名作漫画家は「人生の達人」でもあります。名作を描いたマンガ家がどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのか、を知りたいと思うのは、マンガの描き手や、描き手を目指す人だけではありません。マンガの読み手にとっても、大変興味深いものです。なぜなら、その人生の歩みのなかから学ぶものがたくさんあるからです。
今回は
まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます
というカテゴリーのなかで、あの小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学びたく、先生の人生の歩みを追いながら
小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった
小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる
小山ゆう③編集長とは激しく戦う
小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた
小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ
と題した5回シリーズで進めたいと思います。
第1回目の今日は
小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった
です。
「おれは直角」、「がんばれ元気」や「あずみ」など。作者の小山ゆう先生はいつもニコニコしていて、おおらかな人柄だそうです。はたしてどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。
マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?
宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。
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小山ゆうさん(本名・大竹由次)は昭和23年(1948年)2月20目、静岡県小笠郡の専業農家の長男に生まれ、「のんびり、ぽかぽか育った」という。中学校までは成績が良かった。「農業は自分に向かない」と思い、商業高校に進んだ。当時まわりに大学へ進学する人は少なく、「大学はハナから考えていなかった」。 高校進学を境に順調だった人生に異変が起きる。思春期の肉体的変調なのか、声が出なくなった。身長もクラスで一番小さかったのが急激に伸び、ヒザが痛くて思うように歩けなくなった。これらが「大きなコンプレックス」になり、暗い高校生活を送る羽目になった。あとで振り返れば、とるに足らないようなことでも深刻に考えるのが思春期特有の傾向だ。「こんなことじゃ、まともな就職先もない」と悩んだ末、「えーい、就職なんかしないぞ」と決めた。
かつて先生に「音感がいい。ブラスバンドに入れ」とすすめられたことを思い出した。「テレビで見たりしていると、作曲家や詩人は不遇な人生を送るけど、美学を感じさせた。東京で苦労して、たとえ売れなくてもいい。1曲残せれば満足しようと考えたんです」。 18歳の夏、作曲家を目指して上京した。このころには体調も回復していた。夢は夢として、とりあえず食わなくてはいけない。新聞広告を見て、アニメーションの会社でアルバイトを始めた。1年ほど、ここで働いた。
たまたま休憩時間に、さいとう・たかをさんの「無用ノ介」を模写していた。「学校時代、絵はクラスでもうまいほうだった」という。その絵を見た先輩が「知り合いがさいとうプロにいるから紹介してやろうか」と言ってくれたので、「じゃ、お願いします」と頼んだ。当時はマンガ家になりたいという希望を持っていたわけではなく、バイトならなんでもよかったので、軽い気持ちだった。実はマンガ自体、東京に出てくるまでほとんど読んだことがなかった。なにしろ手塚治虫さんの「鉄腕アトム」さえ読んでなかったのだ。初めて「マンガって面白いなあ。マンガってこんなに深く人に感動を与えるんだ」とわかったのは、「週刊少年マガジン」の「あしたのジョー」だったという。「ジョーは自分の身近で生きているという気がした。マンガの中でジョーが殴られると痛みを感じたもの」。
20歳のときに、さいとうプロの面接を受けた。雑誌「スクリーン」の模写などを数点見せたところ合格し、アシスタントに採用された。 これが小山さんのマンガ道のスタートだった。
さいとうプロには、「それまでの人生では出会ったことのない人たちがいっぱいいた」。まずは、劇画界の巨人、さいとう・たかをさん。先輩には当時はまだ無名だった小池一夫さん。兄貴分の山本又一朗さん。アシスタント仲間のやまさき拓味さん。多くの人々との出会いが始まった。
アシスタントとしてさいとうプロに在籍したのは約3年半だった。「午前8時から午後10時までが定時で、休みは月2日」(関係者)という、ほぼ休みなしでみっちりマンガの基礎を仕込まれた。「背景と人物はだいたい描けるようになった」小山さんだが、さいとうプロの中では「劣等生だった」という。アシスタント仲間は当然のことながら、絵に自信があってこの世界に飛び込んできた人ばかり。「ほかの人はマンガが大好きで、さいとう先生のことが大好きで育ってきた。それに比べて僕はさいとう先生がすごい人だということも知らずに入ってきた。マンガ界の常識をあまりにも知らなかった。拳銃や車にやたら詳しいオタクもいた。すごい人たちばかりだなあとカルチャーショックを受けてました」
当時のアシスタント仲間のひとりが、2歳年下のやまさき拓昧さんだ。小池一夫さんの原作「鬼輪番」でデビューし、競走馬のエピソードを綴った「優駿たちの蹄跡」(集英社・ビジネスジャンプ)、「優駿の門」(秋田書店・少年チャンピオン)で売れっ子マンが家になった。「(双葉社の「漫画ストーリー」連載の)」『鬼輪番』は、ながやす巧さんが画を担当していたんですが、途中で身体をこわしてしまって、代打を探していたんです。それで、僕のところに回って来たんです」と振り返るやまさきさんは昭和43年(1968年)、新宮高校(和歌山県)卒業後、さいとうプロに入った。和歌山県はさいとう・たかをさんの母親の地元だった。しかも、さいとうさんのいとこが県議会議員で、やまさきさんの父親がその秘書という縁もあった。高校時代、美術部だったやまさきさんは「本の装丁やデザインの仕事」をしたかったが、マンガもよく読んでいた。「父が、行きたいなら話をしてやるぞとすすめるので、『東京へ行けるならいいかな』と思いました」。
やまさきさんの1、2ヵ月後に人社してきたのが小山さんだった。ふたりは1年間ほど、4畳半のアパートで一緒に暮らした。やまさきさんは「仕事が終わってもいつも一緒。よく新宿で夜明け近くまで遊んだ」という。「初めのころは、マンガはそれほど好きじゃなかったと思うな。僕もそうだから、マンガの話はしない。映画が好きだから、一緒に見にいったり。夜中の2時か3時ごろに『この本、面白いぞ』と言って持っていったりした。ふたりとも好きなのは、映画なら黒沢明、小説なら山本周五郎、司馬遼太郎などでした」。
当時の小山さんについて、やまさきさんは「絵を描く手は遅かったし、絵(マンガではない)はうまいとのイメージはなかったなあ」と言うが、脱帽した点が1つあった。「マンガに関して、これが面白い、あれが面白いというと、すぐにそれをやる。自分の知らない世界だったから他人の意見をよく聞けたのかもしれないが、すれてない。あの素直さは、まるで砂が水を吸いこむみたいだった」と語っている。
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小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。
あなたはどう思いましたか?
小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。
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小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。
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