほうにも注目しておこう。他のコマと比べると男の顔はアップになっているのだが、描かれる角度が違っている。やや下からの構図が取られており、ピノコよりの視点が反映されている。完全なる同化はなされてはいないものの、読者はピノコに寄り添いドラマに参加していく。同時に読者はピノコのいらだつ心理を共有するはめにおちいる。そして次の⑨のコマで弁当箱が投げつけられるはめに。

0101__3  ここには高度な省略が際立つ。凡庸な描き手ならどうするだろうか。おそらくこの間に、多数のコマを詰め込んでしまうことだろう。たとえばピノコがムッとする表情、箱を投げつける動作、驚く男の表情などのコマを。それらのコマを一切省略して、⑧のコマは⑨へと飛躍していく。なかなかのものだ。読者はその間に起こったであろう出来事を難なく理解できるのである。

 確か70年代後半のことだったと思う。石ノ森章太郎は最近飛躍したコマ割りが使えないと、ある雑誌で嘆いていたことがある。読者から理解できないとクレームが寄せられるのだという。戦後の長い時間経過の中で、コマ割りは意に反して冗漫になり、それこそ長大なページにマンガは間伸びしてしまった。

 こうしたコマとコマの飛躍については、過去さまざまな評論家が考察をめぐらせてきた。コマとコマの飛躍を結びつけるもの、それは=マンガの読書経験の積み重ね、知覚の習い(リテラシー)であることに疑いはない。「慣れ」はより深く正しい「理解」をもたらすのである。

・・・

・・・

 なるほどなるほど。

 コマの飛躍には、描き手の配慮しだいでこれだけの効果を生み出す力があるのですね。コマの描き方によってマンガに天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。

 フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月 3日 (水)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部⑤コマ割りは事件の成り行きを面白くする

0101_15お正月も三日をむかえました。

0101_18みなさんも

0101_42おいしいものをたくさん召し上がっていることでしょうね。

あんなことや、

0101_43こんなことを、

 いろいろしていることでしょうね。

どなたさまも良い年をお迎えのことと存じます。

 さて、お正月にもやはりマンガははずせませんね。というわけで、またまたマンガの話です。昨日までに手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげて

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部

と題して

①吹き出しに書き手の力量が表れる

②擬声語・擬態語は存在感がありあり

③マンガ的記号はアメコミから始まった

④人物と背景は対比と連続がポイント

を見て来ましたが、いよいよ今日は

⑤コマ割りは事件の成り行きを面白くする

を見てゆきたいと思います。

0101_122    手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあります。読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景、その脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 ・・・

 竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

 コマはマンガにとってはきわめて重要な要素であることは改めて言うまでもない。コマの連続によってぼくたち読者は紙面の上にひとつの事件を読み取ることができる。事件を「物語」と読み替えてもいい。とにかく時間展開にそった事件のなりゆきが、コマの配列によって可能となるのだ。

 隣り合ったコマは、その飛躍の中に読者の想像力をかきたてる。コマとコマの飛躍は、アニメーションや映画にはないマンガ独自の効果を生む。紙芝居は比較的マンガに近いが、マンガほど自在なコマ割やリズムを生み出しえない。

 おかしなことを言うようだが、マンガのコマには枠線がなくても良いのだ。単なる空間の領域さえあれば。しかし現在の日本のストーリーマンガは直線に囲まれたコマ構成を基本としており、回想や空想シーンなどの場面で枠線をはずした表現は逆に、ひとつの効果を生み出す。もしすべて枠線を用いないコマ展開ならば、相当な違和感があるはずだ。やはり直線で分断されたコマを基本としてストーリーマンガが成り立っているのである。

 さらにコマは横長の形が安定感を生み出し、縦長になると変化に富んだ印象を読者の与える。またコマの面積も物理的な側面を越えて、読み手に一定の効果を生み出す。大きなコマでは読みのスピードがゆるむ。小さなコマでは読みのスピードが増す。コマの大小は単純な視野の拡大という効果を超えて、読者のリズムをも規定してしまうのだ。

0101_01_1 ここで再び話を「ブラック・ジャック」に戻してみよう。ピノコと刑事とのやりとりのシーンである。この場合はわりと単純なこま割りがされていることに気がつくはずだ。列車内のささいなやりとりの場面なので、アクションシーンのようなハデさがない。四段の上からそれぞれ、二、三、一、三の数のコマに分けられている。今日のマンガでは平均的なものとして映る。

 引用した手塚オサムのマンガでは、ドラマの進行にあわせてコマがうまく割られている。場面の効果が計算されている。しかし、実際にはマンガ家の多くは右左のページの見開きを優先してコマ割する場合が多い。そのためコマの形はひとコマ内の情報の質に左右されるとともに、見開き全体のレイアウトを主体にして分割されてしまう。だから縦長のコマは変化を示す、横長のコマは安定性を示すという図式も実は原理的な側面でしか意味を持ち得ない。

 過去、コマ割りはさまざまに工夫されてきた。枠の外にまではみ出すコマ割りも実際行われてきた。より広い空間を用いるために。いわゆる「断ち切り」、紙面いっぱいに使うコマ展開である。断ち切りの多用は戦前では考えられなかったもので、現在では全ページが断ち切りの作品も珍しくなくなっている。

0101__2  さらに「変形ゴマ」もマンガ独自のものだろう。コマの形が四方形だけなく、いびつに歪んだ形に区切られたコマのこと。映画やテレビ、あるいは絵本・紙芝居は四方形が原則なので、こうした自在な形をとることはむずかしい。マンガ特有の枠組みといえようか。こうした変形ゴマは物語り展開の急変を告げたり、迫力を増したりするものだが、戦後手塚治虫や石ノ森章太郎などにより盛んに用いられるようになった。ところが現在のマンガの多くは、そのような積極的な意味づけから離れ、単なる装飾的意味合いのもとに使用されることが多い。

0101_ コマにまつわる話題を続けよう。次に興味がわくのは、コマの配列のしかたである。一ページの画面にどうコマを並べまた読みつがせるかにより、読者の読みのパターンが決定づけられてゆく。平たく言えばコマはどの方向に流れていくのかといった視線の推移の問題である。

 この点に関して疑問をもつひとは少ないはずだ。マンガは右から左へとコマを読み進める。、その後、視線を下段へと視線を移していく。先にあげた「ブラック・ジャック」の例でも①~⑨の番号がコマの提示の順序=読者の読みの順であることに違和感を抱く人はまれだろう。

0101__3 コマ構成の規則、読みの順序。なにげないことだが無意識に読み進めている僕たちの知覚の習いにも、背後にはそれなりの歴史が横たわっているのである。コマの配置、読み取りの順は、コマ内の画像そのものの造形にも深く関わりあう。そうした事実だけを事前に理解しておくことができればと思う。

      ・・・

・・・

 なるほどなるほど。

 コマ割りには、描き手の配慮しだいでこれだけの効果を生み出す力があるのですね。コマ割りのしかたによってマンガに天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。

 フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月 2日 (火)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部④人物と背景は対比と連続がポイント

 みなさん、お正月をどのようにお過ごしですか?

Photo_1 初詣でにお出かけですか?

 でも、お正月にもやはりマンガははずせませんね。というわけで、またまたマンガの話です。昨日までに手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげて

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部

と題して

①吹き出しに書き手の力量が表れる

②擬声語・擬態語は存在感がありあり

③マンガ的記号はアメコミから始まった

を見て来ましたが、いよいよ今日は

④人物と背景は対比と連続がポイント

を見てゆきたいと思います。

0101_129   手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあります。読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景、その脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 ・・・

 竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

 人物、事件、場所といった古典演劇の三要素のうち、人物(登場人物)と場所(背景)に注目して、やはり例示した「ブラック・ジャック」の一ページを見直してみることにしよう。

 人物と背景は、画面の中では図と地として対比される。列車の中の窓、椅子、乗客などが背景(地)として背後にひかえ、男とピノコが前景(図)として前面に浮き出す。

0101_ まず図に該当する男とピノコの動作に注目してみる。

 すぐわかることだが、男の動きがリアルでなかなかいい。②の火傷しながら飛び跳ねるシーン、③手を前にして息で冷やす動作、⑤ハンカチでぬぐう、⑥ピノコに覆いかぶさるように誘惑、親指をつきたてた手の表情も傲慢だ、さらに⑧では異なった形に。そこに男の表情の変化が加わって、リアリティがかもし出されている。0101__3 こうした男の動的な動きに対して、ピノコのほうは静的だ。男が動から静に変化するのに対して、ピノコのほうは静から動に変化すると言ってもいい。とにかくその対比がきいている。

 こうした一連の動作はマンガ独自のものという印象を与える。日本人の日常生活では見かけることがない。しかし、動作の意味するものは、ぼくたち読者によく伝わる。つまりこのような動作も、ひとつの約束事として、”知覚の習い”を形づくっているのだ。

0101__4  マンガの記号同様、人物の動作もアニメーションをルーツにもつ。初期の手塚マンガの動きはディズニー経由のもの。ディズニーはチャップリンのパントマイムを手本にしたというから因果はめぐる。チャップリンやキートンなどの無声映画 → 無声のアニメーション → 新聞紙上のマンガ、という風にアメリカでは文化間の影響の縦糸が目立つ。やがてそれが日本にも及び → 戦前の物語マンガ → 現代のストーリーマンガに尾を引いていく。そして現在では、逆にアメリカのマンガに影響を与えているというのだから、歴史というものはおもしろい。人物の動作に関わる記号的身体のありさまについては、10章で詳しくふれた。

0101__5  ところで、もうひとつ「ブラック・ジャック」に画面で注意したいのは、人物の顔の向きである。ピノコの視線は常に左を向き、ページをめくる読者の視線の方向に一致している。それに対して、ピノコの行く手をさえぎる男は逆らった方向=右向きに描かれる。何気ないことだが、こうしたところにも漫画家の配慮は働いているといえる。

0101__6  さらに、⑧の男の描き方にも注目。ローアングルから描かれている点が注意を引く。ここにはピノコ寄りの視点が反映している。物語展開の方向にピノコの顔や視線が流れることを含めて、読者はピノコに同化しやすい構図がとられている。

 さらに、逆に背景(=地)はどうなのか。背景は奥にぐっと引っ込む。奥に引き込みながら、物語を安定させる役割を担っている。動的な<図>となる人物に対して、静的な<地>としての機能を果たしているのだ。そうした動と静の対比が、人物の連続性を際立たせる基本軸になっているといえるだろう。

 ともかく人物と背景は、対比的にドラマの空間を形づくっている。前面と背後に分離して重なりながら、コマの連続性の基本軸となりえているのだ。ここらあたりのことはたいへん重要である。映画ともテレビとも、あるいは紙芝居や絵本とも異なる表現の仕組みが、こうした背景の処理に示されており、考察するには興味の尽きないテーマであるに違いない。

 人物の描き方の中では「頭身」の変化が興味深く、特に連載作品の中では、さまざまな揺れが生じている。(略)

 また、背景と人物をつなぐものとして、地と図の中間である「影」の表現も重要であり、ベタ表現も大切である。(略)

・・・

・・・

 なるほどなるほど。

 人物と背景(図と地)には、描き手の配慮しだいでこれだけの効果を生み出す力があるのですね。人物と背景(図と地)の描き方によってマンガに天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。

 フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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2007年1月 1日 (月)

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部③マンガ的記号はアメコミから始まった

0101_01・・・  

0101_03あけましておめでとうございます。

0101_02 旧年中は大変お世話になりましてありがとうございました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

平成19年元旦

東京漫画探偵団(まんたん)

・・・

・・・

・・・

0101_103  昨日までに手塚治虫の「ブラック・ジャック」を例にあげて

「ブラックジャック」に見るマンガ表現の細部

と題して

①吹き出しに書き手の力量が表れる

②擬声語・擬態語は存在感がありあり

を見て来ました。いよいよ元旦の今日は

③マンガ的記号はアメコミから始まった

を見てゆきたいと思います。

0101_102  手塚治虫の「ブラック・ジャック」にはマンガ表現のお手本ともいうべきものが数多くあります。面白さにぐいぐい引き込まれている時に、ふと気がつくといたるところに表現のうまさにため息が出ることがよくあります。あなたもそんなことがありませんか?

 読み手を感動させる作品を創り出し、描き出すことができる背景、その脈打ち息づいている実際の姿の片鱗でも良いから触れてみたいと思いませんか。それはマンガを読む人にとっても、マンガを描く人にとっても、またマンガをこれから描きたいと思っている人にとっても知りたいことではないでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 ・・・

0101_ 0101_  竹内オサム先生は著書の「マンガ表現学入門」の中で次のように書いています。

 マンガ的記号を取り上げよう。もう一度「ブラック・ジャック」の図版を見ていただきたい。ここにはさまざまなマンガの記号がひしめき合う。日常ではお目にかかれない特殊な記号だ。擬声語・擬態語のように、言葉をモデルとするような対応関係を持たない視覚的な符号が、画面にちりばめられている。

0101__1 0101__2  ①の放射状の線、②の湯気、あるいは頭から出ている汗の線、また飛び跳ねている様子を示す動作線などなど、それぞれが人物の行動や内面の表現となりえている。⑤⑥にある男の汗も、一癖ある男の内面をよく表しているはずだ。ラスト⑨のピノコの頭にあるボワーッとした波線などは複雑かつ微妙な表現で、言語化するのはなかなかむずかしい。また、同じコマ、男の顔の弁当箱の右下に記された点々の線は、いまからずり落ちそうな微かな重力の予感をうまく表現している。

 0101__1 こうした記号類は歴史を振り返れば、戦前の「のらくろ」で人気を得た田川水泡が工夫をこらし、戦後になって飛躍的に発展深化しバラエティを広げてきたものだ。これらの記号は実は日本のマンガ家が独自に考案したものではない。もとをただせばアメリカのコミック・ストリップ(新聞の続きマンガ)にたどりつく。19世紀末から新聞マンガに初歩的な記号が散見される。それが多用されるようになったのは、1920年代以降のことではないかと思う。パット・サリバンのアニメ「フェリックス・ザ・キャット」が大きな影響を与えたと、ジェラール・ブランシャールは「劇画の歴史」の中で紹介している。

 日本では「猫のフェリックス君」としてお馴染みのこの作品は、まず1917年にアニメーションとして制作され、1923年に新聞紙上のマンガになったという。ディズニーのミッキー・マウスの誕生よりもずっと早い。もともとアニメーションのほうは無声だった。声がそえられないから、おのずと心理や感情の表現は視覚に頼ることに。当時流行したチャップリンやキートンたちのスラップスティック(ドタバタ)映画に動きを学びつつ、登場人物の内面表現に際しては独自の記号をプラスしていく。怒ると頭から煙が、殴られると☆が回る、疲れたら汗が飛び散るなど、各種の記号が新聞マンガにそのまま受け継がれていったのだ。そして戦前に日本のマンガに流れ込んだというわけだ。夏目房之介はこうしたマンガ記号の比喩的側面に注目し、それを、”形喩”と呼び直したが、もとをただせばアニメ経由の記号であったことがわかる。

 ところで記号の図柄は、線や点など、図形に対する人間の基本的な生理反応にもとづいている点がおもしろい。とがった先端に見る人の視線は流れていくし、とがったものよりも丸いものに人間は安心感をいだく。接近した点と点のつながりは、ひとまとまりの図形として意識され、白と黒の対比は、そのまま心の明暗の感情と結びついている。こうした基本的な図形の心理的側面については、ゲシュタルト心理学者たちがさかんに研究したが、その成果はマンガの記号を読み解くときのガイドとなるにちがいない。

・・・

 なるほどなるほど。

 マンガ的記号ひとつにもこれだけの歴史と発展があるのですね。記号の描き方によってマンガに天と地ほどの差が出ることもよく理解できるような気がします。それにつけても、マンガの描き手にとって「何を描くか」ということとともに「どのように描くか」が重要なのですね。

 フムフム。描き手はソコントコをコウしているんですね。

 あなたはどう描いていますか?

 手塚治虫の「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

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