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2007年4月26日 (木)

「闇のパープル・アイ」は自分でも手に負えないような闇の姿をさえ認め受け入れてくれる愛を描いている

 だれでも長所短所を持っています。そんな良いところ、悪いところをすべてそのまま認め、受け入れてもらえたらこんなうれしいことはありません。逆に、自分が誰かのすべてをそのまま認め、受け入れ、愛することができたら、それはもっとすばらしいことではないでしょうか。そんな気持ちで楽しめるマンガがあります。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「闇のパープル・アイ」は自分でも手に負えないような闇の姿をさえ認め受け入れてくれる愛を描いている

  と題して進めます。

 佐藤先生は著書の「名作コミックを読む」の中で、篠原千絵作「闇のパープル・アイ」について次のように書いています。 

・・・

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  ダイエット願望を持たない女性は圧倒的少数派だという。とは言っても大半は、数日あるいは数カ月間の熾烈な闘争の末、「まっ、いいか」と失敗をくりかえすのが平均的パターンなのだが、ときどき、意志堅固で当初の目標を断固やり抜いてしまう女性もでてくる。こうなれば、女性たちの夢が実現されて理想かといえば、問題はそんなに単純ではない。すべてのユートピアがそうであるように、一つの目標だけを貫いて実現した姿はバランスを欠く。わかりやすく言えば、過食症や拒食症の地獄におちこむ危険がしばしば待ちかまえることになる。

 そんな苦しみの中にいる一人の女性から、ダイエットの苦しみを聞いたことがある。ダイエット中はともかく頭の中が食べることばかりで一杯になってしまうそうだが、あまりのひもじさに夜の夜中、みんなが寝静まった頃、そっと台所に忍び寄って冷蔵庫の扉を開けてしまうのだという。この冷蔵庫の扉を開く瞬間は誰にも見られたくない瞬間なので、もしや万一その時に、誰か家族の一人が近づいてくる気配などを感じたら、全身が凍ってしまうような緊張にとらわれて、さっと扉を閉めてその場を離れるのだそうだ。

 考えてみれば、奇妙な話だ。当人だけが勝手にダイエットしようと決意したものなのだから、誰に見られようとそんなことはどうでもよいように見えるが、問題はそんなに簡単ではない。そこには変身への強い願望が秘められているからだ。

 篠原千絵の『闇のパープル・アイ』にはまさしくそんな場面がでてくる。ヒョウに変身してしまう自分の中に、夜中になると血のしたたる生肉を求める欲望が存在しているのを見て、自己嫌悪に陥る場面があるのだ。この作品を読み始めるやいなや、私はダイエットに走る若い女性たちの姿を重ね合わせてみていたので、「あっ、来た来た!」と心のなかで叫んでしまった。

 女性たちをとりまく文化的コントロールは、まだまだ圧倒的に強い。自己主張の強い女、攻撃的な女は嫌われるという思いは、多くの女性に激しい自己抑制を迫る。だから、昼の明るい間は静かでおとなしくてカワイイ女として生きているが、夜の闇の中では昼の自分には想像もできないほど激しく攻撃的な自分の変身した姿が登場する。それは昼間の自己抑制が強ければ強いほど、逆にそれだけどうしようもないほど奔放なものなのだ。ダイエットの例でいえば、拒食と過食の際限のないくりかえしがそれだ。拒食でガリガリに痩せている若い女性も、じつは他人の見ていないところで、気のくるったように食べまくる場合が少なくない。アンパン15個に、おむすび8個、アイスクリーム6個、ポテトチップスが10袋、チョコレート13枚、さらにハンバーグ7個といったように一気に食べまくる。経験者によると、食べまくるというよりは喉に詰め込みまくるのだという。いくら食べても満腹感はないのだが、今度はこれを全部喉に指を突っ込んで吐きまくる瞬間が耐えられないのだという。この時に、自分の生きている実在感が得られるのだそうだ。

 こんなわけで時には吐いたものでトイレの排水管が詰まってしまい、そうしてはじめて拒食症状が家族に分かるといったこともあるようだ。この獣のように(現実の動物はこんな食べ方はしない)食べまくる姿は、自分の中で決して認めたくないものなのだが、こうした自分が認めたくもないもう一人の自分との際限もない葛藤こそが、この作品の中心テーマだろう。

 さて、この作品が若い女性たちに強く支持されたもう一つの理由は、やはり男性との関係だろう。尾崎倫子にとっては水島慎也が、水島麻衣にとっては高階暁生がそうであるように、自分でも手に負えないような闇の姿をも認め受け入れてくれるような愛の対象の存在は、このストーリーの絶対に必要な部分だ。

 「私は愛している。なぜなら、私はきみが生きて存在してくれることを願っているからだ」(アウグスティヌス)という絶対的受容こそが今の若い世代が痛切に求めるものだ。単に「愛している」という言葉が重要なのではない。自分の野獣としての存在を認め、時には、自分さえも予想しなかったような妊娠や、愛しているわけもないような人とのキス、といった自己嫌悪してしまうような経験さえも受け入れてくれ、自分の味方になってくれる男性の存在こそが、このストーリー全体の要をなしている。自分をたえず脅かして襲おうとし、自分を別の世界の奴隷にしてしまおうとする外界の圧力(これは企業戦士や受験戦争を強いる現代の社会そのものだ)のなかで、必要なのは自分と同じ立場になってそれに対抗してくれる仲間であり、そこでの愛なのだ。

 拒食に苦しむ女性の相談を受けたとき、同じ苦しみを克服したという別の女性に尋ねてみた。すると彼女の答えは明快で単純なものであった。「一番いい方法は、佐藤さんがその人を愛してあげることよ」。これには心底マイッタ。そんなこと考えもしていなかったからだ。まあ、そんなにつぎつぎと女性を代えて愛することもできないが、アウグスティヌスのいう意味で相手の思いを絶対的に受け入れてみようという気持ちだけはそれから持つようにし始めた。

 それにしてもこの作品が少女まんがとして圧倒的な人気を博した理由はよく分かる。苦しみや葛藤が何よりも身体の問題として受けとめられ、しかも対人関係がじつに触覚的に描かれているのだ。「ピチャピチャ」「ポタポタ」「ドクン」「ドキンドキン」「ゾクリ」「ズキン」などという言葉があちこちに氾濫しており、それが自ずと皮膚感覚的な反応を読者に引き起こしている。しかも、その圧倒的多数は、誰かに攻撃されたり、傷つけられたりしたときにイメージされるような擬音語や感覚の表現だ。

 女性たちがこういう感性を生まれつき男性より鋭く備えているからこうした表現が好まれるのだろうか。それとも少女まんがの世界そのものがこうした感性を女性たちに醸成するために文化的機能をはたしているのだろうか。少なくとも、現状の中で女性が何を考え何を期待しているのかは、少女まんがの世界がかなり明確に示してくれる。男は少女まんがを読むべし。

・・・

 うーん。

 世の男性諸氏、このブログを見てくださった男性の皆さん、どうでしょう。この漫画、そして少女漫画を読んでみてはいかがでしょうか。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 篠原千絵作「闇のパープル・アイ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

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