2007年12月21日 (金)

「まんたん」の特集コーナーはこれです・・・その2

「まんたん」名物、特集コーナーにはもうひとつ、071220_sp05 071220_sp04

「20世紀少年」が光っていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月20日 (木)

「まんたん」の特集コーナーはこれです

「まんたん」名物、特集コーナーには、現在あの「ドラゴンボール」が光っています。

  071220_sp01

すごい事になっていますよ。071220_sp02

071220_sp03

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月12日 (水)

あのMARS SIXTEENのLessさんのイチオシ漫画はコレです!

 11月30日に行われた第6回神保町まんたんLIVE 「絶対漫画主義!VOL.1」では、ノブ高橋さんと共にMARS SIXTEENのLessさんのトークが大炸裂し、会場が大いに盛り上がったことでした。

                         ・

 そのLessさんが東京漫画探偵団のためにイチオシ漫画について寄稿してくださいました。それがコレです!

                       ・

                       ・

LessMARS SIXTEENデザイナー)0712_less

1999年にTシャツオンリーラボブランドMARS SIXTEENを結成。漫画・ゲーム・音楽・映画などのコラボレーションを重ね現在に至る。漫画では「きまぐれオレンジロード」「パタリロ」「HELLSING」のTシャツをリリースしたことで有名。自分が好きな作品をファッションにできたら!というのをテーマに掲げているため、単なるキャラクターTシャツの枠を超えた作りこみで、各作品のファンからも愛されている。

                       ・

Lessのイチオシ漫画

                       ・

魔女っ娘つくねちゃん/まがり ひろあき著

                       ・

0712_less05_2   2003年~2004年にかけてヤングマガジンアッパーズにて連載。アッパーズ休刊を受け月刊シリウスで2005年~2006年で登場人物を若干変えた「魔女っ娘つくねちゃん+」が連載された。コミックス全2巻は絶版されたが、後にアニメ化され人気を博したため急遽総集編の「魔女っ娘つくねちゃん よせあつめ」が発売された。絵の可愛さと正反対に内容はブラックジョークの連続で、オイオイそりゃあねえよ~!と漫画に向けてツッコミを入れたくなるエピソードが満載となっている。「WEB版魔女っ娘つくねちゃん」がインターネットで見られるので、読んで面白いと思った方はそちらもどうぞ!

                       ・

                       ・

きまぐれオレンジロード/まつもと 泉著0712_less04_3

                       ・

格闘・スポコン一辺倒だった80年代の週刊少年ジャンプに恋愛・SFという異文化 を導入したルネッサンス的傑作漫画。主人公が超能力者であることと奇妙な三角関係が絶妙なバランスで描かれ、不思議な感覚を読者に与えることが成功の要因といえる。今読んでも設定は新鮮で、青春群像の永遠のシンボルともいえるのではないだろうか?まつもと氏の長期闘病のため、新作発表はながらく行われていないが、いつまでも僕らはその帰りを待ち続ける覚悟だ!他「せさみストリート」もショートタッチのラブコメとして楽しめるので、気になる方はそちらも読んでみよう!!!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 9日 (日)

ピョコタン先生のコーナーを作っちゃいました。

あんまり面白いので、ピョコタン先生のコーナーを作っちゃいました。
「まんたん」に来て見てくださいね。
0711_pyokotan04

これがその面白い漫画です。
どうです?

0711_pyokotan03

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 7日 (月)

「弁護士のくず」は善悪の彼岸に立つ

 善悪は見方によって変わり、真実は一つではなくいくつもありうる、というと驚きです。しかし、それを認めることが時として必要な場合があるようです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「弁護士のくず」は善悪の彼岸に立つ

  と題して進めます。

 切通理作先生は5月6日付の産経新聞文化欄「サブカルさーふぃん」の中で、井浦秀夫作「弁護士のくず」について次のように書いています。

・・・

弁護士のくず  善悪の彼岸に立つ

0506  豊川悦司主演のテレビシリーズ化でも話題になった『弁護士のくず』(小学館ビッグコミックス)は画期的な弁護士モノだ。弁護側に立つにせよ検事側に立つにせよ、神の前の法廷でひとつしかない真実を明らかにする、という原理原則を疑わないのがこの種のジャンルだが、この漫画の主人公である弁護士・九頭(くず)は、「真実がひとつしかないと思ってんのか?」とビートたけしし顔で平然と言い放つ。

 漫画で描かれる上司とOLの職場の情事ひとつとっても、それが合意なのかセクハラなのかの答えはひとつではない。結局はモノの見方の問題なのだ。そして人間の「気持ち」そのものも、外側から解釈が与えられるだけで、変わってきてしまう。

 作者の井筒秀夫は漫画というジャンルでは本来苦手と思われがちな人間の心の「揺れ」を描かせたら天下一の作家だ。かつて『少年の国』という漫画で、あのオウム真理教事件を予見したといわれたことがある。

 ここでは神の存在を、環境破壊を繰り返す人類全体に対して強制力を持つ<超自我>的存在として捉え、自分はその命令ならば人を殺せるのかをギリギリまで問う新興宗教の青年の姿が描かれた。彼はすんでのところで人殺しはせずに引き返すが後に教団の虚偽が明るみに出て、人を殺せなどという宗教を信じること自体がバカげているのだと世間から決め付けられる。そのとき、自分がかつて立った煩悶の場所に、おそらく生涯立ってみることのない多数派の人々との断絶を感じるのだ。

 そんな彼の立場はときに善悪の彼岸に立つ九頭弁護士のあり方にも変わらず受け継がれている。

        (評論家・切通理作) 

・・・

 うーん。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年5月 4日 (金)

「ルルとミミ」のなかで萩尾望都は失敗の中にこそ希望があると教えている

 処女作にはその作家の持ち味が集約されているそうです。勝つことよりも、負けてもその失敗の中に希望を見出すことの大切さを教えてくれる処女作を描いた人がいます。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

 「ルルとミミ」のなかで萩尾望都は失敗の中にこそ希望があると教えている

  と題して進めます。

 福田里香先生は4月30日付の産経新聞読書欄の中で、萩尾望都作「ルルとミミ」について次のように書いています。 

・・・

 この本と出会った

萩尾望都著「ルルとミミ」  「失敗こそ希望」が創作の原点

料理研究家 福田里香

0504_1   萩尾望都さんのデビュー作『ルルとミミ』は、双子の女の子が、ケーキコンテストに出来損ないのお菓子を出品し、そのお菓子によって、会場に闖入してきた怪盗団を退治する、というストーリーのかわいい短編コメディーだ。

 ケーキをコンテストに出して人と競う、というフードバトル的展開は、のちにこのジャンルで隆盛を誇ることになる少年・青年まんがより、本作やその後の萩尾作品『ケーキケーキケーキ』(原作・一ノ木アヤ)の方が実は早い。青年まんがのフードバトルものと萩尾作品が決定的に違うのは、主人公が勝たないところである。さて現在、一般的に世間では、食べ物を武器にして戦う作品を「料理まんが」と称し、今や二大ジャンルを築いているが、これはウンチクという武器だったり、珍しい材料という武器で戦い、ライバルに勝利していく、という展開が基本だ。そう、食べ物は、身近な存在だから「万人にわかりやすい武器」として機能するのだ。しかし、ともするとじつは食べ物が主題ではなくて、他に描きたいことがあるから、食べ物を武器にしているんだなと読める節がある。

 逆に『ケーキケーキケーキ』は、ライバルの卑怯な不正すら世間に正されず、負けて終わる話だ。そして、『ルルとミミ』は、ちゃんとしたケーキを作ろうとして失敗する話。ベタベタケーキに空中に浮いちゃうケーキ、カチンコチンな固いケーキ。でも普通に売ってるおいしそうな「成功した」ケーキより、だんぜんこっちが食べたかった。処女作には、その作家の持ち昧が集約されるというが、本作を読み返すたびに、萩尾望都さんは、やっぱり徹底的に少女まんが家だなと思い知る。

 勝つことは重要じゃない、負けてもいい、失敗にこそ、希望があるのだ、といわれた気がした。それが今でも私の創作の原点になっている。

・・・

 うーん。

  あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月27日 (金)

「闇のパープル・アイ」は妖しく恐ろしく異形の、魔性の女の美しさに陶酔させてくれる

 知らず知らずに求めていた憧れの対象に、突然遭遇した時は、たとえて言えば落雷に見舞われたというべきでしょうか。しびれるようなショックを受けることでしょう。そんなマンガに出合えることができるとしたら大変幸せですね。昨日に引き続き「闇のパープル・アイ」を取り上げてみましょう。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  闇のパープル・アイ」は妖しく恐ろしく異形の、魔性の女の美しさに陶酔させてくれる

  と題して進めます。

 森雅裕先生は著書の「名作コミックを読む」の中で、篠原千絵作「闇のパープル・アイ」について次のように書いています。 

・・・

0427_02

   篠原千絵先生さま

お初にお手紙さしあげます。私、一介の小説書きです。モノカキを仕事とするものが、『先生』に『さま』をつけるなど、日本語のルールを無視してしまって申し訳ありません。ご自身、文章もまた素晴らしくお書きになる先生さまには、「なんだこのバカは」と憤慨、軽蔑、お腹立ちのことかもしれません。わかっちやいるけどそれでもなお、思わず過剰に尊敬したく、ついついなってしまうほど、かねてよりお慕い申し上げております。ほとんど打ちのめされるほど。

 正直に告白すると、先生さまの御作品を、私はかなり遅れて知ったのです。私にとって非常に貴重なこの出会いをもたらしてくれたのはウチの亭主です。同業の後輩であるところの宿六は、その昔高校生の分際でうっかりデビューしてしまった時、とある担当編集者から、ぜひとも少女まんがをたくさん読んでオンナゴコロをよく勉強するようにとアドバイスをされたとか。きやつの本棚にはすさまじいまでの分量の雑誌、書籍、ムック、コミックスなどなどがてんこもりになっておりました。どひやー、嬉しい、まだまだこんなに読んでないのがあったんだあ! と感動している私に、

 「これ知ってる? すごいぞ! うまいぞ! とんでもないぞ!」

と、勧めてくれたのが、他でもない。

『闇のパープル・アイ』でございました。

 最初は……ああ、お許しください……えーっ、この絵、あんまり好きなタイプじゃないなあ、ホラー系って趣味じゃないし……などと愚劣にも不遜なつぶやきを洩らしつつ、ページをめくりはじめたのでございます。主人公の少女の登校前のドタバタと幸福そうな食事風景、なーんだありがちのラブコメじやないかと少々焦れてきたその刹那。あの絵が。

 包丁のかすめていった己が腕を、

 したたるひと筋の赤い血を、

 静かに舐める倫子の姿が。

 頬をひっぱたかれたようなショックに、私しばし呆然と、恍惚と、ただただ見蕩れておりました。

 あの線。あの貌。あの表情。

 なんて妖しく、恐ろしく。

 そしてまた、なんと美しかったことでしょう。

 ……ヤバいよ、これは。

 払は慄え、しきりに生唾を飲み込みました。

 これを……この絵を……この主人公を、こんなエッチでヤクザでヘンタイなものを、小学生なんかも読んじやう雑誌にいきなし載せちやったのかよ、えーっ!?

 私は、彼女が、「やーん、切っちやったイターイ」なんてかわゆく泣いて「あきらかにヤバい事態に面してもあくまでイノセントに鈍感な主人公」であることを紹介されるのであろうと無意識に予想していたのでございます。しかし。しかし。意外にも。

 そこにいたのは、内気で優しくて幸福で平凡なそこらの女子高校生などでは微塵もない、異形のヒロイン、魔性の女、この世ならぬ場所に棲まうべき、美しい怪物そのものでありました。倫子は、その登場の直後から、どんなひどい目怖い目にあわされてもただキヤーキヤー逃げ惑うばかりの女の子などではないことを、きっぱりと自己主張していました。これこそ新しいフェミニズムであります。

 それにまた。どうやら、この作品は、払などの委細知らぬうちに、大変な人気と支持を得ていたらしいではありませんか。内気で優しくて幸福で平凡な(はずの)そこらの少女読者たちに。いくら世紀末だからとはいえ、怪奇お耽美ブームだからとはいえ。

 最近のこどもはあなどれない。

 私はウームと唸りました。

 私がティーンエイジャーだった頃でさえ、一般に、女の子はオマセで耳年増、同学年程度の男どもなど、アホでガキで幼稚で問題外のさらに外だったというのに。

 こーゆーもんを読み込んで確信もっちやった女の子たちを相手しなきやならないこれからの男の子たちは、さぞかし、大変だろーなー。ご苦労さん。そんなことも思いました。

 いいえ、もちろん、知っています。処女はもとからひどく危険なものです。童貞っていうと、未熟で無知で頭の毛が三本足りない感じがしますけど。

 私自身、処女だった頃が一番パワフルでデインジャラスだったことをよく覚えています。好きな男の子からかかって来る電話さえ憚られたあの季節の、抑圧と忿懣。からだとこころを螺旋にめぐり、行き場もないまま研ぎ澄まされていったエネルギーが、油断するとチョロチョロ思いもかけぬところからこぼれてしまう。夜中に鏡を覗く時、手も触れぬのに力ーテンがそよぐ時、確かに、異界の呼び声が聞こえた。

 魔女におなり。魔女にしてあげるよ。

 なぜか妙に足の重い朝、いつもの駅までの通学路をひとり歩いている私の前に、後にも右にも左にも、どこからともなく現れたたくさんの野良猫たち。よしなよ。行くの、よしなよ。危ないよ。よしなったら。そういう声が、聞こえた気がした。餌をやったわけでもないのに、撫でてやったわけでもないのに、なんでそんなにつきまとうの? いったいどこまでついてくるの? 振り切るように走りだし、胸をドキドキさせたまま改札を抜け、階段を登り切ると、いま、入ってきた電車に向かって、ホームから高々とダイビングするひとが見えた。

 別の朝、「どうしたの、遅かったじゃない」と母に言われて時計がくるっていたのに気づいたこともあります。直そうとして隣の弟の部屋に入ると、弟の部屋の時計も、ちょうど同じだけくるっていました。調べてみると、一階はなんともない。二階の……つまり、私の近くに、周囲にあった時計だけが遅れている。どこかに境界線があって、そこから上だけ、何時間か消えたんだ……立っていた階段がぐらっと揺らぎ、へたへたと座り込みました。

 あの力を、パワーを、エネルギーを、もしかすると、もっと他のことに使うことだってできたのかもしれない。曲がり角を間違えなければ、あるいは、私だって、倫子のように、あるいはもうひとつの大傑作『蒼の封印』の蒼子のように、美しく恐ろしい別の生き物になることができたはずだった、のかもしれないと思います。でも、気がついたら恋をして男のひとと一緒に暮すようになり、おまけに小説書きにまでなっちまってました。恋愛とクリエーションに注ぎ込めばエネルギーは無限に必要です。余りっこない。すると、さまざまな「変なこと」はサッパリ起こらなくなってしまったのでした。

 良かった、とホッとすればいいのでしょうか。犠牲の割に、たいしたことができてないと悔しく思ったほうがいいでしょうか。

 いまの私にもう一度チャンスかおるとしたならば。

 母だ。母になることですよね。倫子先輩の例を見ると、母親というのはいっそうレベルアップした魔女になりうるものなのだということがわかる。時を越え、死の淵からも蘇り、愛するものたちのために最後の戦いに挑み、そして勝つことができるのだから。

 新しい小説を書き出す時、よく『闇のパープル・アイ』を読みかえします。そのパワーを、才能を、なによりほんとうに描かれるべき作品だけの持つ生命を、素晴らしいエロティシズムを、どうかこの私めにもチョビッと分けてくださいと、せいいっぱいに祈りつつ。私の声はもはや異界には届かないかもしれないけれども。

 そんな風に御作品を崇め奉っている人間がいることを、先生さま、どうか、おこころの片隅に置いておいてください。そうしてまた素敵で恐ろしい魔女たちのものがたりを私たちに与えてください。

 素晴らしいお仕事を、ありがとうございました。

 どうそいつまでもお元気で。

・・・

 うーん。

 あなたも頬をひっぱたかれたようなショックを受けてみたいと思いませんか。しばし呆然と、恍惚と、ただただ見蕩れて見たいと思いませんか。妖しく恐ろしく異形の、魔性の女の美しさに陶酔できるかもしれませんよ。

 あなたも読んでみたいと思いませんか?

 篠原千絵作「闇のパープル・アイ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月26日 (木)

「闇のパープル・アイ」は自分でも手に負えないような闇の姿をさえ認め受け入れてくれる愛を描いている

 だれでも長所短所を持っています。そんな良いところ、悪いところをすべてそのまま認め、受け入れてもらえたらこんなうれしいことはありません。逆に、自分が誰かのすべてをそのまま認め、受け入れ、愛することができたら、それはもっとすばらしいことではないでしょうか。そんな気持ちで楽しめるマンガがあります。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「闇のパープル・アイ」は自分でも手に負えないような闇の姿をさえ認め受け入れてくれる愛を描いている

  と題して進めます。

 佐藤先生は著書の「名作コミックを読む」の中で、篠原千絵作「闇のパープル・アイ」について次のように書いています。 

・・・

0427_01

  ダイエット願望を持たない女性は圧倒的少数派だという。とは言っても大半は、数日あるいは数カ月間の熾烈な闘争の末、「まっ、いいか」と失敗をくりかえすのが平均的パターンなのだが、ときどき、意志堅固で当初の目標を断固やり抜いてしまう女性もでてくる。こうなれば、女性たちの夢が実現されて理想かといえば、問題はそんなに単純ではない。すべてのユートピアがそうであるように、一つの目標だけを貫いて実現した姿はバランスを欠く。わかりやすく言えば、過食症や拒食症の地獄におちこむ危険がしばしば待ちかまえることになる。

 そんな苦しみの中にいる一人の女性から、ダイエットの苦しみを聞いたことがある。ダイエット中はともかく頭の中が食べることばかりで一杯になってしまうそうだが、あまりのひもじさに夜の夜中、みんなが寝静まった頃、そっと台所に忍び寄って冷蔵庫の扉を開けてしまうのだという。この冷蔵庫の扉を開く瞬間は誰にも見られたくない瞬間なので、もしや万一その時に、誰か家族の一人が近づいてくる気配などを感じたら、全身が凍ってしまうような緊張にとらわれて、さっと扉を閉めてその場を離れるのだそうだ。

 考えてみれば、奇妙な話だ。当人だけが勝手にダイエットしようと決意したものなのだから、誰に見られようとそんなことはどうでもよいように見えるが、問題はそんなに簡単ではない。そこには変身への強い願望が秘められているからだ。

 篠原千絵の『闇のパープル・アイ』にはまさしくそんな場面がでてくる。ヒョウに変身してしまう自分の中に、夜中になると血のしたたる生肉を求める欲望が存在しているのを見て、自己嫌悪に陥る場面があるのだ。この作品を読み始めるやいなや、私はダイエットに走る若い女性たちの姿を重ね合わせてみていたので、「あっ、来た来た!」と心のなかで叫んでしまった。

 女性たちをとりまく文化的コントロールは、まだまだ圧倒的に強い。自己主張の強い女、攻撃的な女は嫌われるという思いは、多くの女性に激しい自己抑制を迫る。だから、昼の明るい間は静かでおとなしくてカワイイ女として生きているが、夜の闇の中では昼の自分には想像もできないほど激しく攻撃的な自分の変身した姿が登場する。それは昼間の自己抑制が強ければ強いほど、逆にそれだけどうしようもないほど奔放なものなのだ。ダイエットの例でいえば、拒食と過食の際限のないくりかえしがそれだ。拒食でガリガリに痩せている若い女性も、じつは他人の見ていないところで、気のくるったように食べまくる場合が少なくない。アンパン15個に、おむすび8個、アイスクリーム6個、ポテトチップスが10袋、チョコレート13枚、さらにハンバーグ7個といったように一気に食べまくる。経験者によると、食べまくるというよりは喉に詰め込みまくるのだという。いくら食べても満腹感はないのだが、今度はこれを全部喉に指を突っ込んで吐きまくる瞬間が耐えられないのだという。この時に、自分の生きている実在感が得られるのだそうだ。

 こんなわけで時には吐いたものでトイレの排水管が詰まってしまい、そうしてはじめて拒食症状が家族に分かるといったこともあるようだ。この獣のように(現実の動物はこんな食べ方はしない)食べまくる姿は、自分の中で決して認めたくないものなのだが、こうした自分が認めたくもないもう一人の自分との際限もない葛藤こそが、この作品の中心テーマだろう。

 さて、この作品が若い女性たちに強く支持されたもう一つの理由は、やはり男性との関係だろう。尾崎倫子にとっては水島慎也が、水島麻衣にとっては高階暁生がそうであるように、自分でも手に負えないような闇の姿をも認め受け入れてくれるような愛の対象の存在は、このストーリーの絶対に必要な部分だ。

 「私は愛している。なぜなら、私はきみが生きて存在してくれることを願っているからだ」(アウグスティヌス)という絶対的受容こそが今の若い世代が痛切に求めるものだ。単に「愛している」という言葉が重要なのではない。自分の野獣としての存在を認め、時には、自分さえも予想しなかったような妊娠や、愛しているわけもないような人とのキス、といった自己嫌悪してしまうような経験さえも受け入れてくれ、自分の味方になってくれる男性の存在こそが、このストーリー全体の要をなしている。自分をたえず脅かして襲おうとし、自分を別の世界の奴隷にしてしまおうとする外界の圧力(これは企業戦士や受験戦争を強いる現代の社会そのものだ)のなかで、必要なのは自分と同じ立場になってそれに対抗してくれる仲間であり、そこでの愛なのだ。

 拒食に苦しむ女性の相談を受けたとき、同じ苦しみを克服したという別の女性に尋ねてみた。すると彼女の答えは明快で単純なものであった。「一番いい方法は、佐藤さんがその人を愛してあげることよ」。これには心底マイッタ。そんなこと考えもしていなかったからだ。まあ、そんなにつぎつぎと女性を代えて愛することもできないが、アウグスティヌスのいう意味で相手の思いを絶対的に受け入れてみようという気持ちだけはそれから持つようにし始めた。

 それにしてもこの作品が少女まんがとして圧倒的な人気を博した理由はよく分かる。苦しみや葛藤が何よりも身体の問題として受けとめられ、しかも対人関係がじつに触覚的に描かれているのだ。「ピチャピチャ」「ポタポタ」「ドクン」「ドキンドキン」「ゾクリ」「ズキン」などという言葉があちこちに氾濫しており、それが自ずと皮膚感覚的な反応を読者に引き起こしている。しかも、その圧倒的多数は、誰かに攻撃されたり、傷つけられたりしたときにイメージされるような擬音語や感覚の表現だ。

 女性たちがこういう感性を生まれつき男性より鋭く備えているからこうした表現が好まれるのだろうか。それとも少女まんがの世界そのものがこうした感性を女性たちに醸成するために文化的機能をはたしているのだろうか。少なくとも、現状の中で女性が何を考え何を期待しているのかは、少女まんがの世界がかなり明確に示してくれる。男は少女まんがを読むべし。

・・・

 うーん。

 世の男性諸氏、このブログを見てくださった男性の皆さん、どうでしょう。この漫画、そして少女漫画を読んでみてはいかがでしょうか。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 篠原千絵作「闇のパープル・アイ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月19日 (木)

「三丁目の夕日 夕焼けの詩」の原点はSF的思考である

 西岸良平作「三丁目の夕日 夕焼けの詩」については「夕焼けの詩 三丁目の夕日」を読むと善人でありたいと切実に思うと題して一度取り上げたことがあります(http://man-tan.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_6bd5.html)。

 このマンガに一貫しているのがSFでいう「時間テーマ」であるという視点の興味ある文を新聞の文化欄で見つけました。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「三丁目の夕日 夕焼けの詩」の原点はSF的思考である

  と題して進めます。

 評論家の切通理作先生は4月15日付け産経新聞文化欄で、西岸良平作「三丁目の夕日 夕焼けの詩」について次のように書いています。

・・・

0419_00 サブカルさーふぃん---マンガ

三丁目の夕日 夕焼けの詩 原点はSF的思考

 長寿の人気作を持っているベテラン漫画家は、人生の多くをその一作に費やさなければならない使命を負う代わり、その枠の中でバラエティー豊かな要素を盛り込める特権を持つ。子どものころから描いていたSF冒険活劇を映画原作の「大長編ドラえもん」シリーズに活かしていた藤子・F・不二雄もそうだが、『三丁目の夕日 夕焼けの詩』(小学館ビッグコミックス)の作者・西岸良平もそんな一人だろう。夕日町の庶民たちのドラマに交じって、時に化け狸一家の視点で語られたり、UFOや宇宙人の到来、そして私立探偵による推理モノ仕立てになったりもする。

 映画も大ヒットして「昭和30年代ブーム」の象徴とみなされる作品だが、単行本50巻を超える連載を通読すると、作者に一貫しているのはSFでいう<時間テーマ>であることがわかる。人間は意識の世界に入り込むことによって過去にタイムトリップできるが、それは幻影なのか現実なのかが繰り返し問われる。

 単行本第2巻に取録された「狂った映像」(1972年)は、宇宙飛行士の火星着陸が「ヤラセ」だったという、後にSF映画「カプリコン・1」(77年)で使われた陰謀説を早くも盛り込んでいる。秘密保持のため宇宙飛行士の命が狙われる展開も同じだが、結局「正義が勝つ」というラストがやや食い足りない映画と違い、西岸版は宇宙飛行士が死んだという事実そのものも、またあらかじめ作られた映像だという二重三重の仕掛けを用意している。仮想現実というテーマを35年前から描けていたのだ。西岸の世界が回顧ブームに乗った一過性のものではない所以である。

                             (評論家・切通理作)

・・・

 うーん。

 長寿を誇る人気マンガにはやはり長寿であるべき理由があるのですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 西岸良平作「三丁目の夕日 夕焼けの詩」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月 5日 (木)

「風の谷のナウシカ」は状況の傍観者ではなく、状況に巻き込まれながら考えていくたたかう哲学者である

 わたしたちは核戦争や環境破壊の危機に直面しています。しかしながら、余りにも事が大きすぎますし、現実感に乏しいため、ひとごとと思ったり、諦めたり、無関心を装ったり、とかく直面することを避けようとしがちではないでしょうか。私たちの大好きなマンガの中に、このことを改めて考えさせ、勇気を与えてくれるものがあります。そんなマンガを私は誇りに思います。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「風の谷のナウシカ」は状況の傍観者ではなく、状況に巻き込まれながら考えていくたたかう哲学者である

  と題して進めます。

0400_03  福島瑞穂先生は「マンガ名作講義」の中で、宮埼駿作「風の谷のナウシカ」について次のように書いています。 

・・・

   「風の谷のナウシカ」はまずアニメーションの映画を見て、その後、漫画を読んだ。映画の方が楽天的でわかりやすく、漫画の方は、ペシミステイックで筋は複雑だがずっと深い。しかし、どちらも強烈な印象だった。

 宮崎駿氏は、実家が飛行機を作っていたということもあってか「飛行シーン」が多い。バァーと大空と下界が広がっていく爽快なシーンは、足が地についていない解放感を与えてくれる。そして、ヒロイン像の変遷ということを挙げたいと思う。

       ◇   ◇   ◇

 彼の作品のなかでもヒロインは変わっていっている。「太陽の王子ホルスの大冒険」は、男の子のホルスが主人公。闘う勇敢な男の子だ。ルパン三世の「カリオストロの城」のクラリス嬢はお姫様。彼女自身が闘うのではなく、ルパン三世に助けられる。

 「未来少年コナン」では、超能力者のラナちやんは、コナンを助けたり、重要な役割を果たすけれど、やっぱり主人公はコナン。「風の谷のナウシカ」と同様、「核戦争後」を描いた名作だが、泳いだり、駆けたり活躍する主人公はやっぱりコナンだ。地球を救うのは男の子。「天空の城ラピュタ」では、女の子シータも頑張るが、最後は、男の子パズーに助けられる。男の子は元気とパワーで、女の子はお姫様でカギを解く秘宝を持っているという構造である。

0400_01_2  これらに対して、「風の谷のナウシカ」は、族長の娘(OOの娘、お姫様というのが気に入らないという人もいるが)で、彼女がまず主人公である。地球を救うという役割を女の子が果たす。トルメキアの第四皇女クシャナもナウシカとはタイプが違うが、めちゃくちゃ気が強くてしかも冷静、戦闘を指揮する新しいタイプのヒロインである。

 だれも助けてはくれないし、一人で旅立たなくてはいけない。しかも地球上が汚染され、戦争がやまず、子どもたちは生きにくく、人々は腐海のはとりで恐怖にふるえながら生きている。

 映画では、巨大な虫である王蟲(オーム)と腐海が実は地球を浄化するシステムであることが明かされる。しかし、漫画はそこで終わらず、核戦争の際にビルトインされたこのシステムのもとでは浄化された後の地球上では現状の人類を含めた生命は生存を許されず、「種」の交代が起きることが予定されていることをナウシカは明らかにしている。この漫画の最後でナウシカは、このビルトインされたシステムに屈服せず、このシステム自体を破壊して、汚染された地球とともに人類自らの力で生きのびる道を選択する。

 ナウシカは言う。「私たちの身体が人工で作り変えられていても私たちの生命は私たちのものだ。生命は生命の力で生きている」

 「生きるとは変わることだ。王蟲も粘菌も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」「苦しみや悲制やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから……。だからこそ苦界にあっても喜びや輝きもまたあるのに」

 ナウシカは状況の傍観者ではなく、状況に巻き込まれながら考えていくたたかう哲学者である。

       ◇   ◇   ◇

 「風の谷のナウシカ」は核戦争や環境危機のなかで人類が生きていく上での哲学を語った作品である。ナウシカは火を使って焼き払ったり、憎悪にかられて殺し合ったりという手段を使わず、どうやって人間は生き延びられるかということを模索している。風の流れをよみ、空を一人で飛ぶ。感受性が鋭く豊かで、排他的でなく、いろんな生命や人と交信できる。

 宮埼駿氏は、ギリシャ神話のオデュッセウスのなかに少し出てくるナウシカという女性をヒントにこのヒロイン像を作り上げた。その想像力と創造力に敬意を表したい。

・・・

 うーん。

 核戦争や環境破壊の危機を認識すること、逃げないことが大切なんですね。状況を傍観するのではなく、その状況に巻き込まれながらも、困難と闘い、考え、生き延びる道を探し、選らんで行くことが大切なんですね。私たちの大好きなマンガはこのことを改めて考えさせ、勇気を与えてくれます。そんなマンガを私は誇りに思います。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 宮埼駿作「風の谷のナウシカ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月 4日 (水)

「ゲゲゲの鬼太郎」は時空を超えて自在に駆け巡る“仮想マンガ”である

 日本人が古くから持ち続けている自然へのおそれともいうべき感情があります。神々、山川草木、妖怪、などなど。西洋のように、それらは克服すべき対象ではありません。その恩恵に感謝しつつ、共存すべき、大切なものなのです。名作といわれるマンガの中には、そのことを改めて感じさせてくれるものがあります。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「ゲゲゲの鬼太郎」は時空を超えて自在に駆け巡る“仮想マンガ”である

  と題して進めます。

0400_00  多田道太郎先生は「マンガ名作講義」の中で、水木しげる作「ゲゲゲの鬼太郎」について次のように書いています。

・・・

  『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターのうち一ばん好きなのは次のうちだれですか。①鬼太郎②目王のとうさん③ねずみ男④一反もめん。

 やっぱり①鬼太郎でしょうね。意外なのは『水木しげる論』一九七一年)を書いた石子順造さんの評価です。③妖怪(ようかい)ねずみ男。あのどっちつかずの金もうけ主義の男に魅力があるというのです。さて今(九六年)はどうでしょう。ゲゲゲのゲと歌っている小さな子供をつかまえると①一反もめんと返事します。テレビやアニメの波を浴びてきた子供らには空飛ぶじゅうたんみたいな一反もめんが魅力的なようです。もう少し成長(?)した若い女性に聞くと②目玉のとうさんと答えました。へえ、その理由は。だってカワイイんですもん。ふーん、オヤジが可愛い?

 ところであなたの好みは?

       ◇   ◇   ◇

 今度、決定版『ゲゲゲの鬼太郎』(ちくま文庫)を通読してぼくを魅了したのは、キャラクターよりもおとうさんと鬼太郎とが暮らしている日常の一場面でした。「土ころび」という怪物に手足も胴体も吸い取られた鬼太郎の運命やいかに。というところで急を告げに帰るのがちゃんちゃんこ(幕末以来の貧乏人の子の上っ張り)。すーっと飛んで入るのが窓や扉ではなく、あばら家の蔀戸(しとみど)。泣かせるではありませんか、平安の昔の寝殿造りが今のボロ家に生きているとは。部屋に置かれているのはちゃぶ台だけ。これは、明治三十年代に現れた家庭だんらんの新家具でして、その上に乗っかっているのは太古よりなじみのお茶碗。「おやっ、ちゃんちゃんこだ」と叫ぶ目玉のとうさん。ふだんは茶碗風呂につかつているのが大好きな目玉ですが、今はそんなことを言っている場合ではありません。「ゆけ、ちゃんちゃんこ」というわけで空飛ぶちゃんちゃんこに乗って―――つまり太古より平安経由、明治昭和を駆け抜けて鬼太郎の急を救いに参ります。

0400_01_1  目玉だけになってしまった鬼太郎と、もともと目玉だけのとうさんと。二つの目玉の涙の対面。

 ものに驚いたとき、「ゲッ」と叫ぶ若い人を知っています。もとは反吐(へど)を吐くときの嫌な長音だったのに。『鬼太郎』ではご承知のように、幼きヒーローをたたえる草木虫魚の叫び声です。そういえば年配の俳人栗林千津さんにこんな句があります。

 ビアガーデンのガ行さきざき孤独なり

 光栄にもぼくと同年生まれの水木しげるさんは、不幸にも戦場で片腕を失いました。初めて鬼太郎が「週刊少年マガジン」に登場した「手」(六五年)は、切り落とされた手首がよみがえり、吸血鬼のホテルに放火して妖怪をやっつけるはなしです。

 目玉も手と同じように孤独だったのではないでしょうか。ラバウルの海岸の崖っぷちでぶらさがっていた水木さんの手の物語は戦慄(せんりつ)的です。『水木しげるのラバウル戦記』(九四年、筑摩書房)のコピー「地獄と天国を見た水木上等兵」に深くうなずいてしまったぼくでした。孤独な彼の目玉は、双眼鏡で海から来る敵を見張りながら、ふと気づくと、逆に陸の方、まるで天国のような景色に見とれていたのです。

       ◇   ◇   ◇

 『ゲゲゲの鬼太郎』の「妖花」では両親のいない孤独な少女の安アパートの風景が描かれています。南方のジャングルで咲くという妖花が毎年花を咲かせる。花子は鬼太郎たちとはまぐりの舟で南へ。南の島で白骨となった花子の父の指輪を発見する。死んだ父はニ十三年もかかって島々をわたって来て妖花に化けて孤独な少女をじっと見守っていたのでした。

 時間的には太古から敗戦後の昭和の現代まで、空間的にはちゃぶ台から南方の島まで、自由自在に駆けめぐっているのが仮想現実顔負けの仮想マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』です。

・・・

 うーん。

 いにしえより連綿と続く自然へのおそれともいうべき感情があるのですね。人間は優しく賢い顔と同時に、おろかで残酷な顔をも持っているんですね。戦争を体験した水木先生の作品には、そのことをわれわれ戦争を知らない人々に伝えてくれているのですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 水木しげる作「ゲゲゲの鬼太郎」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 3日 (火)

「動物のお医者さん」はひたすら日常性の細部を描くだけで笑いと感動を紡ぎ出している

 ストーリーマンガは面白い。ギャグマンガも面白い。でも、そのどちらでもない、つまり、ストーリー漫画でもなく、ギャグ漫画でもないというマンガがあります。しかも面白いのです。もしかしたらあなたもそんな漫画を読んだことがあるのではないでしょうか。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「動物のお医者さん」はひたすら日常性の細部を描くだけで笑いと感動を紡ぎ出している

  と題して進めます。

0400_02  三田誠広先生は「マンガ名作講義」の中で、佐々木倫子作「動物のお医者さん」について次のように書いています。 

・・・

 私のところにはリュウノスケというシベリアンハスキーがいる。もうかなりの年配である。この犬については『吾輩はハスキーである』という本と、『ペトロスの青い影』という本を書いた。私にとってはメシのタネみたいな犬である。

 この犬がまだ幼かったころ、散歩をしていると、通りがかりの女の子たちが、「チョビ」と声をかけることが多かった。幼いといってもハスキーだから、ポメラニアンやマルチーズの成犬よりは大きい。「チビ」と言われる筋合いはない、などと思っていたのだが、やがてその理由が判明した。

 佐々木倫子の『動物のお医者さん』という人気マンガの主人公が、シベリアンハスキーの「チョビ」なのである。もちろんこの作品にはちゃんと人間の主人公がいるのだが、チョビをはじめ、猫のミケ、鶏のヒヨちゃん、スナネズミ、馬や牛など、大挙して登場する動物たちの存在感に圧倒される。

       ◇   ◇   ◇

 H大学の獣医学部研究室という、マンガの舞台としてはおよそ不似合いな場所で、日常の細部を克明に描きながら、動物と人間の触れ合いが淡々と進行する。波乱方丈のストーリーはない。恋愛もない。盛り上がりとはまったく無縁の身辺雑記的世界が展開されるのである。

 そんなマンガのどこが面白いのかと、不思議な気がするのだが、とにかく面白いのである。ストーリーマンガではないが、ギャグがあるわけではない。作者の筆は、けっしてふざけないし、笑わせてやろうといった手つきはまったく見えない。それでいて、ページをめくる度に、時には声をあげて笑わずにはいられないほどのユーモアが、たっぷりと盛り込まれている。

0400_01  そのユーモアとは何だろうか。まず言えるのは、他のマンガにありかちな、下品なギャグが一切ないということである。基本にあるのは胸のあたたまるヒューマニズムである。登場人物の全員が明るい善人で、しかもどことなくユーモラスな弱点をかかえている。その弱点にちょっとした誤解や行き違いが絡んで、笑いが生まれる。

 もう一つ、重要なポイントとして挙げられるのは、細部の輝きである。獣医学部の研究室の細部。おそらく綿密な取材によってデッサンされたはずの実験器具や、装置、それに動物たち。その細部の一つ一つに感動がある。細部というものは、それ自体で、驚きと笑いをもたらすのだ。

 何よりも動物の表情や身のこなしに、独特のユーモアがある。主人公のチョビが愛らしいのは当然として、わき役の動物たちのすべてに個性がある。通りすがりの人物(?)にすぎない牛や馬にまで、独創的なユーモアとペーソスが感じられる。リアリズムに徹しながら、ほんの少し誇張やデフォルメを施して笑いを誘発するテクニックが素靖らしい。チョビだけでなく、何匹もシベリアンハスキーが登場するのだが、この犬の個性がうまく描かれていることにも驚かされる。

       ◇   ◇   ◇

 ともあれ、佐々木倫子という作家は、ストーリーマンガでもギャグマンガでもない、ひたすら日常性の細部を描くだけで笑いと感動をつむぎだすという、まったく新しい領域を開拓したといっていい。現在かき継がれている、犬病院の看護婦の日常性を徹底的にとらえた『おたんこナース』にも、その特質が十二分に発揮されている。

・・・

 うーん。

 ストーリーマンガはたしかに面白いです。ギャグマンガもまた、面白いですよね。しかし、そのどちらでもないマンガ、つまり、ストーリー漫画でもなく、ギャグ漫画でもないというマンガの魅力を味わってみたいものですね。それだけ、マンガにはさまざまな種類、方向性があるということでしょう。ますます、マンガが面白くなりそうですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 佐々木倫子作「動物のお医者さん」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 2日 (月)

「ジャリン子チエ」はマンガの形を取ったドタバタ喜劇と祝祭の文学である

 面白いマンガはたくさんありますが、何度読んでも面白くて、飽きないマンガというものはなかなかありません。忘れた頃に改めて読み直してみると、思わずわれを忘れて引き込まれて、いつの間にか極上の喜びと幸福感に満たされるのです。そんなマンガを持っているということは、大げさにいえば、幸せな人生といえるのではないでしょうか。あなたも、きっと、そんなマンガを持っているでしょう?

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「ジャリン子チエ」はマンガの形を取ったドタバタ喜劇と祝祭の文学である

  と題して進めます。

0402_12  今村仁司先生は「マンガ名作講義」の中で、はるき悦巳作「じゃリン子チエ」について次のように書いています。 

・・・

   なんべん読んでもおもしろく飽きない漫画はまれである。そのひとつが私にとっては『じゃりン子チエ』である。

 最初、知人にすすめられて手にとった。開巻冒頭から強い印象をうける。どこがおもしろいか。まず画面だ。人物の顔、表情、とくに目つきがいい。表情は千変万化する。

 つぎに言葉だ。大阪弁のギャグ、俗語というよりもキタナイ罵言雑言が乱舞する。大阪漫才そのものである。とても上品とはいえない罵倒語が交換されるが、それが人物たちを生き生きさせていく。

 静止画像は、野生の言葉のおかけで、霊カをもった、現実の人物以上の生き物に変化する。若いときに大阪漫才を堪能した経験をもつ私は、いまではほとんどおめにかかれない活力ある大阪弁を『チエ』のなかに見いだして満足している。

       ◇   ◇   ◇

 ストーリーーなどはない。大阪のある庶民街の日常生活が細々と描写されている。どこにでもありそうな、しかし決しておめにかかれない、なつかしい風景なのだ。

 なぜなつかしいと感じるのか。登場人物の生活は確かに現在の生活らしいが、しかしどこかズレている。例えば、チエ、おばーはん、おじーはん、花井のオッチャンなどはゲタをはいているし、テツ、お好み焼きのオッチャンなどは草履をはいている。これなどはすでにわれわれから失われた風景なのだ。おまけにチエはゲタをはいて学校に通っている。

0402_01  わたしたちの世代は小学五年ごろまでは、ゲタをはいて学校に通ったものだ。『チエ』はいまではなくなった経験を永遠に定着させている。半世記前の風景である。現在の普通の生活描写のなかに奇妙な異物が入り込んでいるのだ。そこがなつかしさの源である。『チエ』は、現在の庶民生活の民俗誌であり、失われた時の探求でもある。

 『チエ』の世界は、一見普通のようでありながら、日常が転倒した世界である。

 この世界で一番エライのは、子供、それも女の子供であり、次に女の大人である。男たちは、子供以上に子供であり、彼らはいつも困ると子供に助けを求める。チエが父のテツをホルモン焼きで「養育」しているのは、この世界を象徴している。

 子供上位/大人下位、女上位ノ男下位の反転世界に加えて、人間語を理解し、人間以上に人間的な「猫たち」の物語が展開する。これもドタバタ喜劇であるが、この猫たちは、人間以上に人間的な言語表現を駆使して、人間世界を風刺する「批評家」である。

 子供が大人以上に分別があり、言葉遣いも上品にして繊細であり、また猫たちが人間以上に高尚な詩的で文学的な言語を駆使する、まさにカーニバル的で祝祭的世界である。子供たちがこうあってほしいと期待するユートピアがそこにはある。

       ◇   ◇   ◇

 もうひとつ、奇妙なことがある、世間では子供が成長し、娘や青年が結婚し、子供が生まれ、年をとるのに、チエは永遠に「小学五年生」のままである。彼女は永遠の少女であり、妖精なのだ。

 すべての大人はチエに助言を求めにくる。テツ、おかーはん、おばーはん、おじーはんはもとより、やーさんも助言を求めにくる。彼女は「なぐさめ」を与える少女である,しかし、最も嫌われものであるテツも奇妙な結果をうみだす。彼がやくざをげんこつでなぐると、なぐられたやくざたちは例外なく、やくざから足を洗うのだ。

 最も嫌われる鼻つまみものは、ここでは、知らぬまに癒しと再生の働きを発揮している。彼は荒ぶる神、トリックスターであり、どうということのない生活に生命を与える。ワレー、オンドレー、バカ、アホ、カス、イテモタロカ、等々の下品な言葉は実は生命を与える言菓なのである。

 『じゃりン子チエ』は漫画の形をとったドタバタ喜劇と祝祭の文学とでもいえる。そこには一種の救いの効果があり、読者は、すがすがしい読後感を経験することができるといえよう。

・・・

 うーん。

 何度読んでも面白くて、飽きないマンガというものは人生の宝です。今村仁司先生は「じゃリン子チエ」というマンガを持っています。あなたはどんなマンガを持っていますか?

 「じゃリン子チエ」をどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 はるき悦巳作「じゃリン子チエ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月31日 (土)

「銀河鉄道999」は全編、命あるものに対する愛情と悲しさに満ちている

 私たちはともすると、外見で人を判断しがちです。ときによっては、それが偏見や差別につながってしまうことがあります。そのような未熟な私たちが、同時にまた、限りある命を待つ事の素晴らしさと、その素晴らしい命が内包している悲しさとを、かみ締めることもできる場合があるのです。そんな私たちが自らを振り返るためのマンガがあります。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「銀河鉄道999」は全編、命あるものに対する愛情と悲しさに満ちている

  と題して進めます。

0331_99911  タケカワユキヒデ先生は「マンガ名作講義」の中で、松本零士作「銀河鉄道999」について次のように書いています。 

・・・

  名作と呼ばれる作品のプロットは、驚くほど単純なことが多い。この『銀河鉄道999』もそういった作品のうちの一つだと思う。

 不老不死の機械の身体をもらうために、主人公の鉄郎が宇宙を旅する。プロットはたったそれだけだ。

しかし、プロットが単純だからといって、作品自体が単純ではないのが、名作の名作たる所以だ。

 殆どの人がそのタイトルを聞いて想像する、夢と冒険の物語。この作品は、そういう想像をもくつがえす。

 スウィフトが『ガリバー旅行記』で、彼の時代を鋭く風刺したように、松本零士は、夢と冒険の狭間に、人間に対する風刺を鋭く挟み込んでいる。

       ◇   ◇   ◇

 星から星へと旅する鉄郎は、ある時、金粉に似た無数の光が星の表面を動き回っている不思議な星へ立ち寄る。

 ホテルに入ると、身なりの貧しそうな女性が、何か仕事はないかと、鉄郎に尋ねる。鉄郎が施しをしようとすると、その女性はそれを強く拒んで去る。鉄郎が見ず知らずの人に施しをしようとした事を恥じていると、その女性がもう一度やって来て、貰ってもらいたい物があるから、鉄郎を自分の住まいに案内したいと言う。よこしまな気持ちでその女性の質素なアパートを訪ねた鉄郎は、買ってほしいとその女性の言ったものが、長い間かかって書きためた、アニメーション作品の絵コンテだった事を知って自分のよこしまな気持ちを恥じる。そして、その直後の停電。

0331_99901  ここで鉄郎は、星の表面を動き回っていた光の粉の正体と、女性が貧しかった理由を同時に知ることになる。

 暗闇の中で女性の身体が、蛍のように淡くまだらに光ったのだ。

 この星の人間は、生まれながらに、身体が綺麗に光る人間と、まだらにしか光らなかったり、全然光らない人問に区別されているのだった。彼女が貧しかったのは、身体がまだらにしか光らなかったからだった。生まれながらに地位が高いのは、全身かくまなく光る人間だちなのだ。

 怒った鉄郎は、慇懃無礼な全身くまなく光る男をコテンパンにやっつける。

 松本零士は、この作品の中で「人間の価値は、外側から見ただけではわからない」という主張を、形を変えて何度も何度も読者に訴えかける。

 ある時は、見た目によって変な差別をされないように、アメーバ状の姿になってしまった宇宙人たちが登場したり、ある時は、自分の本当の姿を見られたために、恥ずかしくて爆発してしまう見えっ張りな機械の惑星が登場したりする。

 どれも、きわめてマンガ的な発想なので、ついただのギャグの一部として見逃してしまうが、こういうところにこそ、作者の主張がある。

 そして作者が、作品全体を通して読者に語りかけるのは、限りある命を待つ事の素晴らしさと、その素晴らしい命が内包している悲しさだ。

 この作品は、全編、命あるものに対する愛情と悲しさに満ちている。

       ◇  ◇  ◇

 僕は、この作品の映画化の時、主題歌の作曲と歌を担当した。当時から、マンガマニアを自称していた僕は、この名作の音楽を担当できることを誇りに思った。自らを鼓舞する意味も兼ねて、忙しさに負けぬようにと、あの明るい夢に満ちている曲を書き、そして、唄った。

 が、今になって作品を読み返してみると、僕が作って唄ったあの「銀河鉄道999」は、少し、生きる勢いに満ち満ち過ぎていたかもしれない。反省している。

・・・

 うーん。

 外見で人を判断したり、それによって偏見や差別を持ったりしないようになりたいものですね。そして、限りある命を待つ事の素晴らしさと、その素晴らしい命が内包している悲しさとを、かみ締めてみたいものですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 松本零士作「銀河鉄道999」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月29日 (木)

「AKIRA」はリアルで雄弁な映像的ダイナミズムだけでなく、読み手の力量に応じたさまざまなテーマを孕んでいる

 マンガの歴史を画したマンガがあります。多くの人が読み、また、多くの人が語っています。それだけ、大きく、それだけ重いかもしれません。そして、それゆえに面白いものです。時にはそんなマンガを、もう一度読んでみてはいかがでしょう。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「AKIRA」はリアルで雄弁な映像的ダイナミズムだけでなく、読み手の力量に応じたさまざまなテーマを孕んでいる

  と題して進めます。

0329_akira03  山崎浩一先生は「マンガ名作講義」の中で、大友克洋作「AKIRA」について次のように書いています。 

・・・

 『2001年宇宙の旅』を撮り終えて、スタンリー・キューブリックは言った。

 「映画作家は紙とペンの自由を獲得した」と。

 それは映画という表現手段を、自分の道具として自在に使いこなした彼自身の勝利宣言だった。

 だとすれば、逆に「紙とペン」の側から「映像の自由を獲得した」のが大友克洋だった、と言っていいかもしれない。ただしそれはもちろん映画とも、また、ひょっとするとマンガや劇画とも違う、まったく新しい映像表現なのだった。

       ◇   ◇   ◇

 嘘だと思うなら『AKIRA』を読むことだ。これが白紙の上にペンで引かれた黒い線だけで構築された「静止した世界」であることを、あなたは本気で信じることができるだろうか?

 たとえば、2020年のネオ東京がアキラによって壊滅する黙示録的シーン。自在のカメラワークと複雑なカットバックを駆使して、一瞬のカタストロフが実に三十ページにわたって描かれている。縦横無尽のコマ割り(これこそがマンガの正体だ)が醸し出す独特のリズムで、あなたの視点はこの重層的な時空間の中をめまぐるしく移勤し、ホンモノの眩暈(めまい)、浮遊感、さらには風圧さえ体感できるはずだ。ちなみにこのシーーンは、雑誌連載時と単行本とでは構成(映画でいう「編集」)がまったく変えられている。

 こういったリアルで雄弁な映像的ダイナミズムは、もちろん前作『童夢」や『気分はもう戦争』ですでに完成されていた。それを極限までスケーールアップして、まるごとの〈世界〉にまで発展させたのが、この作品だったということだ。

 なにしろこの作品では、登場人物の心理や関係の機微までが、スペクタクルな映像として描かれてしまう。映像がここまで饒舌なのだから、もちろん解説的な言葉など不要になる。ト書きは冒頭に一ヶ所あるのみ。かろうじて語り部役の教祖ミヤコが、物語のキーワードである「力」と「流れ」について解説するのだが、それらもそれぞれビッグバンと二重螺旋によってリアルに視覚化されている。

  ◇   ◇   ◇

0329_akira01  こうなると主人公の金田たちは、緊迫した場面でハリウッド・アクションばりのジョークをかましたり、ストーリーにかまわず無邪気に遊び回ったりすることに専念していればいい。そして、それが息詰まる展開に効果的な批評と風穴を与えている。おそらく作者はそこまで緻密に設計しているのだ。

 そして《手塚マンガ》の言語体系を鮮やかにクリアした、単純だが重畳的なストーリーは、読者にさまざまな解釈を許すことになる。この作品がテーマやメッセージと無縁の職人的エンターテインメントだという俗説は、実はあまり当たっていない。読者が読み取りさえすれば、ここには焼け跡からオウムまでの、戦後と同時代が孕むあらゆるテーマが発見できる。その豊かな映像的メッセージを、一度じっくり読み取ってみてほしい。それは《大友マンガ》という新メディアの特性を最大限に楽しむ法でもある。

 たとえば、単行本で新たに加筆された三十五ページのエピローグ。徹底して〈破壊〉を描き続けたこの作品にとって、それはいかにも取ってつけた蛇足的な〈再生〉イメージのようにも思える。が、それはこの作品が、戦後の廃虚から生まれたマンガという「力」と「流れ」の物語でもあることを象徴しているのだ。このラストシーンが『火の鳥・未来編』のラストを連想させ、また、そこに手塚治虫への献辞が添えられているのも、けっして偶然ではない。

 大友もまた確かに「手塚の子」なのである。でも、「紙とペン」がついにそこから遥かここまで来てしまったことも、やはりまちがいないのである。

・・・

 うーん。

 マンガの歴史を画したマンガなんですね。それだけ、大きく、それだけ重いんですね。そして、それゆえに面白いものなんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 大友克洋作「AKIRA」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月28日 (水)

「漂流教室」は超自然現象のリアリティーを始めさまざまなテーマを突きつけている

 普通ではありえない、超自然現象というものがあります。それは果たして現実にありえないことといえるのでしょうか。卓越したマンガはこの疑問に向き合うことを教えてくれています。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「漂流教室」は超自然現象のリアリティーを始めさまざまなテーマを突きつけている

  と題して進めます。

0327_01  横尾忠則先生は「マンガ名作講義」の中で、楳図かずお作「漂流教室」について次のように書いています。

・・・

  その昔、「漫画少年」という雑誌があって、ぼくはその熱狂的な読者の一人だった。将来、マンガ家を志望していたぼくは熱心な投稿少年で、毎月「漫画少年」にマンガを描いて送り続けていた。だけど、成績はかんばしくなく、とうとうマンガ家の夢を捨てざるをえなくなってしまった。

 こんな挫折感がマンガに対する興味を失わせ、それどころかマンガに怨みさえ覚えるようになってしまった。

       ◇   ◇   ◇

 そして時が流れた。一九六七年、ぼくはニューヨークに四ヵ月近く滞在した。ここで遭遇したのはヒッピー・レボリューション、ドラッグ・カルチャー、サイケデリック・ムーブメントなどの意識改革だった。

 このアメリカの文化的事件の中で、ぼくはかつて経験したことのない精神的レボリユーションを体験し、あっという間に精神世界にのめり込んでしまった。つまり、従来の肉体感覚による知覚と認識を遥かに超えた、もうひとつのリアリティーの存在に直面してしまったのである。そして「新しい自己」探求の旅の入り口に、ぼくは余儀なく立たされてしまったのだった。

 このことは、ぼくの無意識の願望であると同時に、何やら宿命的な「意志」の働きを感じないわけにはいかなかった。と同時に、ぼくの日常に超自然的な現象が現れ始めたのも単に偶然とは思われなかった。

0327_02  そんな時に出合ったのが楳図かずおの『漂流教室』だった。ある日突然学校が大音響と共にあと形もなく地上から消えてしまった。時間の壁が破れて未来の世界へ次元移勤してしまったのである。

 そんなバカな、という人がいるかもしれないが、ぼくには決してこの現象が現実にあり得ない話だとは思えなかったのである。

 人間の想念エネルギーが起こす物質への影響は絶対にあるという考えは、ぼくに生じた不思議な超自然的な体験でぼく自身が知るところとなっていたので、『漂流教室』の中で起こる様々な超自然現象は、ぼくには自然現象の一部のようにとらえることができたのである。

 このマンガを最初に読んだ一九七二年には、ぼくの関心はすべてこの超自然現象のリアリティーにあったが、最近もう一度読み直してみたら、もっともっと重要なテーマが沢山あることに気づいた。

 次元移動して未来の時間に往む子供と、こちらの世界にいる母親との、想念と想念による愛の交流。同時にネガティブ想念の引き起こす恐怖。極限状況に置かれた人間の狂気。最後まで生きる望みを捨てない人間の勇気と力と愛と希望。われわれの世界の反ユートピアと終末の予感。生死を超えて存在する宇宙意識。

       ◇   ◇   ◇

 マンガ家の夢が破れてマンガ嫌いになってしまったぼくだったが、『漂流教室』を読んで楳図ファンになり、他のマンガ家の作品はあんまり読まないけれど、彼のマンガだけはいつも気になっている。

 あのひょうきんな楳図さん自身のキャラクターと恐怖マンガはどうしても結びつかないが、森羅万象はすべて対立する両極の要素によって成立していることを考えれば、彼の人間と作品は見事に一致しているといっていいかも知れない。

 豆が死ぬほど人好物で、乗り物が死ぬほど嫌いという楳図かずおが、太古の時代ではなく、この現代に、恐ろしく明るく住んでいるというのは一体どういうことなんだ。

・・・

 うーん。

 普通ではありえない、超自然現象というものをどのように考えたらよいのでしょうか。それは果たして現実にありえないことといえるのでしょうか。楳図かずお作「漂流教室」はこの疑問に向き合うことを教えてくれています。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 楳図かずお作「漂流教室」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月24日 (土)

「天才バカボン」は時間の横丁をふらりと曲がる懐かしさと、無秩序だけがもたらす安らぎを思い出させてくれる

 時々若かったころのことを思い出して懐かしく思うことがあります。また、もっと幼い頃のことがよみがえって、無性に切なくなります。それはたいてい、同じような風景や、状況とともに表れるのです。昔よく読んだマンガを読んだりすると、運がよければ、そんな自分なりの原風景に対峙してしまうのです。もしかしたらあなたにもそんなマンガがありますか?

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「天才バカボン」は時間の横丁をふらりと曲がる懐かしさと、無秩序だけがもたらす安らぎを思い出させてくれる

  と題して進めます。

 著述家の野口武彦先生は「マンガ名作講義」の中で、赤塚不二夫作「天才バカボン」について次のように書いています。

・・・

0324_02  それはあたかも「無秩序」が一つの季節を開いたかのようだった。

 「無秩序」は「秩序」の反対語ではない。バカボンのお父さんがいうように「さんせいのはんたーい」であり、徹底的かつ根元的に秩序ある行動は一切やらないという倫理であった。でなければ、全員こぞってこれほど律義にバカがやれようか。

 『天才バカボン』の雑誌連載が始まったのは一九六七年だった、と改めて思い出した。バカボンとその父親は、みごとに「字義通りに」生きている。言行不一致はまるでないのだ。だからよくだまされるし、バカにされる。それに対して「人をバカにするのはよくないことだ!」と正論を吐くのが、バカボン親子なのである。

       ◇   ◇   ◇

 一九六七年は、全共闘運動の始まりの年だった。単純にいうなら、それは大学知識人の言行不一致に向かって「まただましてよろこんでるな」と怒ることから起きた。その直情径行をいちばんよく造型したのが、すぐピストルをぶっぱなす「目ン玉つながり」の警官である。『天才バカボン』は、ギャグの陽明学なのだ。全共闘は「反秩序」になった。「無秩序」まではゆかなかった。

 バカボン・サガの世界は、いつしか何とはなしに、竹下さんや海部さんや河野さんを出したあのW大学の裏の宇宙にある「バカ田大学」の近辺、三十年前の神田川のほとりにあると思いこんでいた。今もそう確信している。

0324_01  一九六〇年代の末といったら、日本はまだ「高度経済成長期」にあり、EXPO'70に向かって右肩上がりの上昇中だった。六〇年安保このかた、左肩をそびやかしていた既成左翼は生気が衰え、それがまた全共闘運動、新左翼形成の土壌でもあった。だが「バカ田大学」界わいには、どぶどろ色の神田川がくねり、両岸が町工場か学生下宿といった街区がまだ取り残されていたのである。

 作者白身は、たぶん意識していないことかもしれない。だが、時代性はさりげない背景に出る。なつかしい町角の風景が六〇年代をよみがえらせる。まだ笠つきの電灯だった街灯、町工揚か銭湯だかの煙突、スレート屋根、くみ取り便所。そして大ゴマの遠景には、しだいに団地(昔いかに新しかったか!)や高層ビルが現れてくるのだが、作者にはこれが一種の原光景になっているのだろうか、七〇年代になっても原っぱの土管がくりかえし描かれるのだ。バカボン・サガの世界は永遠に普請中なのである。

       ◇   ◇   ◇

 先日、知り合いに電話して日程の話をしていたら、相手が「えーと、十五、十六、十七と」というので思わず「私の人生暗かった」と応じてしまい、大笑いになったことがある。

 年表を見ると、『圭子の夢は夜ひらく』のヒットは一九七〇年である。歌詞やメロディーの一節は、不思議に、そのとき自分がどこで何をしていたかという記憶を呼びさます。「まっかにもーえたー太陽だーから」という『真赤な太陽』の日輪が、バカボンの町を照らす。

 この世界は他のマンガの世界とも交錯しているらしくて、ニャロメやウナギイヌやケムンパスが関係ないのにほんのチョイ役で顔を出すのがうれしい。そして中でもとりわけ「レレレのおじさん」が何ともいえずよい。「おでかけですか」というだけで、ほかに何もしないのがえらい。思い出すと、昔はご町内にかならず一人こういう人物がいて、何となく役に立っていたものなのだ。今はどこかに消えてしまった。

 『天才バカボン』のページを開くのは、時間の横丁をふらりと曲がることであり、そこで「バカ大の名誉にかけてバカなことをしてみせるのだ!!」という皆さんに会えることなのだ。やっぱり時々はバカボンに会うのがよいのだ。

・・・

 うーん。

 時々若かったころのことを思い出して懐かしく思うことはありませんか? また、もっと幼い頃のことがよみがえって、無性に切なくなりませんか? 昔よく読んだマンガを読んだりすると、運がよければ、そんな自分なりの原風景に出会えるのではないでしょうか。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 赤塚不二夫作「天才バカボン」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月22日 (木)

「エースをねらえ!」は登場人物により崇高な精神を持たせるために著者が自身の生命を削っているように思える

 マンガに感動するということは、その作者の生き様に感動することでもあります。読み手は作品を通して、その描き手から学ぶといえるでしょう。感動を与えてくれるマンガは、たとえそれが創作であってもその中に学ぶものがあります。私たちは喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「エースをねらえ!」は登場人物により崇高な精神を持たせるために著者が自身の生命を削っているように思える

  と題して進めます。

 小説家の乃南アサ先生は「マンガ名作講義」の中で、山本鈴美香作「エースをねらえ!」について次のように書いています。 

0322_01 ・・・

私がマンガに熱中するようになったのは、中学生になってからのことだ。友だちの影響もあっただろうが、小学生のころよりもお小遣いが若干増えて、購読できる雑誌の数が増えたこともある。学校の帰りに必ず立ち寄った小さな書店の店先には、毎日「本日発売」のマンガ雑誌が積み上げられていて、私たちは競うようにして、それらの雑誌を買って帰った。

 「エースをねらえ!」は、ちょうどそのころ連載されていた。「ブラック・ジャック」や「ドカベン」「マカロニほうれん荘」などと同様に、私たちは、そのテニスマンガに熱中した。確か、「ベルサイユのばら」も、似たような時期に読んだのではないかと思う。

 キラキラお目目のキャラクターが枠からはみ出して描かれるのも、人物の背景や余白に、やたらと花びらや蝶などがちりばめられているのも、外国人なみに鼻筋の通った二枚目の男性が登場するのも、少女マンガの世界では常識だった。しかも、主人公岡ひろみの先輩である「お蝶夫人」ときたら、高校生のくせに長い髪を豊かにカールさせていて、あくまでも華麗、後輩に向かって「お黙りなさいっ」なんて言っちやったりする。いかにも豪華絢爛、現実離れした高校生たちの織りなす、涙と笑いの超ド派手青春スポーツマンガだろうと、最初はいかにも安易に読み始めた記憶がある。やがて、クラスには、「お蝶夫人」の口調をまねたり、男性キャラクターの好みなどを言い合ったりする少女が現れ始めた。

       ◇   ◇   ◇

 ところが、少し読み進めると、このマンガの印象は大きく変わってくる。岡ひろみを見いだし、育てる宗方コーチの存在が、それまでの青春マンガとは異なるカラーを打ち出してくるのだ。

 当初は憎まれ役と思われたこの男は、物語に深くかかわる唯一の大人とも言える。「この世に、耐えられぬほどの悲しみも苦しみもない」と言い切り、自分の全存在をかけてひろみに打ち込むコーチの姿には、ある種鬼気迫るものさえ感じられた。中学生だった私は、岡ひろみ以上に、宗方の言葉を理解し得なかったが、とにかく、ひろみと宗方コーチとの揺るぎない師弟愛に衝撃を受けた。あれほどまでに自分に打ち込み、無償の愛を注ぎ、指導をしてくれる人が、世の中に一人でもいないものかと、ふと現実に戻ってため息をついたりもしたものだ。

 衝撃的な前半が終わり、数年のブランクを経て後半の連載が始まったころ、私は岡ひろみと同い年くらいになっていた。そして以前にも増して、自分と彼女との人生を引き比べるようにもなった。私は相変わらずマンガばかり読んで日々を過ごす、ただの学生のままだったが、ひろみは以前にも増して過酷な試練に耐え、慟哭を知り、さらに成長を続ける。絵のタッチも変わり、もはやキラキラお目目の単純なスポーツマンガとはいえなくなっていた。

0322_10        ◇   ◇   ◇

 やがてストーリーが進むにつれ、私は一つのことが気にかかり始めた。作者の山本鈴美香という人は、どれほど自分の神経を研ぎ澄まし、精神を集中し続けているのだろうか、ということだ。作者は、登場人物たちにより崇高な精神を持たせるために、自分の生命を削っている。彼女白身が、岡ひろみ同様の苦難の道を歩んでいる。そうでなければ、こういうセリフを書くことは出来ないに違いない。それが、痛いほど感じられるのだ。

 そんなにも自分を追い詰めて、果たして大丈夫なのだろうか、過酷な旅に出だのは、岡ひろみではなく、山本鈴美香本人なのに違いないと、私は切ないような気持ちになったものだ。

 最終的に「エースをねらえ!」は、少女マンガという分かりやすい表現方法を用いた、一つの哲学入門書のようなものになったと、久しぶりに再読してみて、改めて思った。そして、中学生のころは理解できなかった宗方仁のセリフを、今ごろになってかみしめたりもしている。

・・・

 うーん。

 「エースをねらえ!」のなかで山本鈴美香先生は登場人物同様の苦難の道を歩んでいるんですね。登場人物に過酷な旅立ちをさせる作者は、同様に過酷な旅立ちを自らに課しているんですね。だからこそ、読み手の心にせまる作品を描くことができるんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 山本鈴美香作「エースをねらえ!」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月21日 (水)

「陽だまりの樹」で手塚治虫は歴史のうねりと、そのなかで肌のぬくもりが伝わる人間とを描いている

 マンガは、現在を描くだけでなく、過去や未来をも描きます。いずれの場合でも現在を生きる私たちが学ぶものがあります。私たちは喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「陽だまりの樹」で手塚治虫は歴史のうねりと、そのなかで肌のぬくもりが伝わる人間とを描いている

  と題して進めます。

 現代児童文学の草分けである今江祥智先生は「マンガ名作講義」の中で、手塚治虫作「陽だまりの樹」について次のように書いています。

・・・

0321_00  手塚治虫の世界は大抵が前向きのものだった。昔むかしあるところに……というものではなくて、そのうちいつかは……という姿勢で未来を描いていた。私が高校生のころ読んだ『メトロポリス』以来、ずっとそうだった。新選組や弁慶といった時代物もあるが、少数派だった。

 手塚治虫はいつも明日明後日を向いた漫画家だった。だから私たちは、いつもどきどきしながら手塚治虫の漫画に未来世界を覗いていた。一見、過去大過去に踏み込んだような『火の鳥』でも結局はそうだった。

       ◇   ◇   ◇

 そんな手塚治虫が、晩年になって全力投球で描いた『陽だまりの樹』は、しっかりと過去に入り込んだまげものだった。自分のルーツ探しの旅といってもいい。

 幕末医学事情の変遷を背景に、常陸府中二方石、松平播磨守の家臣伊武谷万二郎と、新米医師の手塚良仙が、歴史の歯車にまき込まれながら、断固として自分流に生きるさまを描いて、一気に読ませ、読み返して飽きることはない。読後に清々しい気もちが残る上々の出来の長編だ。

 良仙は色好みの、はた目にはいささかいい加減の男に見えて、その実、いざとなると、しゃかりきに気合を入れて生きる男である。一方、万二郎は堅物で、はた目にはそれこそ融通がきかない硬派の武士に見えて、その実、まことに繊細な優しさを内に秘め、そのくせ猛烈な馬力で人を斬る。

 二人は全く正反対の人格に見え、物語の中では奇妙な偶然から相まみえ、不思議な友情に結ばれていく。ときには二人は一枚銅貨の裏表にさえ思えてくる。すなわち、二人ともが、手塚治虫の分身なのである。

 生前、何度もお会いした手塚さんは、穏やかで微笑を絶やさぬ紳士だったが、一度だけ、とても強い目を向けられたことがある。それは理由も問えぬほど、ほんの一瞬のことだった。柔軟誠実なお人柄ながら、本当は大変な激情家だった感がある。何年ぶりかで『陽だまりの樹』を読み返し、万二郎の生きっぷりの激しさに、そんな手塚さんの思いを見た気がした。

 良仙は実在の人物で、小児科医の深瀬泰旦さんが調べて「小石川三百坂の手塚良仙」という論文にされた。文政元年生まれで、大阪の緒方洪庵の適塾に入門、種痘所開設に尽力した一人であった由。手塚さんがその論文を読み、深瀬さんを訪ねて話され、自分の曽祖父たる良仙を主人公の一人にした長編の構想をたて、八巻の史劇に仕立て上げた。

0321_02        ◇   ◇   ◇

 二人ともたしかにこの物語の主人公だが、その陰に“歴史”というもう一人の大主人公がいる。幕府側、倒幕派に、開国を遣るハリスら外国人もが入り乱れての幕末の歴史のうねり、その光と闇の此界が、その時代に生きる人間どもを圧倒し呑み込む。読者は目くるめく時間の波に投げ込まれる。海舟も竜馬も西郷も登場し、それぞれの役をつとめるが、結局は歴史のうねりの中に呑み込まれていく……。

 それでいて、読後にくっきりとした印象を残して忘れ難い万二郎と良仙と何人もの女性たちは、まるで実在の、手を触れたら肌のぬくもりが伝わるくらいにリアルに描かれている。この手応えがやっぱり手塚治虫なのである。手塚さんは五年がかりでこの作品をかき、三年後に亡くなった。しかしこの二人を通しても、私たちはいつでもまた手塚さんと会える気がする……。

・・・

 うーん。

 「陽だまりの樹」で手塚治虫は歴史のうねりと、そのなかで肌のぬくもりが伝わる人間とを描いて、確かな手ごたえを感じさせてくれているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 手塚治虫作「陽だまりの樹」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月18日 (日)

「20世紀少年」「JIN―仁―」「ジパング」がSFマンガを再生させる

SFマンガは面白いです。SFマンガは手塚治虫の登場時から少年マンガの中心を連綿と流れてきました。そのSFマンガについて、今日は改めてみてゆきたいと思います。マンガは、たとえそれが創作であっても学ぶものがあります。私たちは喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

 20世紀少年」「JIN―仁―」「ジパング」がSFマンガを再生させる

  と題して進めます。

 米沢嘉博先生は著書の「売れるマンガ、記憶に残るマンガ」の中で、20世紀少年」「JIN―仁―」「ジパング」について次のように書いています。

・・・

0318_2011 SFの魅力とは……

 もしかしたら、SFをダメにしたのは「スター・ウォーズ」とそのブームだったのではないかと、このごろふと思う。あれによって、SFは型にはめられ、大衆に見切られてしまったのかもしれない。サイバーパンクも、イメージだけが80年代を覆い、その結果やってきた「近未来」の中で、SFは物語の豊穣なるエネルギーを失っていったのだ。あれもSF、これもSF、面白いものはみんなSFと言っていた時代が懐かしい。SFという言葉は、魔法のように日常を逸脱した面白い「物語」を飲み込んでいった。

 90年代、ホラー、モダンホラーが同様の役割を果たしたのだが、それにもカゲリが見え始めている。にしても、ホラーもSFもくたばりはしない。それは個と世界(種)という違いはあれ、物語や話の面白さそのものを体現しているジャンルであるのだからだ。

 宇宙やらコンピューターやらが出てこなくとも、当然SFなのである。破滅やロボット、超能力、タイムトラベルなどは単なるSFのジャンル分けに使用されたモチーフなのであって、SFとイコールではもちろんない。批評や風刺などは、結果として出てきたものであって、そんなものを大上段に振りかざすことはあまりよろしくない。要は壮大なるホラ話、巨大なる世界の物語、現実を超えた日常を変化させてしまうようなドラマ、それがSFの魅力だったのではなかろうか。

 かつて手塚治虫や白土三平が物語り続けた、様々な人間たちが生きて死ぬ「世界」の物語を描ける作家は、今一人もいない。

 横山光輝は中国の古代史の中に行ってしまった。かろうじて浦沢直樹と村上もとかがそうした指向を見せてくれている。なんといってもSFは[異世界]そのものが主役でもあるのだからである。

0318_2021  で、浦沢直樹の「20世紀少年」は謎とメタファーに満ちた物語でぐいぐい読ませてくれるのだが、3月に出た「JIN―仁―」(村上もとか 集英社)をまず紹介しよう。

 現代の医者が江戸時代にタイムスリップしたというこの物語、現代と江戸との対比の中で、医者という立場で積極的に時代に関わっていこうとする主人公が描かれてい

 同様の設定に石川英輔の「大江戸神仙伝」というSFシリーズがあるが、石川の主人公が能天気で歴史を変えないよう心がけているのに対し、村上もとかは歴史の改変さえ辞さない。医者として人間としての意思を選び取る主人公は知的遊びとしてのタイムパラドックスなどものともせず、江戸の中で使命をまっとうしていこうとするのだ。

 またかわぐちかいじの「ジパング」(講談社)ではついにタイムスリップした自衛隊が歴史の改変、歴史に積極的に間わっていくことを決意した。このワクワクする展開は物語を読む快楽を味わわせてくれる。そして「20世紀少年」は変貌してしまった未来世界を今一度改変しようと戦い続けるのだ。

まさに「時を越えて」

0318_2031  「JIN―仁―」はまだわからないが、かわぐち・浦沢の2本のSFは今、間違いなく売れている。決定された変わることのない日常、あるいは異世界の中でうだうだやっているドラマではなくここには積極的に世界を変えていこうとする意思があり、それが物語を動かしていくというダイナミズムがうねりを生み出していく。確実にあった過去の世界には実在の人物や場所がまんま登場し、現実と地続きの未来にはフラッシユバックのように70年代の風俗・文化が散りばめられている。

 前回語った、今読者のいる現実と間違いなくつながっている「モノ」、具体性がこれらの異世界の物語の扉となっている。ここにはいわゆるSF的な言葉、小道具はあまりない。

 しかし、これはSFなのである。少年マンガの、いやマンガの中心を手塚治虫の登場時から連綿と流れてきたSFマンガは新世紀今一度その力を取り戻さなければならない。日常化したSF的風景、単にSF的イメージを散りばめた戦いやラブコメではなく、物語りたいという欲望のままに突っ走っていかなければならない。そうした巨大な物語の列に多くのマンガはまた寄り添わなければならないはずなのだ。手塚治虫の死によって失われた「核」とは、まさにそれだったはずなのである。

・・・

 うーん。

 SFマンガには壮大なるホラ話が必要なんですね。、巨大なる世界の物語、現実を超えた日常を変化させてしまうようなドラマ、それがSFの魅力だったんですね。 20世紀少年」、「JIN―仁―」、「ジパング」はSFマンガを再生させることができるのでしょうか

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 浦沢直樹作20世紀少年」、村上もとか作「JIN―仁―」、かわぐちかいじ作「ジパング」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月10日 (土)

「釣りバカ日誌」は公私のけじめをつけて仕事も余暇も人間関係を円滑にしつつ楽しむスタイルを教えている

  仕事も余暇も楽しみたいものです。職場でも余暇生活でも人間関係を円滑にしたいものです。公私のけじめをつけることによってそれらを実現できるのではないかというマンガを見つけました。

 今日のマンガはやまさき十三原作・北見けんいち作画「釣りバカ日誌」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「釣りバカ日誌」は公私のけじめをつけて仕事も余暇も人間関係を円滑にしつつ楽しむスタイルを教えている

  と題して進めます。

0308_02  梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、やまさき十三原作・北見けんいち作画「釣りバカ日誌」について次のように書いています。 

・・・

  『釣りバカ日誌』(小学館)がブームである。もともと雑誌「ビッグコミックオリジナル」で長期連載を続ける人気マンガであり、西田敏行さん主演で映画化され、こちらもシリーズ化されている。日本全国、“釣りバカファン”はかなりの数になるのではないだろうか? もちろん、私もその一人である。 安定志向の日本的雇用慣行が批判に曝され、より競争的な成果主義の導入が叫ばれる日本の職場で、のんきに釣りバカを続ける浜ちゃん!  彼は、日本のサラリーマンにどのように受け入れられているのだろうか?

 『釣りバカ日誌』は、やまさき十三作・北見けんいち画で、昭和五十四年から連載を続ける長寿マンガである。その間、時事ネタを取り入れつつも、一貫して日本の職場とそこでの人間関係を描き続けている。

 主人公の浜崎伝助さんは、中堅クラスの建設会社に勤めるごく普通のサラリーマンである。しかし、その実態は、明けても暮れても(もちろん仕事中も)、魚のことばかり考えている釣りバカなのである。かわいい奥さんの出産の時にも、なんと釣りである。「みち子許してくれ!! 一時間、一時間でいいっ」(第1巻より)なのだ。 有能とはとても言えず、そのうえ釣りのことばかり考えているのだから、競争的な成果主義の会社では、浜ちゃんは生きていけないだろう。 しかし--。あえて私は浜ちゃんの存在を弁護したいと思う。

 たしかに、会社は自分の労働を提供する場所だけど……同時に人生の大部分の時間を過ごす場所でもある。一日八時間の労働として、お昼休みの」時間も入れると、少なくともわれわれは一日九時間以上も会社にいるのだ。 そんな大切な場所がギスギスした、単に働くだけの場所ならば、かえってわれわれは働く意欲を失うと思う。たしかに職場は働く場所だが、そのうえに和気あいあいとした人間関係を築きたいと思うのがサラリーマンの本心ではないだろうか? 浜ちゃんのいる職場で働きたいなあー、というのは多くの読者の願望でもある。だから、浜ちゃんは職場の心理的負担を和らげる貴重な役割を果しているのです!

 まあ、だからといって、釣りのことばかり考えてよいわけではないのだけれど……。

0308_91  日本の職場は、週休一日が普通だった昔よりも勤務時間は減り、肉体的な厳しさは減少している。しかしその一方で、働く人びとの心理的負担は増大しているのではないだろうか。職場のウツの増大も気になる問題である。 職場の緊張を和らげるのは、単なる勤務時間や肉体的負担の軽減ではない。それは、人びとが職場で抱えてしまう心理的負担を、ふと、軽くしてくれるような円滑な人間関係ではないだろうか?

 でも、人間関係をよくしましょうと言われても、上から強制されれば、それ自体が負担になってしまう。そもそも現実問題として、はたして職場の同僚と余暇を一緒に過ごしたいと思うだろうか。 われらが浜ちゃんは、たとえ自分の会社の社長であっても、公私の公と私を適当に使い分けている。 「俺が付き合ってんのは、社長じゃない!! 鈴―(スー)さん!!」(第3巻より)  なんと、鈴木社長も釣りの現場ではスーさんなのだ。会社は会社、釣りは釣りなのである。そんな浜ちゃんの態度を社長も受け入れている。社長は安心して奥さんにこんなことを言っている。

 「“ハマちゃん”ね、あたしが社長ってわかっても、少しも傷つかなかったですよ」(第4巻より)

 人生が会社の人間関係だけで占められるならば負担だが、そうかといって、会社以外の人間関係だけの人生ならばさびしいものだ。会社と余暇の人間関係をうまく(適当に?)使い分けて、仕事も余暇も楽しく生きる。これって、サラリーマンの理想の生き方ではないだろうか?

 われわれは、いいなー浜ちゃん! と思いながら、何度もこのマンガを読んでしまうのである。

・・・

 うーん。

 仕事も余暇も楽しみ、同時に職場でも余暇生活でも人間関係を円滑にするには公私のけじめをつけることが大事なんですね。なかなかできないことだけれども、やはり、サラリーマンの理想ですよね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 やまさき十三原作・北見けんいち作画「釣りバカ日誌」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 9日 (金)

「夏子の酒」は自分の心の底からの声に気づけばライフワークが見出せると教えている

  自分の人生をかけた仕事をしたいものです。この仕事以外に自分の仕事は考えられない、といえるような仕事に打ち込みたいものです。いわば自分のライフワークを見出し、それに邁進したいと思うのは多くの人の共通の気持ちではないでしょうか。でも自分のライフワークとは一体何なのか、実はそれすらわかりにくいのが現実かもしれません。でも、いいマンガを見つけました。

 今日のマンガは尾瀬あきら作「夏子の酒」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「夏子の酒」は自分の心の底からの声に気づけばライフワークが見出せると教えている

  と題して進めます。

0307_01  梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、尾瀬あきら作「夏子の酒」について次のように書いています。 

・・・

 転職を考えることがときどきある。とはいっても、それほど本気ではない。ただ、もし別の仕事を選んでいたら、自分はどんな人生だったのかを想像してしまう。想像するだけでもけっこう楽しい。いまの仕事に大きな不満はないが、そうかといって格別面白いというわけでもない。もしこの仕事をしてみたら、自分はもっと充実するのかも、とついつい考えてしまうのだ。

 まあ、憐の芝生はよく見えると言われてしまえばそれまでだが、自分にピッタリの洋服がなかなかないように、誰しも自分だけの仕事を探しているのだろう。洋服は試着できるが、仕事に関しては、試しにちょっと、というわけにはいかない。もっとも多少働いたとしても仕事の本質はわからないだろうが。

 昔に比べれば、われわれの職業選択の幅ははるかに拡がっている。だけど……これが自分の仕事だと胸を張って言える人は意外と少ないのではないだろうか。 才能があれば、と思う人がいるかもしれない。子供の頃に憧れていた野球選手とか、大学時代に憧れた映画監督になっていたら、たしかに楽しいだろう。でも、現在、私が思うのは、そんな憧れの世界ではない。たとえ平凡な才能でも、自分にピッタリの仕事を探せればよいと思っている。誰しも、自由な職業選択における自分だけの“必然”を求めているのではないだろうか。

 尾瀬あきら著『夏子の酒』(講談社漫画文庫)というマンガがある。主人公の佐伯夏子さんは、新潟の酒造メーカー社長の娘である。酒造メーカーといっても、近代的な設備を想像してはいけない。出稼ぎの杜氏(とうじ)さんが、昔ながらの製法で酒造りを行っているのだ。 夏子さんは、田舎の古くさいしがらみや刺激のない生活を嫌い、夢を求めて東京へ向かった。憧れのコピーライターの仕事をつかむためである。彼女の努力もあって、上司にも認められ、ようやく大きな仕事を任されるところまできた。

 そんなとき、田舎で酒造りを手伝う兄、康男さんが倒れる。夏子さんは久しぶりに兄に会うのだが・・・・・・兄は不治の病に冒されていた。彼は、病に苦しみながらも、幻の米、龍錦を探していた。戦前まではあったと伝わる龍錦を使った最高の吟醸酒をつくることに命を賭けていたのだ。

 二年ぶりの兄との出会い、そして永遠の別れ……。憧れのコピーライター業をつかみかけたとき、夏子さんは幻の米で最高のお酒をつくるという新たな夢(=仕事)を目指して故郷に帰るのである。彼女は、兄の仕事を引き継ぐ決心をしたのだ。

 ところで、死期を悟った兄は、夏子さんに自分の夢を引き継いで欲しかったのだろうか。 そうだと思う。でも、兄は妹に仕事を引き継いで欲しいとは言わなかった。 では、夏子さんは、兄の隠された願いを察して、仕事を引き継ぐ責任を感じ、故郷に戻ったのだろうか。

 責任、ではないと思う。彼女は、コピーライターの仕事を位く泣く諦め、つらい酒造りの仕事をはしめたわけでもない。彼女は、気づいたのだと払は思う。自分が、故郷に育ち、酒蔵で生活し、そして酒づくりへの熱い思いを兄と共有していることを。

 兄の死後、兄の後輩だった草壁さんは兄の言葉を夏子さんに伝える。 「夏子さん、先輩言ってました。夏子は必ず戻ってくる。あいつはここが好きなんだ・・・・・・って」(第1巻より)

0307_51  あれほど謙っていた故郷に帰ってくる。それは、諦めじゃなくて発見である。たとえば、もろみ(しぼりをかける前の白く泡立った酒)のにおいだ。夏子さんは言う。 「あたしも兄もそのにおいの中で育ったんです。そのことをやっと思い出したんです」(第1巻より)

 自分の中の故郷、そして、もともとあったお酒への熱い思いに夏子さんは気づいたのである。もちろん私は、家業は継ぐべきだと言いたいわけではない。すべての人が家業を継ぐべきだとも思わない。でも自分の好き嫌いで仕事を選んでも、彼女のような決断はできないだろう。

 だから、逆説めいた言い方だが、自分だけのビッタリした仕事は、他人がつくってくれるのである。ピッタリは憧れじゃなくて、自分を深く知ることである。犬切なことは、自分の中の他人の存在に気づくかどうか、深く感じる力が自分にあるかどうかなのだ。

・・・

 うーん。

やっぱり、自分の人生をかけた仕事をしたいですね。この仕事以外に自分の仕事は考えられない、といえるような仕事に打ち込みたいですね。そのような自分のライフワークを見出し、それに邁進したいと思うとき、「夏子の酒」は自分の心の底からの声に気づけばライフワークが見出せると教えてくれているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 尾瀬あきら作「夏子の酒」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年3月 6日 (火)

「Dr.コトー診療所」はスローに働きながら自分を取り戻す必要を説いている

 仕事に忙しいといつの間にか自分を見失ってしまうことがあります。忙しいことを充実していると錯覚してしまうのでしょうか。忙しい現代人は時にはその忙しさをいったん超越してスローになることが必要なのかもしれません。そんなマンガを見つけました。

 今日のマンガは山田貴敏作「Dr.コトー診療所」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

0306_dr01   「Dr.コトー診療所」はスローに働きながら自分を取り戻す必要を説いている

  と題して進めます。

 梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、山田貴敏作「Dr.コトー診療所」について次のように書いています。

・・・

  職場でコンピューターを前にしながら、外出中に携帯電話を使いながら、ふと考えることがある。もしこんな道具がなければ、もっとゆっくり仕事ができるのでは、と。毎日毎日、コンピューターは、せっせせっせと電子メールを運んでくる。携帯定詰が鳴れば、たとえ外出中でも捕まえられてしまう。取引先からの急な依頼が、上司からの急な指示が、どこにいても何をしていてもやって来るのだ。

 今日はメールを受け取りませんとか、今は電話を受けませんとか、ハッキリと言ってみたい。たまには、ちょっと一休みしたいけど、現実は厳しいのである。毎日毎日、イヤになる。そう思って自分のまわりを見回すと、この頃、なにかに追われるように仕事をしている人が多いような気がする。いったい何で忙しく働いているのだろう。

 なにも文明の利器に限った問題ではない。一見すると便利なようであるが、お互いがお互いを縛る巨大なシステムをつくり上げているのではないだろうか。ふ~、どうもしんどい。 問題は、自分がなんで忙しいのかわからないことだ。そんな状況は、メンタルヘルス問題も発生させていると思う。職場では、自分のペースを取り戻したいという潜在的願望が、静かに、そして深く広がっている。

 山田貴敏著「Dr.コトー診療所」(小学館)というマンガがある。主人公の五島健助さん(通称Dr.コトー)は、東京の大学病院から古志木島にやって来たたった一人の医者である。外科医としてトップレベルの腕を持ちながら、なぜか彼は医療設備も不十分な孤島に渡ってきた。

 古志木島は、日本本土から六時間かかる青い海と白い砂浜の離鳥である。そこでは、のんびり、ゆっくりした時間が流れている。都会であくせく働く人には、彼の音しか聞こえず、満天の星々が輝く島の夜の素情らしさはわからないだろう。 島の診療所には、患者も現れない。たった一人の看護婦である星野さんは言う。「患者さんなんて、月に何人も来ないから」と。そしてダメ押しでこんな言葉を伝える。「この島の人達は、本当に具合が悪かったら、本土の病院に6時間かけて船で行くんです。」(第1巻より)

 かつてDr.コトーが勤めていた大学病院の医療現場は一刻を争う戦場だった。夜勤、徹夜、残業なんでもありのスピード第一主義の職場である。Dr.コトーが島にやって来た理由、それは大学病院の勤務で医者としてのゆとりを失い、ある急患を亡くしてしまったからである。「あの夜のぼくは、医者じゃなかった」(第2巻より)と彼は言う。島に渡ってきたのは、そのことを侮やんだうえでの決断であった。

 スローに働きながら自分を取り戻す。これは、仕事に追0306_dr51われるすべての人たちにとって大切なことだと思う。 ただ・・・・・・スローワークは、単に時聞か余っているだけではないことにも留意したい。そもそもDr.コトーは、島に来て毎日だらだら過ごしているわけではない。彼は、病院を全然信用していない島民たちに誠実な医療を提供する。そして、急病にはたった一人で立ち向かう。彼は言う。「病気とケガは待ってくれませんから」と(第1巻より)。 Dr.コトーは、とことん島民と付き合い、徐々に彼ら彼女らの信頼を得てゆく。Dr.コトー診療所は、島民たちのよろず相談室になっているのだ。その意味では、彼は、大病院にいた時よりも、毎目患者たちの健康について考えている。

 スローワークとは、仕事についてゆっくり考えることであるが、単なる暇な働き方ではない。彼は、次のように言う。 「ぼくは今、患者さんが来てくれるだけで、すごくうれしい。この島の人達に信頼されてるってことが本当にうれしいんだ。」(第1巻より) 島で働くことで、Dr.コトーは忘れていた仕事の喜びを確認したのである。実際、単に時間があるだけなら、おそらく美しい島も三日で飽きてしまうだろう。 仕事を忘れてゆっくりするのではなく、仕事とじっくり向き合い、仕事の意味を考えるために働く。それこそが、スローに働くことの真の意味だろう。

 みなさんは、真っ正面から自分の仕事と向き合っていますか?

・・・

 うーん。

 仕事に忙しいといつの間にか自分を見失ってしまうんですね。忙しいことを充実していると錯覚してしまうんですね。しかしながら、だからといって忙しい現代人はスローな仕事を選んだり、職場環境を変えたりすることはなかなかできません。でも、自分が変わればできるかもしれません。つまり、今の仕事そのままで、今の環境そのままで、自分の考えをいったん白紙にして、今の忙しさを気持ちの上で超越してスローになることです。このマンガはそれを手助けしてくれるような気がします。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 山田貴敏作「Dr.コトー診療所」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月19日 (月)

「きらきらひかる」は仕事に誠実に取り組めば自分なりの深い人間観が備わると教えている

 どんな仕事でもそれに誠実に取り組んでいる姿は美しいものですね。仕事に誠実に取り組んでいる人は自分なりの仕事観を持っているように思いませんか? 誠実な仕事観は誠実な人生観にもつながるといえるでしょう。

職場を舞台にしたマンガは、たとえそれが創作であっても学ぶものがあります。私たちは職場に生まれる喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

0218_01 今日のマンガは郷田マモラ著「浪速美人監察医物語 きらきらひかる」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「きらきらひかる」は仕事に誠実に取り組めば自分なりの深い人間観が備わると教えている

  と題して進めます。

 梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、郷田マモラ作「浪速美人監察医物語 きらきらひかる」について次のように書いています。 

・・・

 子供の頃、なりたかった仕事はなんですか? 男の子ならパイロットやお巡りさんが多かったと思う。いつの時代も、子供たちが憧れる定番の仕事は変わらない。では、なりたくない仕事はなんだろう。これに関しては、子供たちの意見も様々である。私にとっては、断然お医者さんであった。そもそも子供にとって医者は大嫌いな存在であるが、病院嫌いの私にとっては、医者は嫌いという上りも恐ろしい存在であり、実は、大人になった今も病院は大嫌いである。とくに外科のお医者さんは、自分を痛めつける悪者と思っていた。まあ、本当は治してくれているのですが……。

 もちろん、その後成長してもう少し大人になれば、医者は高収入であることも知るので、なれるなれないは別にして、ちょっとは気持ちがぐらつく。しかし医者は、切ったり、縫ったりするんですよ。血を見るだけでも卒倒してしまう、私のような気の弱い人には絶対に無理な職業だろう。自分の気質も考えずに、社会的地位や所得からなんとなく医者を目指している人は考え直した方がよいと思う。

0218_06  郷田マモラ著『浪速美人監察医物語 きらきらひかる』(講談社漫画文庫)というマンガがある。主人公の天野ひかるさんは監察医である。監察医とはあまり聞き慣れない言葉だが、なんと死体を解剖し、その死因が何であったのかを突き止めるのが仕事である。死囚が不明であることからも想像できるように、司法解剖される死体は、溺死体、焼死体、腐敗した死体、白骨化した死体など……様々である。これは、病院嫌いどころではない。いくら仕事とはいえ、想像しただけでも、耐えられない。

 しかし―――。T大学を主席で卒業したひかるさんは、数々の研究室からの引きがあったにもかかわらず、監察医への道を選んだ。彼女はなぜ人の命を肋ける医者ではなく、死体解剖の仕事を選んだのだろうか? その理由を考える前に、彼女の仕事をそっと覗いてみよう。まず、司法解剖をはじめるとき、ひかるさんは手を合わせてこうつぶやく。

「痛いやろけど、ちょっとの間、辛抱してください。」(第1巻より)

また、他人が行った1度目の司法解剖の結果に納得できず、再度解剖検査をする時にも

「もういっぺんだけ我慢してください・・・」(第2巻より)とつぶやくのである。

 相手は死者である。実際は痛みなど感じないだろうが、彼女はそう思いながら仕事をしている。

 さらに、彼女は性別すらわからなくなった死体を診ながら、「せめて・・・せめて身元だけでも分かりますように・・・」と願う。そして身元が分かったとき、「うちに身元が分かるよう教えてくれたんです!」(第1巻より)と家族の人たちに声を掛け、その悲しみと喜びを分かち合うのである。

 ひかるさんは、死者を単なる死体としては扱わない。死者は心を残し、何かを語っているのだ。彼女は、この仕事を選んだ理由を次のように語っている。

「うちな・・・・・死んだ人の言葉を聞いてあげたいんや!」(第1巻より)

 自分の仕事をこんな素晴らしい言葉で表現できる人は少ないだろう。

0218_04  医者嫌いの私も、ひかるさんの仕事を眺めながら、仕事が与えてくれる大切な何かを感じた。私には、彼女が優秀な医者であるだけではなく、優秀な哲学者のようにみえる。哲学者にみえるといってもむろん、彼女が難解な本を読み、難しいことを考えているからではない。彼女が人として素晴らしい態度を持っているという意味での哲学者である。おそらく、監察医という仕事に真剣に取り組み続けた結果、彼女に深い人間観が備わったのだろう。

 仕事が与えてくれるもの、それは給料や達成感であったりするのだが、それ以外にも大切な生き方を教えてくれるのだ。われわれは、そのことに気づくべきだろう。たいてい仕事は、一生の大半を使って毎日続けるものであり、われわれが思う以上に、働く人たちの感じ方や考え方に影響をあたえている。それゆえ、本来、パイロットにはパイロットの人間観が、警察官には警察官の人間観が育つはずなのである。われわれは、仕事を通して自分だけの人間観を身につけている。だからこそ、好き嫌いの判断だけではなく、自分の仕事を大切に扱うべきなのである。

・・・

 うーん。

 「浪速美人監察医物語 きらきらひかる」のなかで郷田マモラ先生は私たちに「仕事に誠実に取り組めば自分なりの深い人間観が備わる」と教えてくれているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 郷田マモラ作「浪速美人監察医物語 きらきらひかる」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月17日 (土)

「天才柳沢教授の生活」は周囲の意見に惑わされずに自信をもって人生の主人公になれと教えている

 自信がぐらついた時は自分が小さく見えることがあります。周りの意見に左右されたり、人の評価が気になったりしがちです。場合によっては何から何まで自分を否定したくなることさえあります。あなたにもそんなことがありますか?

そんな時にこそ、本来の自分の長所短所を自覚した上で今の自分をそのまま受け入れてみてはどうでしょうか。その上で、今の自分にできることに最善を尽くすことが、自分の人生の主人公は自分であるということを思い出させてくれるのではないでしょうか。

職場を舞台にしたマンガは、たとえそれが創作であっても学ぶものがあります。私たちは職場に生まれる喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

0217_01  今日のマンガは山下和美作「天才柳沢教授の生活」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「天才柳沢教授の生活」は周囲の意見に惑わされずに自信をもって人生の主人公になれと教えている

  と題して進めます。

 梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、山下和美作「天才柳沢教授の生活」について次のように書いています。

・・・

  長い仕事人生、誰しも自分の仕事のやり方に疑問を持つことがある。疑問を持つだけならまだしも、自信を喪失してしまう人も多い。とくに人事異動や昇進、または出向や転職で仕事が変わると、今までのやり方が通用せず、戸感ってしまうことがある。たとえ仕事が変わらなくても、上司が代わるだけでも仕事が急に上手くいかなくなることもある。本人の問題じゃないの、と言う人もいるだろうが、実際、相性の悪い上司では大変だと思う。

 不思議なもので、仕事で自信を喪失すると、急にまわりの評価が気になりはじめる。自信喪失の時には、他人にアドバイスを求めてみたりするものだが、このアドバイスが参考になるかというと、そうでもないのだ。かえって状況を悪化させることが多い。あたりまえだが、仕事が上手くいかなくてもその人のすべてが否定されたわけではない。それなのに、すべてが否定されたように思ってしまう。つまり、意識過剰なのですね。嫌いな上司の一言をいつまでも気にしてみたり・・・・。われわれは、調子の良いときに他人の言葉に耳を傾け、調子の悪いときには、まず自分自身を取り戻すべきなのである。

0217_06  山下和美著『天才柳沢教授の生活』(講談社漫画文庫)というマンガがある。主人公の柳沢教授は、かなり世間ずれした六十代の大学教員である。教授の朝は、五時起床からはじまる。大学までの通勤は、交通ルールに従った右側通行で、横断歩道以外で道を渡ることはない。道路を直角にカクカクと曲がるのである。

 教授の仕事の大半はすべて読書に費やされる。そして仕事以外の趣味も読書……他には……新聞の切り抜き。要するに、生活のすべては読むことに費やされる。読書が終われば、さっさと九時に就寝である。経済学を研究する柳沢教授の暮らしは、規則正しく、自由経済の法則にのっとった合理的生活なのである。

 ところで、ちょっと変わった柳沢教授であるが、不思議といろいろな人が訪れる。ある助教授は自慢する。「教授の授業は生徒さんも少ないから採点も楽でしょう。私の授業なんか私か書いた『HOW TO 財テク』がベストセラーになってるせいか、生徒があふれちゃいましてねえ」(第1巻より) まあ、厭味なのだが、柳沢教授は思う。「この助教授は一体何をしに来たのであろうか。本棚や壁や机や私に向かって自分の説明をしに来たのであろうか。単なる説明であれば答える必要もないであろう」(第1巻より) 教授には、厭味が厭味にならないのです。

 このようにわが道を往く柳沢教授であるが、意外と他人の生き方に大きな影響を与えている。むろん、本人はまったく目覚していないのだが・・・・。たとえば、娘むこの三雄さんが仕事の相談にやってくる。彼は出版社でマンガ雑誌の編集者をしているのだが、締め切りに追われ、漫画家に逃げられ、とても落ち込んでいる。彼は言う。 「僕はこんなハードカバーの本に囲まれて暮らしたかったんです。お義父さんのように暮らしたいんです。あんな漫画本なんかじゃなくて」(第2巻より)

 義父としてアドバイスしてあげたら、と思うが、教授には彼の悩みがわからない。三雄さんは続けてこう問いかける。 「お義父さんは、このままじゃいけないって……って思ったことありませんか? 人生が嫌になったことありませんか?」(第2巻より) 教授の答えは・・・・キッパリ「ない」である。そして九時になると、「私は寝ます」「続きは起きてから」……なのです。みなさんはひどい義父と思うかもしれない。しかし、逆に落ち込む三雄さんにどんなアドバイスができるだろうか?

0217_24  教授の奥さんが言う。「三雄さん、お父さんはねえ、大学教授になれたんじゃなくって、大学教授にしかなれなかったのよ。お父さんがフツーのサラリーマンなんて変でしょう。漫画家だっておかしいわ。お父さんはこれが自然なのよ」(第2巻より) 三雄さんは、まわりばかりを気にしていた自分に気づき、本来の自分を取り戻す。

 では、自然な自分とはなんだろう。たしかに、われわれは「自然」を忘れることが多い。他人に自慢をするのも、自信を喪失するのも、他人の価値観に依存する意味では同じことである。つまり、「不自然」なのである。要するに、単なる傲慢ではなく、柳沢教授のように自分は自分、他人は他人と思える自信が重要なのである。教授の仕事だけじゃない。どんな仕事でもそう思うべきだろう。なぜなら、われわれは誰もが自分の人生の主人公なのだから。

・・・

 うーん。

 「天才柳沢教授の生活」のなかで山下和美先生は私たちに「周囲の意見に惑わされずに自信をもって人生の主人公になれ」と教えてくれているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 山下和美作「天才柳沢教授の生活」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月15日 (木)

「クッキングパバ」は家庭に逃げ込むのではなく職場と家庭を共に充実させようと呼びかけている

仕事人間という言葉があります。仕事を優先して家庭を犠牲にしている、というニュアンスで言われることのある言葉です。一方で、マイホーム人間という言葉もあります。こちらの方は、仕事はイマイチで私生活のほうに重きを置きすぎている、という含みを持たせて使われることのある言葉なのです。

考えてみれば、仕事もダメ家庭もダメ、というのもあれば、仕事も家庭も充実している、というものもあるわけですね。もちろん仕事や家庭だけではありません。創作や趣味、勉強、奉仕、信仰、恋愛、友情、闘争、修行、などなど、人の生きる世界はたくさんあります。ですから職場と家庭という二つの場面だけで人の生き様を語るのは単純すぎます。

それでもこの二つの場面は多くの場合、やはり生きていくうえで最も重要であり、基本となるものでしょう。職場と家庭、この二つの場面で充実しているかどうかということを改めて考えてみませんか。職場を舞台にしたマンガは、たとえそれが創作であっても学ぶものがあります。私たちは職場に生まれる喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

0215_01  今日のマンガは、うえやまとち作「クッキングパバ」です。

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「クッキングパバ」は家庭に逃げ込むのではなく職場と家庭を共に充実させようと呼びかけている

  と題して進めます。

 梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、うえやまとち作「クッキングパバ」について次のように書いています。

・・・

 バブル崩壊、さらに失われた十年を過ぎて、なお出口の見えない経済状況が続いている。政府には、景気回復の有効的な政策が期待されている。構造改革による景気回復、いや、雇用創出のための思い切った経済政策と、白熱した議論が行われている。しかし……一方でこのような切実な議論がわれわれの本当の関心を引きこせないことも事実ではないだろうか?

 どのような政策が行われようと、戦後日本経済がこれまで経験してきたような高成長はあり得ないことに、われわれはウスウス気づきはじめている。日本社会に真に求められているのは、新たな成長ではなく、この先も続くであろう停滞に慣れるスキルかもしれない。長期勤続と給与の上昇が保証されなくなった会社ではなく、家庭に人生の目的を求める人も増えてきている。

0215_02  雑誌「週刊モーニング」で長期連載を続けている、うえやまとち著『クッキングパバ』(講談社)というマンガがある。いかにも九州男児といった風体の荒岩一味さんは、会社では厳しい上司と言われている。しかし、その実態は料理大好きのマイホームパパである。新聞記者という不規則かつ忙しい仕事を持つ妻の虹子さんや元気いっぱいの子供だちと一緒に暮らしている。彼は、料理はもちろんのこと、家事全般を、義務ではなく、ひとつの楽しみとして積極的にこなす。息子のまこと君も、お店で料理を食べても・・・・「とうちゃんが作るのと同じくらいうまいっ」(第1巻より)……なのだ(かあちゃんではない)。読者の中には、荒岩さんのスーパーパパぶりに感心し、幸せいっぱいの荒岩家にあこがれる人も多いのではないだろうか? この停滞の中、あくせく働くよりも、家庭でのんびり過ごしたいと願う人は多いと思う。

 しかし、現実に戻って少し考えれば、仕事を離れた家庭のみの充実は難しいと言えるだろう。なぜなら、荒岩家のような家庭をつくるには、会社での仕事のあり方も問題になってくるからだ。たとえば、残業はどの程度あるのか、出張は頻繁か、転勤の可能性はあるのかなど、考えはじめると、結局のところ家庭生活の充実は難しくなってくる。仕事と家庭の両立はなかなか難しいのだ。

 そんな問題を踏まえながらこのマンガを読み返すと、いろいろな発見がある。荒岩家は地方都市に住んでいるので、自宅も会社から五分のアパートである。それゆえ、荒岩さんは会社と自宅の間を頻繁に往復できるのだ。また、アットホームな会社に勤めているので、部下を自宅に招くことも多く、同僚とも家族付き合いをしている。なるほど! 自分の家庭を充実させるには、住居と職場を選び、同僚と密接な人間関係をつくる必要があるのだ。そして、何よりもよい夫婦関係が重要である。

 たとえば、荒岩さんが料理で妻の両親をもてなしている最中、酔っ払って仕事から帰ってきた虹子さんをお義父さんが怒る。それに対して、荒岩さんは次のように言う。「お義父さん、さっき「男子厨房に……」とおっしゃったでしょう。お義父さんの時代は、それが一番おたがいの力を出せたんですよ。今、我が家はそんな意味でこれが一番いい型なんです」(第2巻より)夫が働き、妻が家事をするという旧来の形も否定せず、それぞれの夫婦がお互いに協力できる形をつくるべきという荒岩さんの考えから学べることは多い。

 このマンガを読むと、職場が厳しいからやすらぎを求めて家庭へ逃げるという生き方ではダメで、職場と家庭を同時にデザインできる能力が重要だと理解できる。ただ、これが、なかなか思い通りにならない難事業なのだ。だけれども、職場と家庭を思いながら、地域や住居、もちろん食事にも配慮しつつ理想の生活を見つけることは、やりがいのある事業だと思う。こんな時代だからこそ、挑戦すべき価値ある事業だと私は思う。

0215_090 ・・・

 うーん。

あなたは仕事人間ですか? 仕事を優先して家庭を犠牲にしていますか? それともマイホーム人間ですか? 仕事はイマイチで私生活のほうに重きを置きすぎていませんか? 仕事も家庭も充実していますか? あるいは、創作や趣味、勉強、奉仕、信仰、恋愛、友情、闘争、修行に生きているのでしょうか?

職場と家庭とは、やはり生きていくうえで最も重要であり、基本となるものです。この二つの場面で充実しているかどうかということを改めて考えてみませんか? そのような目で読んでみると、「クッキングパバ」のなかで、うえやまとち先生は私たちに語りかけているように思います。「家庭に逃げ込むのではなく職場と家庭を共に充実させよう」と呼びかけているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 うえやまとち作「クッキングパバ」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月14日 (水)

「壁ぎわ税務官」は職場の身近な人のなかから自己実現のための教師を見つけよと教えている

東京漫画探偵団(まんたん)のお客様には社会人が多くいらっしゃいます。仕事の合間、あるいは余暇にご利用いただいています。なかには店内で仕事をする方もいれば、一休みするとか、食事をする方もいます。それらのお客様には職場を舞台にしたマンガはとても好評です。たとえそれが創作であってもその中に共感を覚えたり、学ぶものがあるからでしょう。職場や仕事の中に生まれる喜び、苦しみ、悲しみ、怒り、愛、憎しみ、誇り、後悔・・・などなど、さまざまな思いを作品の中から読みとり、投影し、追体験しているのでしょうか。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「壁ぎわ税務官」は職場の身近な人のなかから自己実現のための教師を見つけよと教えている

  と題して進めます。

0214_01  梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、佐藤智一作・コミックブレーン推進委員会脚本『壁ぎわ税務官』について次のように書いています。 

・・・

 不況下、業績が悪化しはじめると、真っ先に企業が削るのは教育費と言われる。たしかに今期の決算が危ういのに、十年、二十年後に効果が現れるであろう社員教育に貴重な予算を振り分けることはないだろう。このところ日本企業は教育費を減らし続けているのではないだろうか?でも、予算削減の負担を背負うのは、他ならぬ社員一人ひとりである。そんな状況を反映してか、最近は、個人の責任で教育を行うことが推奨されている。会壮丸抱えで教育されるのではなく、自らの市場価値を高めるために自分の裁量で教育する。

 ところが、教育のリスクや負担はかなり犬きいのである。あたりまえのことであるが、自分で学ぶことを選はなければならない。社員横並びの教育ではなく、自分の将来像を考え、必要な能力は何か、そしてそれを身につけるためにどのような教育を受けるべきか、自前で考えなければならない。実際のところ、仕事人生のなかの教育期間は短い。二十代、三十代を教育期間と考えると、四十代、五十代は、その教育の中身を活かす期間である。そのうえ、数十年の仕事生活を見越して教育しなければ、せっかく身につけた能力も水の泡である。変化する産業社会では、かつて求められた能力もアッという間に陳腐化する。横並び教育ならば、教育に成功した社員(稼げる社員)が余分に稼げばいいのだけれど……。

 われわれは、何を、どのように学べばよいのだろうか? 自分で決めろ、と言われても、この選択がなかなか難しいのだ。不安があるからか、とりあえず学校に通う人心増えている。結局、“教育の自己責任”とは、ていのよい経営側の責任転嫁なのかもしれない。

 佐藤智一作・コミックブレーン推進委員会脚本『壁ぎわ税務官』(小学館)というマンガがある。地方税務官という地味な仕事を取り上げたマンガである。主人公の石上正直(いしがみしょうじき)くんは、東大法学部出身。地方上級試験をトップで通過したエリート税務官である。といっても、彼は新米税務官なので、ベテランの初級公務員とコンビを組まされる。

0214_04  彼がコンビを組まされるのが、特別徴収官の鐘野成樹(かねのなるき)先輩だ。この先輩、取り立ての腕は一流だが、コンビを組んだ後輩が次々と辞めてしまう、鬼コーチ(サディスト?)でもあったのだ。なんと、サラ金業者までも、彼のことを、「この人にかかったら、なんもかんも差し押さえられちまうんだ……」(第1巻より)という始末。まじめな石上くんは、このとんでもない不良先輩から取り立ての裏技を教えられる(いじめられる?)。彼も、追い詰められてか、この先輩を「ひどいも何も鬼、悪魔……何人か人を殺してるかもしれない」(第1巻より)という始末。

 しかしーーー。マンガを読み進めると、そんなイジメの日々も石上くんにとっては、貴重な学習体験であったことがわかる。高校時代の憧れの先輩(女性)と偶然出会い、喫茶店で楽しいひとときを過ごす石上くん。が、偶然、彼は税金滞納者を見つける。すると、彼は、デート(?)を放り出して尾行をはじめるのだ。尾行の裏技はすでに学習済みである。石上くんは、憧れの先輩に「単に鐘野さんの教えてくれた技を試してるだけです」と言う。そして、「こういう時、鐘野さんだったらどうするかなあ・・・」(第4巻より)と考えているのだ。

 石上くんは気づいていなくても実は、鐘野さんは立派な教育者だった。もちろん、鐘野さんにもその自覚はないけれど・・・・・・。学校とは違うな~と思う。「教えるー学ぶ」という堅苦しい関係が決まっていなくて、いつの間にか、仕事をしながら学び、からだで覚えていく。教育の自己責任時代だからといっても、あたりまえだが学校だけが教育の場じゃない。まずは、職場で教師を探してみるのもよいやり方かもしれない。あなたは私の教師です、と本人に言う必要はなくて、勝手に教師にしてしまえばいい。お互いがお互いの教師となる、そんな仕事の関係をつくれれば、教育の自己責任時代も意外と楽しいかもしれないのだ。

・・・

0214_02  うーん。

 『壁ぎわ税務官』のなかで、佐藤智一先生やコミックブレーン推進委員会の先生方は私たちにハッキリ示しているように思います。

「与えられるのを待つな、自ら求めよ。

職場の身近な人のなかから自己実現のための教師を見つけよ」

と教えてくれてるんですね。

うん。

あなたはどのように思いますか?

読んでみたいと思いませんか?

佐藤智一作・コミックブレーン推進委員会脚本「壁ぎわ税務官」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年2月13日 (火)

「サラリーマン金太郎」はただ批判するのではなく、熱い言葉で組織を変える情熱をもつべきだと教えてくれる

 ビジネスシーンを描いているマンガの人気は予想以上に高いと思います。デフォルメされて描かれる場合もありますが、現実を鋭くえぐったものもあります。職場や仕事の本質を先取りするものに出会うと、思わずひざをたたいていしまうのではないでしょうか。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「サラリーマン金太郎」はただ批判するのではなく、熱い言葉で組織を変える情熱をもつべきだと教えてくれる

  と題して進めます。

0213_01_1  梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、本宮ひろ志作「サラリーマン金太郎」について次のように書いています。

・・・

 昔、あの植木等氏が“サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ”と歌った時代があった。ところが今の若者たちにとってサラリーマンの人気は低い。サラリーマン生活にはため息はあっても夢がないといったら言いすぎだろうか? 若者たちはサラリーマンや会社に対してマイナスイメージを持っている。給料のために雇われているんでしょ、会社ってつまらないところじゃん、というわけだ。たしかに、サラリーマンという言葉は仕事の中身を意味せず、単に雇用形態を示すに過ぎない。だから自由を志向する若者にとっては雇用のマイナス面だけが強調されてしまう。つまり、会社とは自分を拘束し、上から下へと命令が降ってくるところなのである。そんなマイナスイメ-ジを反映してか、会社やサラリーマンを自虐的に語ったり、批判したりする大人も増えてきた。

 しかし――ふん!――気に食わないな。

 若者がえらそうに言うのは、サラリーマンや会社を知らないから。そんな一方的なイメージだけでサラリーマンを自分勝手に批判しないでくれ、と私は言いたい。まあ、そんな彼ら彼女たちには、サラリーマンと会社をちゃんと説明してあげるべきなのだろう。よし、熱く語ってやろうじゃありませんか。

 わたしが?―――いやいや、代わりにちょっと型破りのサラリーマンをご紹介しよう。

 本宮ひろ志著『サラリーマン金太郎』(集英社文庫)というマンガがある。主人公の矢島金太郎さんは、大手建設会社(ヤマト建設)のサラリーマンである。有名大学卒がゴロゴロいるヤマト建設にあって、金太郎は工業高校中退。なぜ中退かといえば、暴走族だったから。それも関東全域を束ねたメンバー1万人のゾクのりーダー! 彼は暴走族を辞め、亡くなった女房の実家で漁師をやっていたが、海釣りで事故にあったヤマト建設の会長を肋けたのがきっかけで、ヤマト建設に就職することになったのだ。

0213_04_1  建設業の“現場”とは、つまり工事現場である。金太郎も、いわく付きのトンネルエ事を担当することになる。この現場では支払いをめぐって下請け業者とトラブルがあり、工期も遅れていた。とにかく荒っぽい作業員がまったくやる気を出さないのだ。 ――さあ、どうする? 金太郎の場合、はじめから下請け会社社長とドツキアイである。太卒のひ弱なインテリサラリーマンとは、度胸と腕っぷしが違うのだ。

 が、そうはいっても喧嘩に強いだけでは、リーダーにはなれない。事実、金太郎は元相撲取りの社長には敵わず、KOされてしまう。だが……喧嘩に負けたって、彼は全力でまっすぐに叫ぶ。

 「てめえの損得ばかり考えるこすからい野郎にダチは出来ねえぞ。どうせよおっ、今生きてんだろう! 生きてりゃあ心は動くんだよ!! こすっからい事やりながら、てめえでにがにがしく思って時間を過ごすなら、責任を果たし終えた後の気持ちよさを味わおうじゃねえか、みんなで一緒にだ」(第3巻より)

 この熱い言葉が徐々に現場を動かす。金太郎を冷やかしていた作業者も「妙にスジの通った事、言ってなかったか……」と思いはじめる。つまり、金太郎の本当の力は、腕力ではなく言葉なのである。 なぜ、金太郎の言葉にはこれほどまで説得力があるのだろうか? はっきり言えるのは、彼の言葉は会社に対する批判でも、批評でもないということ。 ダチ、みんな、一緒に……丁寧とはいえないが、彼の言葉は一貫して職場の仲間に向けられている。つまり、いまこの場所を変えようとする誘いの言葉なのである。

 金太郎は、新入社員の研修会で役員たちに対して役員会を見学させて欲しいと言う。

0213_03_1  「私は会社と……恋愛をしたい。好きになった時、男と女に秘密はタブーですよ。いやーっ、こじつけてしまいましたが……同じ会社の仲間じゃないですか、ケチケチしないで役員会ぐらい見せましょうよ。」(第2巻より) 

組織に埋没しているわれわれには、金太郎の言葉はキクなあ~。

 会社では、サラリーマン同士が競いながら、助け合いながら働いている。会社を知らないくせに、いつも批判的な態度をとってしまう人たちに言いたい。会社を変えるようなサラリーマンを想像してごらん、と。

 ―――どうだい? サラリーマンって意外と面白そうな稼業じゃないか。

・・・

 うーん。

 「サラリーマン金太郎」はただ批判するのではなく、熱い言葉で組織を変える情熱をもつべきだと教えてくれてるんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 本宮ひろ志作「サラリーマン金太郎」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月12日 (月)

「ナニワ金融道」は厳しく自己責任を問い、人はよいが自分に甘い人たちを本気で叱咤している

 職場を舞台にしたマンガは、たとえそれが創作であっても学ぶものがあります。私たちは職場に生まれる喜び、苦しみ、悲しみ、誇り、後悔などを作品の中から読み解き、追体験できるからです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「ナニワ金融道」は厳しく自己責任を問い、人はよいが自分に甘い人たちを本気で叱咤している

  と題して進めます。

0212_01  梅埼修先生は著書の「マンガに教わる仕事学」の中で、青木雄二作「ナニワ金融道」について次のように書いています。

・・・

 仕事の世界を語るうえで、まず忘れてはならないことは何であろうか? 私は、第一に考えるべきは“お金”だと思う。ただそう書いてしまうときっと腹を立てて反論される人心いると思う(もちろんそうだそうだと納得される人もいるだろうが)。

 たしかにお金だけがすべてじゃない。仕事のやりがい、職場の人間関係、技への誇り、など仕事の世界で大切なことは多い。ただ仕事はお金だけの問題じゃないのはもちろんだが、その一方でお金の問題を無視して仕事のやりがいや誇りを考えることはできない。お金は一番犬切なことではないが、第一に考えることではあるのだ。 お金が絡むと人は厳しい。言い換えれば“支払う立場”のひとは実にシビアである。だからこそこの最も厳しい他者が重要なのである。自分の仕事を他人がどう見ているかがわからなければ、せっかくの仕事も思い込みの自己満足になってしまう。自分の仕事にいくら払ってもらえるのか? あまり真剣に考えたくないけれど、でも、自己責任が問われる今の日本だからこそ、お金の問題を第一に考えなくちゃいけないのだろう。

 『ナニワ金融道』(講談社)というマンガがある。数年前に早世された青木雄二氏の大ヒ ットマンガである。人気マンガと聞いてページを開かれた方は、まずその絵が独特なことにビックリするだろう。読みにくいと思う人もいるかもしれない。しかし--。第1話から読み進むと、アッという間にその話に引き込まれてしまう。そのゴテゴテした絵も話の中身に合っていて味わい深くなるから不思議だ。

0212_04  で、その品とは? 主人公の灰原達之さんは、なんとその第1話目から勤めていた会社が倒産してしまう。困った彼は金融業社に就職する。そして、先輩であるベテラン営業マンの桑原さんから、マチ金のドギツイ世界を学んでいくのだ。

 たとえば--。初めての取り立て(追い込み)では、取引先会社社長(孫田孫作さん)から「3年も付き合うて、血も涙もないんか!!」(第1巻より)と泣きながら言われるし……。 また、浮気相手の連帯保証人になってしまった(だまされた)公務員の清水好美さんの取り立てでは、離婚危故の修羅場に立ち会うことになる……「待ってくれ、女房に言うのだけはカンベンしてくれ! どんなことでもするから!」(第2巻より)……本当にキツイです。

 灰原さんは、そんなマチ金の世界に戸惑いながらも、一方で「しかし、これほど本音で仕事する業種は他にないですねー」(第1巻より)と、お金を通して世間の裏の仕組みを学んでいく。  お金を通してはじめて学べる世界もあるのだ。そしてわれわれI人ひとりは独力で学び、“本当の賢さ”を身につけなければならないのだ。

 このマンガではズル賢い俗物たちが登場する一方で愚かな人のよい人たちが数多く登場する。そのリアルで滑稽な世界がこのマンガの魅力である。読者は思うだろう、アホやな~と。でも笑いながら思わずわが身を振り返るのである。

0212_02  作者の青木雄二さんは、世の中の裏の仕組みを理解しようとせず自分勝手な都合のよい判断をする人たちを叱咤した。人はよいが自分に甘い人たちを本気で怒る。そしてその裏の仕組み自体にも怒りをぶつける。でも、その本気の怒りは自分に甘いこのマンガの愛読者にとって少しも不快ではない。なぜならその裏にはつい怒ってしまう作者のやさしさも感じられるからだ。

 会社の言う成果主義や自己責任、政府の言う構造改革などなど、たしかに聞こえはええよ、でも、キャンペーンに乗せられて騙されたらあかん。一人ひとりしぶとく強くなろうや! というのがこのマンガの隠されたメッセージである。ぜひ皆さんに一読をお勧めする。

・・・

 うーん。

 「ナニワ金融道」のなかで青木雄二先生は私たちに厳しく自己責任を問い、人はよいが自分に甘い私たちを本気で叱咤しているんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 青木雄二作「ナニワ金融道」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月11日 (日)

「BANANA FISH」には性の対象ではなく魂が寄り添う少女マンガファンの願いがある

 少女漫画ファンには独特の思いがあります。普段口には出せないさまざまな思いです。

 今日は

  まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

  というカテゴリーのなかで

  「BANANA FISH」には性の対象ではなく魂が寄り添う少女マンガファンの願いがある

  と題して進めます。

 女優の渡辺えり子先生は著書の「名作コミックを読む」の中で、吉田秋生作「BANANA FISH」について次のように書いています。

・・・

0211_banana_fish01_1  私は『吉祥天女』の由似子のように、長い間男性恐怖症たった。

 男性そのものに対するあこがれは強いのに男性の性的な部分には強い嫌悪感を覚えるという複雑なもので、そのきっかけとなったのは、中学生の頃、下校途中の墓場で、変質者のマスターベーションを目撃するという災難に出会ったことが大きい。敵はあきらかに、私の婆を見かけてからこれ見よがしに始めたのだった。卒塔婆と卒塔婆の間の隙間から一物を出してピストン運動を繰り返している男を見た時、私は初め、それが何を意味するものか判らなかった。しかし、眉毛の薄い赤ら顔の中年の男が気味の悪い声をあげながらニヤリとこちらを向いた時、筆舌に尽くし難い嫌悪と恐怖を覚え、一目散に駆け出したのだった。

 その日の少し前の放課後、合唱クラブの部室で、先輩から、男女が子供を作るためにはセックスという行為が必要で、男性の精子と女性の卵予が結合して初めて子供は生まれるのだという話を聞いたばかりだった。それまでは男女が一つ屋根の下で仲良く暮らしていれば、自然に赤ちゃんが生まれるのだという母の話を鵜呑みにしていた私にはかなりのショックで、うちの両親もそんなグロテスクな行為をして私を産んだのかと想像するだけで、耐えがたい思いが込み上げたものだった。そしてその直後に、例の事件である。勃起した男根の不思議な生き物のようなそれと、赤ら顔の男の醜さとが一つのイメージとなり、セックスという行為そのものを嫌悪するようになったのである。

 小学校の頃から人より胸の大きかった私は、よく級友からもからかわれ、登校時に、自転車に乗っか大学生から乳房をつかまれたりした事もあって、自分の女性という性の部分に対しても罪を感じ嫌悪するようになっていた。しかも、高校に入学してしばらく経った頃、混んだバスの中でお尻に固い物を押しつけられて振り向くと、肩越しに息をハアハア言わせた中年の男の顔があり、なんとその顔は、まさにあの、眉毛の薄い赤ら顔の例の男だったのである。これらの事が重なって、私の男性恐怖症は、固く潜在意識の中に棲むようになってしまったのである。

0211_banana_fish05_1  性的な肉体の働きを忌み嫌い、精神的な愛の交流のみが真実だと考え、あこがれ、神聖化するようになった。そしてそのことが、少女まんがの世界に前にも増して傾倒して行く原因を作ったのだと思っている。萩尾望都、大島弓子、竹宮恵子、木原敏江、佐藤史生ら、胸毛やスネ毛のない、勃起する男根を持たない男達の、性を超えた愛の物語は、女性の性を超えて世界の真理を探りたいと願う私の意識に結合し、胸踊る快感をもたらしてくれたのだった。

 考えてみれば、手塚治虫の『エンゼルの丘』や『リボンの騎士』にあこがれた幼児期の頃から、世界を冒険するためには女性形のままでは不都合だった。女性という性にとって世の中はあまりに生きにくく、男と同じように自由に飛び回り、社会の芯の部分で生きようとするためには、男性の体を手に入れることが必要だった。そしてその意識を満たしてくれたのも、その当時の少女まんがのストーリーで、その展開の先に、前述した少女まんがの世界はあったのである。 男性社会の精神部分にはあこがれているのに、男性の性には恐怖と嫌悪を覚える。このアンバランスな感覚を補ってくれるのが、少女まんがの登場人物達の言葉と姿態であった。彼らはまさに私自身の化身であったのだ。性を超えた私が夢想する物語を彼らはそのまま動き生活してくれた。当時の少女まんが家達は、私の理想の神々を造り出したといっても過言ではない。同性愛的描写も、男性に化身した自分が男性に抱かれたり抱いたりすることで、女性性という弱者であり、犯される肉体を持ち欲情されるという現実の体を捨て、対等に純粋に愛し愛されるということの暗喩を感じ、あこがれていた気がする。

 それから私も二十歳を過ぎ、少女まんがとともに大人の歳に成長していた。精神世界に泳ぎながらも、どうしようもない現実の力に押しつぶされ、あがき、はいつくばり、芝居を造り続けていた。夢見る力を得るためには、夢見の作業が現実逃避となってはならないと考え始めた頃だった。現実から逃れるためではなく、きびしい現実を認識し自立するための夢想でなくては、生きて創造を続ける意味はないと考えていた。

 その時期に出会ったのが吉田秋生である。当時愛読していた「プチフラワー」で吉田氏のまんがを見つけた時、私は新鮮な驚きを覚えた。登場人物の目が細く、しかも白目がちで筋肉があるのだ。それまで流行りのソース顔ではなく、アジア系の醤油顔、映像畑での指向と重なるように、まさにキツネ目醤油顔の登場人物達が現実を語るのだった。

0211_banana_fish02_1  それまでの少女まんが家遠のタッチとあきらかに省略と誇張のバランスの置き方が違う作家が現われたと感じた。それは絵のタッチだけではなく、ストーリーの描き方も、テーマに向かう姿勢も遠う。どうしようもない現実の矛盾そのものも、その中で生きる私達人間の生活の一部であることを見据えたうえで、等身大の人間を描こうとしている。その普通の人々が、省略された小気味の良い話し言葉で会話する。

 演劇の世界でも、それより少し遅れて、古田氏の作風に似た作品が若君達の流行になってゆくが、それは時代そのものが、現実の町内を踏みしめ、飛ばない感覚を欲した結果だったように思う。しかし当時の演劇と古田氏が違うのは、吉田氏の描く女性が、強く優しく、良い意味での男性的性格で、女どうしの友情を普遍的なものに昇華してくれた点て、まさに性を超えた人きさがあった。

 その一方で、氏は、私のような万年中性少女の快楽、虚構のドラマでしか自由になれないようなフリークな部分を満たしてくれる大作『BANANA FISH』を書きあげてくれた。 アッシュ、この魅力的な人物は、私達女性でしか感じられないような傷を負って現われてくれる。まさに私の男性恐怖そのものを幼児の頃から抱えて生きながら、見事に男性的に活躍してくれる。ある意昧での両性具有の神々の一人である。しかも、絵空事ではない現実への問題提起もちやんと表現してくれる。観念の夢想ではないという証拠の「水戸黄門の印籠」のような題材を扱い、アメリカ映画を観るようなドラマチックな虚構のオブラートにも包んでくれている。だからこそ私達はすっかり安心して感情移入し、泣いて笑って震える事ができるのだ。女性性では現実にはできない事に、私達は身を重ね、共に体験する。私は「殺してくれ」というショーターを性を超えて撃つのである。

0211_banana_fish03_1  私は、あのゴルツィネを心底では憎めない。それはゴルツィネが、私達女性の夫であり、恋人であり、あの中学生の時に出会った中年の痴漢男であるような気がするからだ。男性という、女性にとっての敵であり、あこがれの対象でもある厄介な生き物に、本能が同情するためであろうか。そしてその性は、殺しても殺しても不死身な化物なのである。  アッシュと叶小夜子はある意昧での同一人物であろう。私達にとっての勇者である。セックスの対象としてではなく、魂の部分で寄りそうことのできる相手をアッシュが待ち望んだように、私もまた、損得や本能を超えた愛情を願い、生きてきたように思う。それは少女まんがの多くのファンの願いだったように思う。

 けれど現実は、アツシュが安堵し決意した瞬間に剌されて死んだように、生涯手に入れられない、手に入れたとしてもいつかは醒める夢なのであろう。微笑みながら死んでいるアツシュの死体は、私達の死体なのだ。私達はこの女性という体を引きずり、夫を持ち、子供を産み、近くのスーパーに夕飯のおかずを買いに行くのである。

0211_banana_fish04_1 ・・・

 うーん。

 女性マンガファンの思いとはこういうものだったんですね。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 吉田秋生作「BANANA FISH」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年2月 7日 (水)

松本大洋の「ピンポン」はめったに無いほど完成度の高いスポーツマンガである

 卓球は地味なスポーツと思われていますが、実はきわめて肉体的なスポーツです。その動きは早く鋭いうえに、速度も際立っています。そんな卓球を本格的に描いたマンガがあります。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

松本大洋の「ピンポン」はめったに無いほど完成度の高いスポーツマンガである

と題して進めます。

0207_01_1  コンスタントに読まれています。幅広い年代に支持されているようです。面白いマンガです。

 斎藤孝先生は「スポーツマンガの身体」の中で、松本大洋作「ピンポン」について次のように書いています。

・・・

 松本大洋は、その独特な画風と、ストイックかつ切れ味のいいセリフで、コアなファンを持っている漫画家だ。コアと言っても、少人数ではない。大量の人間が松本大洋ワールドにはまっている。私か大学の授業で、『ピンポン』は必読文献だと言ったら、授業後に何人もの生徒がうれしそうに、自分も松本大洋のファンだと寄ってきた。そして、『ピンポン』のセリフを暗唱してみせてくれたのだった。 松本大洋には、野球に題材を採った『花男』がある。しかしこれは、スポーツマンガというよりは、父と子の心の通い合いが主たるテーマだ。また身体の躍動感が見事に描写されているという点では、『鉄コン筋クリート』は刺激的なマンガだ。これはフランスでも高く評価され、翻訳された。タイプの違う男二人が絡み合い、成長していくモチーフは、今挙げた三作品には共通のものだ。

0207_03_1   友情や成長といっても、少年ジャンプ的な「友情・努力・勝利の三原則」のようにクリアな展開ではない。キャラクターは皆、心のどこかに秘めたものがあるが、それをはっきりとは言葉に出さずに過ごしている。いろいろなことを心の奥では考えていても、べらべらとしやべったりはしない。発せられる言葉は、ストイックに切りつめられている。凝縮されている分だけ、インパクトがあり、何度も読み返したくなる。

 『ピンポン』は、主人公のペコとスマイルはもちろん、それ以外のどの登場人物たちにも、多様な設定と細やかな人物描写がされており、味わい深い。一人ひとりのキャラクターの設定や描き方が丁寧であるため、存在感がそれぞれにある。ペコやスマイルの幼なじみのアクマ(佐久間)や風間、小泉先生やオババといったコーチ陣なども魅力的だ。画のレベルといい、ストーリー展開のおもしろさといい、これほど完成度の高いスポーツマンガは滅多にあるものではない。他の漫画家にはまねのできない、独自の松本人洋ワールドだ。

 『ピンポン』の功績は、卓球という地味に見られがちなスポーツを、本格的に描いた点にもある。私も小さい頃から卓球に馴染んでいたので、卓球のおもしろさはある程度知っている。高速で球が行ったり来たりするテンポのよさは快感だ。

0207_02_2 反射速度が重要で、いちいち考えてから打っていたのでは間に合わない。頭が考えるより先に足や手が動くようになると気分がいい。反射的な運動が多いだけに、基本の反復練習が実に効果を上げる。型が身についてくることで、軌道が安定し、ミスが少なくなる。そうした基本が身についているほど、瞬時の変化にもよく対応できる。基本の反復練習が練習メニューとして整備されている点では、卓球は実に優れている。これはバスケットにも共通する点ではあるが、バスケットよりもさらに動きが鋭く、速度もきわだっているのだ。

 しかし実際に卓球をやったイメージと、世間的なイメージはずれている。肉体派のスポーツではないように見られがちだ。それを『ピンポン』は吹き飛ばした。卓球にまつわるいろいろとネガティブなイメージを一変させたのだ。鮮烈なイメージをかきたてる画面が、スポーツとしての卓球の魅力をあますところなく表現していた。だからこそ映画化もされたのであろう。マンガのワンシーンを、実写の映画がなぞるというのは極めて珍しい。松本大洋の描くイメージを映画監督が尊重したのだろう。その判断が賢明だったことは、映画がヒットしたことでもわかる。

0207_04_1  松本大洋には他にも『ZERO』という美しいボクシングマンガがある。このマンガは、ボクサーのストイックな身体をいわば彫像のように描いている。一瞬一瞬の時間が静止し、凝固するような、聖なる空気が漂う。このボクシングマンガは、いわゆる成長物語とは違う、強さゆえの悲劇と美学を描いたものだ。この『ZERO』という作品によって、松本大洋はまた新たなスポーツマンガの世界を開いたと言えよう。

 そして『ピンポン』を読み返すと、卓球という一見地味に見えるスポーツの持つ、本来の激しさや心理の揺れ動きのおもしろさが、実に松本大洋のスタイルに合ったスポーツだったことに改めて気づく。

 日本はかつて世界的な卓球王国の一つであった。世界チャンピオンを何人も生み出してきた。その裏には、しっかりとした練習メニューの蓄積がある。幼いころから町の卓球道場で鍛えていたペコがいい例だ。中国ほどではないかもしれないが、日本には日本の卓球英才教育がある。基本をきちんと繰り返す練習方法が、日本人にフィットしていたのだろう。体力や体格の差が絶対的な影響を及ぼさない点も、日本人向きだといえる。

 だがたとえば、「少年ジャンプ」連載の『テニスの王子様』のおかけで、テニス部員が新たに急増したらしいという話は聞くが、『ピンポン』のおかげで卓球部員が圧倒的に増えたといううわさは、あまり聞かない。このあたりはテニスと卓球の、華やかさの違いかもしれないが、松本大洋の描く世界が、どこかストイックな香りを漂わせていることにも一因があるだろう。

・・・

 うーん。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 松本大洋作の

     ●「ピンポン」

     ●「花男」

     ●「テツコン筋クリート」

     ●「ZERO」

は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月28日 (日)

「ねじ式」の中で、つげ義春は多くのものを活写し、予見していた

深く考えさせられるマンガがあります。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「ねじ式」の中で、つげ義春は多くのものを活写し、予見していた

と題して進めます。

 わりと読まれています。若い人も年配の方も読んでいます。マンガにうるさい人に人気があるのかもしれません。そんな漫画だと思います。

0121_04  つげ義春作。少年とも青年ともつかない男性主人公が、たまたま海辺に泳ぎに来てメメクラゲに左腕を噛まれる。血が流れる腕を押さえながら医者を求めて隣町までを彷徨う・・・・・・。つげ日く、ラーメン屋の屋根で見た夢をもとにした話。青林堂「月刊漫画ガ口」1968年9月増刊号「つげ義春特集」に発表。筑摩書房つげ義春全集、小学館文庫「ねじ式」などに所収。青林工藝舎「つげ義春作品集」には初出形で収録。石井輝男監督により97年に映画化された。

 つげ義春は1955年、若木書房の単行本「白面夜叉」でデビュー。単行本や月刊誌、58年からは貸本マンガ誌でも活躍。「ガロ」には658月号の「噂の武士」で初登場、同年に「西瓜酒」「運命」、翌年に6作、67年には「李さん一家」「海辺の叙景」「紅い花」など7作発表。 68年は「長ハの宿」など温泉・紀行ものを発表して新展開を見せ、さらなる注目を集めていたところに発表されたのが、この「ねじ式」たった。以降、70年まで、つげと「ガロ」の蜜月が続く。

 曽野綾子先生は「マンガ名作講義」の中で、つげ義春作「ねじ式」について次のように書いています。

・・・

「ねじ式」が生まれた一九六八年と言えば、東大闘争、日天闘争の吹き荒れた年であった。ハ月にはソ連軍のプラハ侵入、十月には新宿騒乱、十二月には三億円強盗が発生した。

 暗い年であった。しかし日本人にはこの薄っぺらい暗さが、戦争の記憶から抜け出すためには、必要だったのだろう。

 「ねじ式」の主人公はたまたま泳ぎに来た海岸でメメクラゲに剌される。彼の血管は破れ、血はとめどなく流れ出す。

 戦争中から戦後にかけて、多くの人びとが住処(すみか)を失ったと感じていた。引き揚げ者、帰還兵たち、戦災孤児、焼け出された都市生活者たち。彼らは生き延びたが、皆「異境」に住んでいた。

 主人公の腕からは、血が流れ出して死にそうだというのに、この見知らぬ村の村人たちは、少しもよそ者の命の危機に動じない。同じ日本人なのに全く会話が通じない、という感じである。彼らは主人公の「この近所に医者はありませんか」という問いに、「するとお前さまはイシャを捜しているのだね」と繰り返すだけで必要な情報は何一つ与えない。この卑怯さと鈍感さは、すべて異境に住んだことのある

者の悪夢である。

       ◇   ◇   ◇

0121_01  戦後、日本人は多くの無責任な夢を抱いた。過去の狭量な考え方から解き放たれ、自由な生活方法を選ぶことを許されると夢想したのであった。しかしそれはどれも、悪夢に過ぎなかった。だから主人公がやっとの思いで、医者(救い)を求めて乗り込んだ汽車は頬かむりをしたキツネ面の子供が運転しており、それは主人公が逃げて来た村に向かって走ることになるのである。

 ここでも人間は、運命と、時の流れと、閉じ込められた空間から逃げられない。苛立つ主人公に、キツネ面の運転手は一つの悲痛な真理を教えてくれる。眼を閉じていれば、汽車は、主人公の望む方向に走っていると思えるじゃないか、と言うのである。そこで主人公は覚る。

 「そうだった。僕は淡々としなければいけないのだ・・・・・・」

 これは市民と学生の権利が幼稚に騒々しく叫ばれたシュプレヒコールの最中で、すがすがしいまでの悟りと気品であった。

 しかし着いた村には、外科医はいなかった。目医者ばかり、一つ目の看板ばかりが連なっている。ものごとを複眼の思想で見ることもできない、頭脳や思想と何の連携もない、物欲し気な覗(のぞ)き専用の一つ目玉の人間が犇(ひしめ)き合っている。彼はそこで金太郎飴を作る老女に会う。それが主人公が生まれる以前のおっ母さん」だということがわかる。老女は、その経緯は飴の製法と関係があるが、わけは教えられないと泣く。

 金太郎飴は、どこで折っても、同じ顔をして「ごきげんよう」「達者でなあ」と言う。これも戦後の日本人のしたり顔の一つであった。私たちが、どの新聞でも、人民を圧迫していた中国を褒め称(たた)える記事しか読めなかったのと同じである。

 しかし主人公は、やっと金太郎飴で儲けた老女の建てた金太郎ビルに往む産婦人科の女医者を見つける。シリツをしてください」と言う彼に、女医は「では、お医者さんごっこをしてあげます」と言う。その療法は○×式で決めたものであった。

       ◇   ◇   ◇

 すべてがごっこの時代だった。大学紛争では警官だけが命をかけ、学生側は安全圏内で闘争ごっこをして、「時代を闘った」などと思ったのである。

 主人公はそれ以来ネジで止めた腕で生きる。きつく閉めるとしびれるのはそのせいである。

 つげ義春氏は、実に多くのものを活写し、予見していた。生臭い言い方をすれば、日米関係も、憲法解釈も、民主主義も、大学紛争も、社会主義も、個人の自由も、日本人の哲学と勇気のなさも、病んだ心も、すべてこの作品の中ですくい取っていた。私が優れた短編小説と同様に漫画に深い尊敬を抱いたのは、つげ氏のこの作品と、水木しげる氏の諸作品を通してであった。

・・・

 うーん。

 あなたはどのように思いますか?

 読んでみたいと思いませんか?

 つげ義春作「ねじ式」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月10日 (水)

「形式結婚」は明るい性の悩み相談室である

0101_37 お正月も はや10日となりました。

寒さも厳しくなりましたので健康にはどうぞお気をつけください。

相変わらず、やっぱりマンガの話です。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「形式結婚」は明るい性の悩み相談室である

と題して進めます。

0110_01  ひそかに読まれています。若い人も年配の方も読んでいます。けっこう人気があります。私も好きです。今読んでも面白いと思います。いつかまた読むかもしれません。そんな漫画だと思います。

 柳沢きみお作。「漫画アクション」連載。全25巻。柳沢きみおには講談社漫画賞受賞「翔んだカップル」やテレビ化されて人気のある「特命係長只野仁」などの代表作がある。一時期は同時に10誌近くに連載をするほどの人気作家。「形式結婚」はストーリー構成がよく、アダルト色もあり、作者本人の社会観や人生論が滲み出ている箇所も多い。

 村上知彦先生は「まんが解体新書」の中で柳沢きみお作「形式結婚」について次のように書いています。

・・・

 「漫画アクション」に連載中の、柳沢きみお「形式結婚」を楽しみにしている、などということはあまり人前では言えないと「週刊朝日」に書いていたのは高橋源一郎だった。近頃マンガが面白くない、惰性で読んでしまうと嘆いた上での、情けなさそうな告白だった。

 しかし、確かに大きな声では言えないが、ぼくも、「形式結婚」は面白いと思ってしまう一人である。単行本でそろえようとまでは思わないが、雑誌を開くといつも三番目ぐらいに読んでしまう。なんというか、楽しみが後を引くのである。ぐいぐい引っ張っていくたぐいの面白さではないのだが、惰性というのともちょっと違う。空しいと思いながらも、こらえきれずについ手が伸びる。いわば受験生のオナニーみたいなもんである。糸を引くような粘着質の楽しみ、とでもいおうか。

0110_02  品のないたとえになってしまったのは、この作品がそういう世界を描いているからである。「形式結婚」は異性恐怖症、不感症、インポテンツ、短小など、性の悩みを抱える現代の様々な男女が繰り広げる、おかしくも悲しい妄想と欲望と挫折と試行錯誤の日々を描いたセックスコメディである。

 最初はタイトルどおり、互いに異性に性的関心を抱けない男女が、偽装結婚によって周囲の目をごまかすというシチュエーションの中で起こる悲喜劇としてスタートした。だが、登場人物たちの苦悩と、その克服にかける真剣かつ滑稽な努力を描くうち、やがて作品は性に関する誤った固定観念を退け、自由な快感にめざめるための技能書の様相を呈してくる。要するに、明るい悩み相談室と化して、テクニック講座としてのセックスシーンが延々繰り広げられるのだ。

 登場人物はみな、一見「性の悩み」とは無縁に思える美男美女ばかりである。それだけにかえって、その内面に抱えられたばかばかしくも切実なこだわりと、その表れの果てしないエスカレートぶりが、妙にいとおしく思えてしまう。

 性に関する情報が氾濫するなかで、おそらくこういった悩みやコンプレックスはかえって増幅され、日々再生産されているのだろう。そしてそれは、あふれる性情報を抑圧することによってはたぶん解消しない。なぜなら、そのような抑圧こそが、人の心の奥底にひそみ、悩みや妄想の棲み家となるものだからだと、この作品は語っているようだ。

・・・

 うーん。

 あなたも明るい性の悩み相談室をたずねてみますか?

 読み返したいですか?

 柳沢きみお作「形式結婚」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 6日 (土)

「NARUTO」は戦後マンガの重箱であり、「懐かしのアイテム」博覧会である?

0101_35 お正月も六日です。

今日からまた3連休の方も多いことでしょう。

もう本格的に仕事に大車輪の方もいらっしゃるでしょう。

どちらさまにも、やっぱりマンガの話です。

今日は

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「NARUTO」は戦後マンガの重箱であり、「懐かしのアイテム」博覧会である?

と題して進めます。0106_naruto01

 すごい人気のマンガです。たくさんのお客様に読まれています。テレビでも劇場でもアニメ化されています。ラジオ放送もされています。テレビゲームは10作品以上あり、カードゲームも販売されています。ミュージカルとイルージョンを融合した“忍者イリュージョン”として戯曲化されて、プリンセス天功演出により、昨年舞台化されました。小説にだってなっています。

 岸本斉史作。1999年から「週刊少年ジャンプ」に連載されている少年マンガ作品。忍者の頭目を目指す少年を中心に描く忍者アクションコミック。連載は1999年から7年も続き現在も連載中でコミックスは2006年末で36巻を数える。漫画の中身は忍者同士の戦いが中心で現実の忍者の枠にとらわれない派手な戦いを繰り広げる。アニメ化され、世界でも強い人気を博している。この作品の舞台となるのは中近世の日本をベースに、現実世界における現代文化をミックスした架空の世界である。忍者の位置付けと共に既存の忍者漫画とは一線を画す独特の世界観を構成している。

 夏目房之介先生は「マンガは今どうなっておるのか?」の中で、「NARUTO」について次のように書いています。

・・・

 仕事のからみで岸本斉史「NARUTO-ナルト-」をまとめ読みした。ジャンプ的な少年マンガとして面白いし、よくできている。「面白さ」にはいろんな要素があるけれど、何よりも「この人はほんとにマンガが好きなんだなぁ」というのが熱として伝わってくる。マンガ好きは無条件でほほえんでしまうようなところがあるのだ。何となく「がんばれよ」と応援したくなるんだね。

0106_naruto02  ぼくの世代が読むと「NARUTO」に登場するさまざまな術には、戦前の立川文庫につながるだろう牧歌的な子供マンガの「忍術」(ドロンとガマに化けたりする奴ね)と白土三平が広めた種明かしのリクツがある「忍法」、同じく忍者の階級性(上忍・中忍・下忍)と経済的背景という観点が重なっているように見える。

 また大友克洋・鳥山明の影響下にあった作者の世代の絵の変遷も見える。1974(昭和49)年生まれの岸本が6~18歳、小学校から高校にいたる時期は、少年ジャンプの全盛期であり青年マンガ誌の急速な発展期だった。そんな歴史的要素のむすびつきを読み解いてゆくと、まるで戦後マンガ史の遺産を発掘でもするかのような楽しさがある。

 それらの要素は、ロールプレイングゲームやアニメを基礎教養とする世代の作者らしく、設定と戦闘の文脈の中に並列配置される。マニア的な愛情が感じられるその手つきは、同時にそれ自体がジャンプ的少年マンガの娯楽の王道を作るマーケティング的なキャラクター設定や、「友情・努力・勝利」の公式に同調していく。

 そういう読み方をすれば「NARUTO」は、忍者マンガというジャンルを通した戦後マンガ(及び子供娯楽文化)の重箱みたいだ。

0106_naruto03  面白いと思ったのは「NARUTO」が、「Dr.スランプ」~「DRAGONBALL」初期の「楽園」的なコミュニティ感覚から出発してるという印象だった。私見では、この感覚は80年前後の学園物やラブコメやファンタジー系マンガが共有した時代感覚だった。

 町が一つの国で、忍者を輸出産業化し、それがパワーバランスになって・・・という構造は、うがっていえば白土三平の職業階層共同体としての忍者と、その発展形としても読める士郎正宗の社会観導入のスタイルの援用かもしれない。

 ナルトの孤独な生い立ちが語られ、九尾の狐が登場すると「あ、藤田和日郎<うしおととら>だ」と思う。

 背中に背負うデカい十字手裏剣はもちろん白戸の「風車手裏剣」を思い出す。「千本」という金串みたいな武器も白土忍法に登場する。もちろん「影分身」「変わり身」という忍法の名もそうだ。

0106_naruto05  が、次第に登場するトリッキーな忍法は、ほとんどファンタジー系の魔法で、一族の「血」に関わるものだったりして、これらが横山光輝から「少年ジャンプ」へと発展したトーナメント方式の対決でぶつかり合う。忍法を可能にするエネルギー単位として出てくる「チャクラ」は「DRAGONBALL」が後半で採用した「スカウター」につながるゲーム感覚の戦闘力単位だろう。

 こういう要素を指摘していくときりがないのでやめるが、要するに昔からマンガを読み、あるいはゲームに親しんだ人たちには、まるでオモチャ箱をひっくり返したような「懐かしのアイテム」博覧会のように読めるのだと思う。

・・・

うーん。

あなたも「懐かしのアイテム」博覧会を味わいなおしてみますか?

読み返したいですか?

 岸本斉史作「NARUTO」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年1月 5日 (金)

「ぼくんち」は崩壊はしていても、それでもなお「家族」であることを描いている

0101_41  お正月も五日です。

仕事始めの方も多いことでしょう。

さあ、今年も一年がんばりましょう。

やっぱりマンガの話です。

まんが①死ぬほど面白いマンガを「まんたん」でみつけました

というカテゴリーのなかで

「ぼくんち」は崩壊はしていても、それでもなお「家族」であることを描いている

と題して進めます。

0105_01_1 ビッグコミックスピリッツで連載され第43回文藝春秋漫画賞を受賞した西原理恵子のベストセラーコミック。うらぶれた港町、どん詰まりのビンボー、とことんツキに見放されたような“水平島”でたくましく生きる一太と二太の兄弟と、ふたりを包む強く優しい姉かの子、そして奔放な女だがどこか憎めない母今日子の一家が繰り広げる、一風変わったホームドラマ。

一太と二太の兄弟は、うらぶれた水平島の中でも貧乏人がふきだまる、うらの港に住んでいる。かあちゃんは家出中。とうちゃんは元からいない。ある日、家出していたかあちゃんが、新しい姉ちゃん、かの子を連れて帰ってきた! かあちゃんはまたすぐいなくなったけど、その日から一太と二太そしてかの子の、ささやかだけど新しい暮らしが始まった。

一太と二太の兄弟は、うらぶれた水平島の中でも貧乏人がふきだまる、うらの港に住んでいる。かあちゃんは家出中。とうちゃんは元からいない。ある日、家出していたかあちゃんが、新しい姉ちゃん、かの子を連れて帰ってきた! かあちゃんはまたすぐいなくなったけど、その日から一太と二太そしてかの子の、ささやかだけど新しい暮らしが始まった。

文藝春秋漫画賞を受賞した西原理恵子の原作は、現在までに25万部を売り上げているというベストセラーコミックである。あっけらかんとした笑いの中に底知れぬ深みを内包し、いつの間にかその毒気がクセになってしまうところが、男女を問わず幅広いファンを獲得している所以である。

フツーのシアワセを求める、一見フツーでない家族・・・ちっとも家に居着かない男運の悪い母親、3人とも父親の違う姉弟、水平島の奇妙な隣人たち。シビアな現実の中で世間を生き抜いていこうとする姉弟の姿を、ドライなほのぼの感を活かしながら、ペーソスたっぷりに描いている。その無邪気な一所懸命さはユーモラスで、どこか切ない。

・・・

0105_02_1  呉智英先生は「マンガ狂につける薬」の中で「ぼくんち」について次のように書いています。

 高校中退、無頼、絵が下手、文章が投げやり・・・・。これを売り物にしているのが西原理恵子である。もっとも、このうち本当なのは高校中退だけで、後はシャイゆえの演技だろう。「ぼくんち」は文字通り、「ぼく」の家族を描いた不思議な味のあるギャグマンガである。

 「ぼく」は二太、兄が一太。どこかの田舎町に住んでいる。かあちゃんは三年ぶりに帰ってきた。初めて会うねえちゃんを連れて。一太と二太とは、とうちゃんが違う。ねえちゃんもそうらしい。初めて会ったので、ねえちゃんに職業を聞くと、ピンサロ嬢だという。そして、ピンサロ嬢がどういう仕事なのか、子供にもわかるように明るく教えてくれた。数日後、かあちゃんはまた家を出て行った。

 ぼくんちの近所は異常なところである。シャブ中毒、かっぱらい、売春婦、ヤクザなんていう人ばかりが住んでいる。二太は泣き虫で、淋しがりで、ひ弱である。しかし,誰も同情はしてくれない。誰もが必死に生きていかなければならないからだ。

 隣町に、こういち君という札付きの不良がいる。どうやら黒人米兵が父親らしい。こういち君はトルエンの密売や、もっとヤバイこともやっている。しかし、自分の中に基準があって、やる仕事とやらない仕事ははっきりと区別している。監禁されているフィリピーナの見張りのような仕事はしない。やさしいのだ・・・・と思って甘えると怖い。彼は甘えたもたれあいは大嫌いなのだ。

 常識から見れば崩壊してしまった家族、崩壊してしまった地域社会である。しかし、「ぼく」にはこれも家族であり、地域社会である。福祉も人権もUNESCOも関係なく、二太の家族と友人はこれでも家族であり友人である。連載の毎回二ページの短さの中に笑いと感動を描いた力量は驚異であった。単行本は可愛く仕上がり、それがかえって迫力となっている。

0105_03_1  私はフェミニズムが嫌いである。本当は、フェミニストたちが自覚していないいくつかの点においてフェミニズムを高く評価しているのだが、彼ら彼女らは、自分たちが描いている以外のフェミニズム像があると気づきさえしない。その鈍感な単細胞ぶりが嫌いなのである。子供の権利だの自己決定権だのを声高に称え、家族の抑圧だの夫婦間性暴力だのを得意げに告発している連中も、まったく同じ意味合いで私は嫌いである。よーっく考えてみるがいい。すべての愛情は精神的な暴力であり、時には肉体的にも暴力である。また、すべての人間関係は精神的な抑圧であり、時には肉体的な抑圧である。そうでありながらなお、人間は愛情を持ったり持たれたりし、人間関係を作ろうとするのだ。

 大哲学者ヘーゲルはこう言っている。家族は精神的な一体感すなわち愛を規範としている。愛は理解力を超えた矛盾である、と。

 ヘーゲルなどという難しいものを考える必要はない。小説にだってマンガにだって、愛という矛盾だらけの感情は描かれている。子供の権利を主張してもいないし、夫婦間性暴力に警鐘を鳴らしてもいないけれど、単細胞のフェミニズム御一統様より人間がわかっているマンガである。

・・・

うーん。

あなたも家族という不条理を味わいなおしてみますか?

読み返したいですか?

  西原理恵子作「ぼくんち」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月21日 (木)

「ゴルゴ13」のダンディズムは限りなく美しい

20061221_143 たくさんの人が読んでいます。若い人も読んでいます。今も人気があります。私も好きです。昔読みました。買い揃えました。繰り返し読みました。今読んでも感動します。将来も読んでいると思います。そんな漫画だと思います。

 さいとうたかお作。「ゴルゴ13」のコードネームをもつ超A級スナイパーの物語。彼はデューク・東郷の名を使うが本名は不明。大戦中に子供時代を送り、日本人の血を引いているらしい。小学館「ビッグコミック」1968~連載中。原稿枚数では日本一。単行本巻数では秋元治「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に先を越されたが、それでもりイド社SPコミックスで既刊143巻、20061221_142 文庫版も刊行中。

 つかこうへい先生は「マンガ名作講義」の中で「ゴルゴ13」について次のように書いています。

 もう連載が始まって長く、単行本で143巻にのぼるこの作品は、何よりも主人公ゴルゴ13の絶対的なヒーロー性とそのダンディズムにおいて追随するものがないため、これだけの年月読者の共感を得続けている。

 20061221_141彼がどのような困難に向かおうとも、あるいはどれほど優しい女に出会おうとも、決して恐怖や情に揺らぐことなく、依頼された仕事を必ず果たし、標的を殺す。だれにも何にも属さず、彼は彼自身のルールにひたすら従い、仕事をこなし、決してしくじることはない。その姿はまさにダンディズムを体現している。

 劇画というジャンルはダンディズムを語るには最適だ。それは、たとえばクローズアップの手法によるところが大きい。ここという場面でクローズアップされたゴルゴ13の、冷たい表情を見るたびに思う。それは、舞台で役者の顔をスポットで抜くよりも、あるいは小説でことこまやかに描写するよりも、はるかに効果的で、うらやましいと思うこともあるくらいだ。

20061221_120 ダンディズムを語ろうとする時、思い出すことが三つある。ひとつは、日本の野球審判の二出川という人のことだ。優れた審判として有名だった彼が、ある試合で副審たちとアウトかセーフかでもめてしまったことがあった。副審たちは「ルールブックを読んでいないのか」と詰め寄ったが、彼は冷静に「オレがルールブックだ」と言い放ったという。主審という立場を生きようとする強固な意志を感じざるを得ない。

 二つ目はロールスロイス社の話だ。

20061221_117 ある男がロールスロイスを駆って砂漠を走っていたところ、砂漠の真ん中でシャフトが折れてしまった。オフロード向きでない同社の車では仕方ないことだろう。その男が、電話で修理を要請したところ、その日のうちに修理工がやってきて、直してくれた。その対応の早さに感激し、「修理代は?」と尋ねたところ、「ロールスロイスのシャフトは折れません」と、代金を取らずに去ったという。彼らの、自社製の車に対する誇りが、たとえ砂漠向きの車であろうとなかろうと関係ないという姿勢に表れて、見事だといえる。

20061221_116 そして三つ目がゴルゴ13である。

 彼のルールは様々にあり、「手を預けることになる握手はしない」とか、「オレの後ろに立つな」といったものは有名だ。しかし、彼のダンディズムを最も表しているのは「人をころすときは人を殺すのではなく、ひとつの作業を終えると考える」ということばだ。そうすれば、何の恐れもなく、また気持ちが揺らぐこともなく引きがねを引くことができる。一流のスナイパーとして何百人もの人間を殺し、なおかつまゆ一つ動かさずにいられる彼の、やせがまんをしないダンディズムが端的に表された一言だと思う。それは、限りなく、美しいまでの姿だといえる。

 日本のダンディズムを支える作品として、これからも続いていくだろう。

20061221_140

 うーん。

 あなたもダンディズムを味わいなおしてみますか?

 読み返したいですか?

 さいとうたかお作「ゴルゴ13」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月20日 (水)

「あしたのジョー」を読んで「男のロマン」に憧れるのはむしろ女性かも

20061220_  東京漫画探偵団には「格闘技まんが」コーナーがあります。柔道、空手、プロレス、ボクシングその他格闘技のマンガがいっぱいです。男性のみならず女性のお客様にも結構人気のあるコーナーです。マンガだけではなくて本物のボクシンググローブやサンドバッグのミニチュア、かつてのプロレスラー「ムタ」・「獣神サンダーライガー」のフィギュアなども置いてあり、皆さん面白がってくださいます。なぜって?何を隠そう、何年か前に閉店したプロレス&ボクシングショップ「リングサイド」は東京漫画探偵団の姉妹店だったからなのです。なつかしーっ。

 その「格闘技まんが」コーナーのなかでも、幅広い年代によく読まれているマンガに、高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」があります。

20061220_5  東京のドヤ街にふらりとやってきた矢吹丈は、丹下段平に見込まれてボクシングを始める。少年院で知り合った力石徹やカーロス・リベラといったライバルと死闘を重ね、ついに世界チャンピオンホセ・メンドーサと対決する。講談社「週刊少年マガジン」1968~73年連載。「巨人の星」連載中の梶原一騎が高森名で執筆。講談社文庫全12巻ほか。集英社全集16巻では手書きの「完」の文字がない。近年、再録連載誌「ジョー&飛雄馬」も好評を博した。

 北川悦吏子先生は「マンガ名作講義」の中で高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」について次のように書いています。

 中学生の頃、私の理想の男性は矢吹丈だった。そして、私の憎むべきキャラクターは白木葉子だった。どうしても、乾物屋の紀ちゃんに肩入れしてしまうあたり、自分は生まれながらにして庶民なのだろうと思う。さて、今回この欄を書くになって改めて「あしたのジョー」全16巻(長い!)を読み返した。 

 最初のほうを読んでいると、うん、まあねえ・・・・ジョーが理想だったのは、私がまだ若かったからよねえ、なんつったって思春期、右も左もわからない田舎の中学生だったんだもんねえ、ジョーなんか今読み返したら青い青い、とたかをくくっていたが、どんどんカッコよくなっていくのである。回を追うごとにジョーの顔が変わっていく。

20061220_12  私は昔と同じようにジョーにのめり込んでいく。

 そして全16巻を食い入るように読んでしまったのである。

 ああ、葉子が自分から「好き」なんて告白するシーンがあるじゃない!(このシーンはすごくいいです) 葉子も結構いいやつだ! かっこいいぞ。西と結婚しちゃった紀ちゃんより、いいかもしれない、とか昔思わなかった、いろんなことを思った。.

 そして、やっぱりいまだにジョーは自分の理想の男の人なんだと思う。

 野生で闘争心に燃えていて、へへッおっちゃんよお、と笑って、絶対に人の顔を見て「ありがとう」と言わない。

20061220_5_1 ジョーが「ありがとう」という言葉を言うときは、いつもその人の方を見ていない。

 そういうところが好きだ。いったんリングに上がると熱いけど、人といる時はシャイでストイックでクール。

   私は「あしたのジョー」を読んでいると、いつも葉子よりも紀子よりも、おっちゃんよりも、力石がうらやましい、と思う。

 どうしたって、結局ジョーの心の中を一番、占領していたのは力石だから。ジョーと一緒に生きて戦ったのは力石だと思うから。

 「あしたのジョー」の中には、男の世界のことなんだから、女が口を出すんじゃない、というセリフがたくさん出てくる。

 たいてい、それを言われているのは白木葉子なんだけど。

 現代、こういうことを言う男の人は嫌われることになっている。男女差別。

20061220__1 しかし、ボクシング、拳闘、女が絶対に上がれないリングの上、ということで、「あしたのジョー」の中では、かえって、こういうセリフ、または世界観が映える。

 男のロマンという言葉があるけど、普段、そんな言葉に辟易している女の子たちも、あしたのジョーの中の男の世界は別だと思う。本当は女性たちこそが、「男のロマン」に憧れているのではないだろうか。

 自分が絶対に立ち入れない世界。自分が見ているジョーが見ているのは、四角いリングだけ。

 たぶん、好きな女のことを考えている時間より、力石のことを考えている時間のほうがずっと長いジョーが好きなんである。

 闘って闘って闘って、最後、満ち足りたやさしい顔をして死んでいくジョーは永遠の憧れである。

20061220__2 ムムッ。

 ムッ。

 ムッ。

 なかなかやるナ。

 ところで、あなたももう一度、「男のロマン」にひたってみますか?

 高森朝雄原作、ちばてつや作画「あしたのジョー」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月13日 (水)

「ブラック・ジャック」は混沌の海を泳ぎ、硬質な輝きを放ち続ける

 たくさんの人が読んでいます。若い人も読んでいます。今も人気があります。私も好きです。昔読みました。買い揃えました。繰り返し読みました。今読んでも感動します。将来も読んでいると思います。そんな漫画だと思います。

20061213_ 手塚治虫作。ブラック・ジャックこと間黒男は、治療費はめっぽう高いが手術の腕は神業という外科医。相棒のピノコとともに、今日も世界のどこかで奇跡のメスを振るっている・・・・。秋田書店「週刊少年チャンピオン」1973~80年連載。少年チャンピオンコミックス全25巻、再編集版・文庫1 7巻ほか。90年代の第3次文庫ブームの口火を切り、文庫売上がそれまでの単行本売上を抜いた。TVアニメが放映され、作家競作のシリーズが描かれるなど、根強い人気がある。

 小池真理子先生は「マンガ名作講義」の中で「ブラック・ジャック」について次のように書いています。

 「理想の男性は?」と問われ、思わず「ブラック・ジャック」と口走りそうになってしまったことが何度かある。 医師免許を取得していない、モグリの天才外科医。人里離れた丘の家の一軒家の住人。世間に背を向けた、無口な思索者・・・。

 告白すると私の中では今もなお、ブラック・ジャックが男の理想形として、燦然と輝きながら生き続けている。彼はただの人気ヒーローではない。天才漫画家・手塚治虫がひそかに生命を宿らせてこの世に送り込んだ人物であると断言してもよく、私は今も、この地球のどこかに、あの寂しげな丘があって、そこにブラック・ジャックの隠れ家が立っている、と信じている。そしてその家ではブラック・ジャックがかわいい助手のピノコと共にひっそりと暮らしており、誰かの手術を依頼するために私が彼に電話をかければ、冷ややかな声で「やりますよ。その代わり、高いですぜ」などといってくるに違いない、と思っているのである。

20061213__1  初めて彼に出会ったのは、一九七三年。七十年安保闘争が完全に終わりを告げ、まさに「祭りの後」という雰囲気に包まれていた時代であった。 平和でのどかなのだが、どこかにかすかな痛みと寂しさ、拭っても拭いきれない疲れが残されていたような時代。私は一年浪人して大学に入り、吉祥寺にある四畳半一間のアパートで一人暮らしをしていた。 当時つきあっていた男友達が、あるとき、少年向け週刊漫画雑誌を部屋に持ってきた。暇つぶしにぱらぱらと中を読み、私はそこで初めて、連載されていた「ブラック・ジャック」を知ったのだった。

 一般的にに手塚漫画はヒューマニズムという言葉で括られることが多いようだが、私はそうは思わない。ヒューマニズムという言葉はどこか嘘くさく、軽々しく聞こえる。「ブラック・ジャック」とて同様であろう。ここに描き出されているのは人の優しさ、希望、愛、正義だけではない。むしろ真反対の負の要素が前面に押し出されているような印象を受ける。憎しみ、嫉妬、暴力、絶望、不運、痛み、孤独・・・・「ブラック・ジャック」はある意味で、非情な物語であるとさえ言えるのである。

 本来、人というものは混沌の中に放り出された無力な存在に過ぎず、生きていくためには誰しも自分なりに手探りで、混沌の海の中を泳いでいかねばならない・・・作者である手塚治虫が、この漫画を通して言いたかったのはそれだったのではないか。ブラック・ジャックはその混沌を生き抜こうとする男である。彼は決して諦めない。貶められ、裏切られ、不運の波にもまれてもなお誇りを失わず、自分が信じるものだけを信じ、何ものにも惑わされずにひっそりと、硬質な輝きを放ち続けるのである。

20061213__2 初期の「ブラック・ジャック」に「六等星」という題名の一編がある。花火大会に行った帰り、満天の星を見上げながらブラック・ジャックが、浴衣姿のかわいいピノコに自分の昔の体験を語って聞かせるところから話が始まるのだが、最後、話しを聞き終えたピノコはこう言うのだ。

 「先生って損のよね。いつもいつでもひといぼっちで人にきやわえて」

 そして彼女は、丘の上にパノラマのように広がる美しい星空を指さしてみせる。「ね。先生。あのずーっとはなえて、ひといぼっちで光ってゆのが先生のよね。そいれ、あの先生の横れ、くっついてちっちゃーく光ってゆのがピノコなのよのね。」

 百編を超える「ブラック・ジャック」の数々の物語のなかで、私はこのシーンが一番好きだ。どういうわけか、読み返すたび泣いてしまう。

 あなたも泣いてしまいますか?読み返したいですか?

 手塚治虫作「ブラック・ジャック」は東京漫画探偵団(まんたん)に置いてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月12日 (火)

「おさなづま」は作中マンガが泣けます

 男性を中心に幅広い年齢層に隠れた人気を誇るマンガがあります。「おさなづま」もそのマンガのひとつです。どん底から人気漫画家へのサクセスストーリーと、変態のだんな様の幼な妻としての苦節ストーリーとが同時に味わえるという豪華なマンガなのです。ちょっぴりエッチなところも随所にちりばめてあります。そしてなんといっても、「おさなづま」は作中マンガが泣けるのです。

20061212__6 森高夕次原作、あきやまひでき作画の「おさなづま」は双葉社「漫画アクション」に連載。

   主人公は16歳の幼な妻。 実家の工場の経営が悪化した時、信用金庫に融資の口利きをしてもらう為、当時信金マンだったロリコンで変態の「だんなさま」のもとに、中学を卒業したばかりなのに「嫁」に出されてしまう。近所の人に馬鹿にされ、テレビも洗濯機も買ってもらえない。虐待を受けながらもひたすら夫に尽くす主人公は、ある時、ふと少女漫画雑誌の「新人まんが賞」に応募する。そして大賞を受賞し、次に描いた「めぐみのピアノ」が雑誌に連載されて評判となり、国民的ヒット作となっていく。「めぐみのピアノ」を掲載している少女漫画雑誌の発行部数は天井知らずに伸びる。その出版社に留まらず、漫画界全般、そしてそれ以上に大きなところにまで影響を与えていってしまう。

 この漫画の主人公は「おさなづま」であり、その夫が中年の「ロリコン」で「変態」。さらに掲載が青年誌なのでその手のシーンもある。しかし 絵が絵なのでイヤらしくはない。ロリコン親父の「だんなさま」がまた、いい味を出している。毎晩のように「女体盛り」や「わかめ酒」を楽しんだり、殴る蹴るの暴行を加える。それでも耐えてひたすら「だんなさま」に尽くす主人公。見所はたくさんある。 

20061212__3 米沢嘉博先生は著書「マンガで読む<涙>の構造」の中で「おさなづま」について次のように書いています。

 「おさなづま」は不思議なマンガである。頭もあまりよくなく、これといって取り柄もない少女は、中学を卒業すると父親の借金のカタのような形で、ロリコン中年社長の妻になる。いじめられ、虐げられ、馬鹿にされ、それでも奉仕しようという少女だったが、ある日投稿したマンガが雑誌に入選、それに惚れ込んだ若い編集者によって、そのまま連載となる。この連載マンガ「めぐみのピアノ」は大ベストセラーとなり、アニメ化されると国民的人気を得、首相を涙させ、ハリウッドの映画監督までも虜にしていく。変わらないのは自分勝手で、ワガママな旦那様だけだった。

 少女漫画の不幸もの、少女のサクセスストーリー、ちょっとエッチなコメディー・・・、そうでもあるのだが、この作品のイントロは、かつて何度も描かれてきた貧乏で不幸な少女の悲しいドラマとして始まっている。そして、ついに「世界征服」を行う作中のマンガ「めぐみのピアノ」は、泣ける感動少女漫画なのだ。「古臭く、陳腐なのかもしれない。だが涙が出てきて止まらないのだよ」と、作中、このマンガの魅力に捕まった人たちは、ボロボロと涙を流しながら語る。

20061212__4  一本のマンガが人を変え、社会を変え、世界を動かしていく様は、バカバカしくSF的かもしれない。それでもこのマンガはリアリティを失わない。人を、人類を涙させ、一体化させる強烈なパワーを持ったフィクションが、悲しい少女漫画として設定されたのは不思議ではない。魂を揺さぶられる感動的な物語の普遍性は、時空間、個や国家を超えることを、実は誰もが解っているのかもしれない。そして大衆がそれをいつも求めていることもだ。しかし、僕らはまだ、「めぐみのピアノ」を持ちえていないのだ。

 他者の物語、フィクションの中に身をさらし、日常のノリや身分や地位、性差などあらゆるものを越えて、根源的な感覚に身をゆだねる時、すべては無化され、救済が行われる。その瞬間こそが、泣くことにはある。そして、フィクションはそうした身体的悦楽によって、人を異世界の中に一時身を置かせようとする。おそらく、それは理屈を超えた感覚でもあるのだろう。--悲しいマンガは、最も手っ取り早くそれを可能にする。そうして感動的なマンガは、単なる悲しみを超えて、そうした場所へと読み手を導く。それを知っているからこそ、読者は、何度も泣ける名作を読み返し、新たな感動を求めて、新たにマンガを読み続ける。時代が変わろうと、その需要がなくなることはない。そのことだけは間違いないことなのである。

 そうだ。私も読み返さなくっちゃ。

 森高夕次原作、あきやまひでき作画の「おさなづま」は東京漫画探偵団においてあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月11日 (月)

「ガラスの仮面」は泣ける場面が多い

 「ガラスの仮面」を親子で読んでいる人もあちこち。30年にわたって連載されている人気マンガです。2回もアニメ化され、ドラマにもなった他に舞台でも演じられています。少女漫画の傑作に、ここまで支持が広がっているのにはわけがあるはずです。随所に「泣ける」場面があります。

20061211_  美内すずえ作。「ガラスの仮面」は「はなとゆめ」(白泉社)に1976年1月号から連載されているが、近年は休載が多い。略称は「ガラカメ」。

 親を亡くし、貧乏で元来何の取り柄もない少女マヤが、亜弓という金持ちで容姿・才能・家庭とすべてに恵まれている典型的なライバルと、演劇という舞台で戦っていく物語。演技の天才少女が花開き、才能を伸ばしていく様子を描いている。

 米沢嘉博先生は著書「マンガで読む<涙>の構造」のなかで、「ガラスの仮面」について次のように書いています。

20061211__1  不幸を描いた悲しいマンガや人情ドラマ、感動マンガ、泣けるマンガは、時代を超え、変わらず大衆によって支持されてきた。

 人はフィクションという虚構の中で、喜び、笑い、怒り、恐怖し、興奮し、悲しみ、といった感情そのものを楽しみ、建前や外っ面といったものから自由になる時間を求めているのではないだろうか。もうひとつの世界の中での解放。そして、物語の中で、人は日常には余り味わうことのない「感情」そのものを消費していく。

20061211__2  「ガラスの仮面」の始まりはあの懐かしの「悲しき少女漫画」のドラマを踏襲している。母親が死ぬ時、舞台で人形の役を務めるマヤが、仮面が外れ涙を流してしまうシーンなど、泣ける場面は多い。その構造上、マヤは幸福にならなければならないし、勝利しなければならない。だが、亜弓に焦点を当て始めた時、マヤこそが天才であり、努力は報われない場合もあることが語られ出す。亜弓のひたむきな努力が描かれるとき、読者の視点は揺らぐ。マヤは、巨大な壁として立ちはだかる絶対的存在となる。今や、マヤは悪役、敵として読むこともできる。天才と秀才の戦いに果たして決着はつくのか。--相対的視点が持ち込まれる時、読者の主体としての位置は揺らぎ、感情移入はあやふやなものとなっていくのだ。

20061211__3  どうですか?あなたも泣いてみませんか?

 美内すずえ作「ガラスの仮面」は東京漫画探偵団においてあります。「女性誌」4番の棚に全巻そろっています。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 6日 (水)

「夕焼けの詩 三丁目の夕日」を読むと善人でありたいと切実に思う

 最近映画化されてヒットし、テレビでも放映されて多くの人が見ました。東京漫画探偵団でも人気の漫画です。心が温まる、どこか懐かしい味わいがあります。でも皆さんがこれを読むのは、どうもそれだけではないような気がします。久しぶりに読み始めると改めて引き込まれてしまうのは、いったい何があるというのでしょう。

20061206_  西岸良平作。「夕焼けの詩」はビッグコミックオリジナルに1974年から連載中。戦後の昭和30年代、東京の普通の下町。団塊の世代前後の人々にとっての「古きよき時代」を描く。当初はブラックな笑いや苦い話が多かったが、「三丁目の夕日」になってからは次第に善人の「いい話」を主にするようになっていく。町の自動車修理工場、鈴木オートを舞台に、集団就職してきた六さんと、ほぼ団塊世代に近いだろう一平君が登場して、いわば戦後日本の都会の「懐かし共同幻想」が作品の中で完成してゆく。

 夏目房之介先生は「マンガに人生を学んで何が悪い?」のなかで「夕焼けの詩 三丁目の夕日」について次のように書いています。

20061206__1  そこには都会の下町と地方の結びつきが、はっきりと描かれていた。六さんは大きな会社を夢見て上京し、自分の故郷と変わらない駅、小さな町工場に愕然とする。昭和30年代は東京に大量の地方出身者が流入した時代であり、都会の子供たちも近所の酒屋やクリーニング屋に勤める「あんちゃん」と呼ばれる若者と日常的に接触し、かわいがってもらっていた。地方にも都会の下町にも、ガキどもの世界にも、高度成長によって破壊される以前の共同体感覚があった。

 シリーズが次第に善人たちによる「いい話」に移行していった時、あまり偽善や欺瞞への反発を感じないで楽しめるのは何でかな?と思った。人間なんてそんなに善人ばっかりのはずがない。実際70年代のマンガ、劇画は、ニヒルでシニカルな人間不信こそが主流だった。でも僕は、西岸のマンガの「善人」ぶりにいやな気がしなかった。西岸作品のどこかに善意を相対化して眺める視線があったのかもしれない。西岸マンガには、ただ懐かしさに淫するだけの甘美さ以外にものがあったような気がする。

20061206__2  今、50歳を越え、あらためて読んでみて、しみじみ思うのはこんなことだ。

 「人はみんな、こんなふうに善人であれたらどんなにいいだろうと、どこかで切実に思うものなんだな」

 そう。西岸マンガは、決して事実人間が善であり、いつもいい結末で終わることを語り聞かせている説教的物語ではないのだ。そこにあるのは、こうであったらどんなによかったかという、過去の選択にまつわる甘美さや切なさである。失ったものの懐かしさの象徴である「夕日」は、日の光のように明らかだったものが隠れ、別の時間に移ってしまう入れ替わりの時間に残る残光で、西岸はその「哀しさ」をすでにデビュー作で描いていた。おそらく西岸の資質はここに現れていて、作家自身が早いうちからそこの気がついていたのだと思われる。

20061206__3  いまや昭和30年代の下町を知るものはマンガ市場の主要な読者ではない。それでも「三丁目の夕日」シリーズはもっと若い読者にも読まれ続けている。実際僕の次男も大ファンで、おかげで奇妙なほど昔の遊びにくわしい。

 西岸のノスタルジックな世界には、いつも「可能であったかも知れない過去」という色合いがある。人がせんないとわかっていてもたどってしまう「もうひとつの人生」についての説話である。誰でも思い当たる既視感のような懐かしさがある。どこかであったかもしれない選択の可能性とは、ある程度生きてきた人間が必然的に持ってしまう人生への思いだ。けれど人はそのつど選択肢をせばめてしか生きていけない。それなりに年をとると、その分だけせばまった自分の人生の幅に切なさを覚えたりする。

20061206__4  西岸の善意は、人生を過去としてみれば、いつでもそういうものだということに優しい目を向けている。必ずしも作者本人が善人であることを意味しないし、読者も善人であることを保証されていない。でも、誰でも実は善人でありたいと思ったり、こんな善人だったら、こんな善意だけで生きられたらどんなにか・・・・と思うことはある。人間がみな悪人だとしても、そういう要素があれば人には可能性が残される。

 うーん。 うん うん。 ん。 近い。

 あなたはどう思いますか? 西岸良平作「夕焼けの詩 三丁目の夕日」は東京漫画探偵団においてあります。

読んでください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 5日 (火)

「タッチ」で描かれる三角関係な思春期の恋

 男性にも女性にもよく読まれるマンガがあります。また、10年前も読まれ、そして今でも読まれているマンガがあります。そんなマンガの中でも「タッチ」はいつまでも変わらない人気を博しています。あなたももしかしたら一度は読んだことがあるのでは?

20061205_  あだち充作。双子の兄弟の上杉達也と和也、隣家の幼なじみ・朝倉南。当初は微妙な三角関係を軸に学園生活がメインで描かれた。弟の遺志を継いで達也がボールを握り、本格野球マンガとしての面白みが加わる。和也が南に告白し、甲子園優勝が達成されたことが示され、物語は幕を閉じる。高橋留美子とともに小学館「少年サンデー」四半世紀を支えている、あだち充の1982~86年連載作。後の「H2」も恋と野球が全面展開された。

 山崎哲先生は小学館発行の「名作コミックを読む」のなかで「タッチ」について次のように書いています。

 あだち充の最大の魅力は、いうまでもなく、まんがの「線」にある。その線はそう言ってよければ、少年まんががもっている硬さと、少女まんがが持っている柔らかさのほぼ中間にある。硬すぎない、そして柔らかすぎない、「中間」としての線なのである。そのことは主題の側面から言ったほうがわかりやすいかもしれない。

20061205__1 あだち充のまんがの主題は一貫して、「性」にある。しかも、いつも「思春期」の性なのである。まだ青年ではない、かといってすでに少年でもない、言ってみれば、人間の「中間期」としてある思春期の性なのである。あるいは、まだ男でも女でもない、中間としてある性。その領域を描くため、あだち充は「中間」の線を宿命としたのである。そして、その微妙な性を描くことに関しては、あだち充の右に出るものはいない。

 思春期の性の主題は、一言でいえば家族からの離脱である。あだち充の作品では、好きになったもの同志が結ばれることはまずない。恋愛は個を主題としない。「対」を主題とする。相手のまえで個が解体される。それを至福とする、倒錯した心理。それが恋愛なのだ。彼の描く思春期の恋は、常に三角関係としてあらわれる。これも見逃すことのできない重要な主題である。どうしていつも「三角関係」なのだろう。

 一言でいえばそれは、性は三角関係のうちにしかあらわれないからである。たとえば、「タッチ」。この作品ではご存知のように、「南」「和也」「達也」の三角関係が描かれているけれども、興味深いのは、和也と達也のどっちが先に南を好きになったのかよくわからない点である。でも回答はひとつしかない。どっちかではなく、二人が同時に好きになったのだ。 それは、性がライバルの登場によってしか現れないことを意味している。そしてその起源は、母をめぐる父との対立、つまりエディプスコンプレックスにある。

20061205_2 あだち充の描く三角関係は、もうひとつ重大な主題を持っている。それは、恋のライバルが「他者」として現れるの点である。決して自分の思い通りにはならない相手、自分に変容を迫る相手としてあらわれるのである。これも「タッチ」で見事に描かれている。達也にとって、死んだ弟・和也は単に恋のライバルなのではない。いや、はじめは恋のライバルとして現れるのだけれども、次第に自分に変容を迫る他者としてあらわれ始めるのである。だから達也は野球を始めてしまうのだ。

 ともあれ、あだち充の登場が衝撃的だったのは、性の起源と、「他者」の登場を描いたからである。誰もが回避することのできない思春期の主題を、見事に描いて見せたからである。それはそれまでのコミック誌では考えられない出来事だったのだ。

 

 あなたはどう感じますか?東京漫画探偵団の「小学館」の棚に「タッチ」は全巻そろっています。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年12月 4日 (月)

「YAWARA!」はやさしいし、温かくて元気が出る。

 東京漫画探偵団には「格闘技まんが」コーナーがあります。柔道、空手、プロレス、ボクシングその他格闘技のマンガがいっぱいです。男性のみならず女性のお客様にも結構人気のあるコーナーです。マンガだけではなくて本物のボクシンググローブやサンドバッグのミニチュア、かつてのプロレスラー「ムタ」・「獣神サンダーライガー」のフィギアなども置いてあり、皆さん面白がってくださいます。なぜって?何を隠そう、何年か前に閉店したプロレス&ボクシングショップ「リングサイド」は東京漫画探偵団の姉妹店だったからなのです。なつかしーっ。

20061204_yawara その「格闘技まんが」コーナーのなかでも、一部のファンによく読まれているマンガに、浦沢直樹作の「YAWARA!」があります。普通の女の子でいたいのに、祖父・滋悟郎の柔道英才教育を受けた猪熊柔はソウル、バルセロナ両五輪に挑む。彼女を追う記者・松田との恋愛も物語終盤の見所。万人受けを明確に意識して描かれた作品。スポ根ものや、当時受けていた少年、青年マンガ(あだち充、江川達也など)の設定や物語進行が、巧みに取り入れられている。小学館「ビッグコミックスピリッツ」1986~89年連載。単行本全29巻で3000万部以上を発行。

  落語家の桂三枝先生が情報センター出版局発行の「マンガ名作講義」の中で次のように述べています。

  「YAWARA!」が「スピリッツ」に登場した時から欠かさず読んでいた。一回目のタイトルが「国民栄誉賞をとる少女」。すごいつかみ方だと思う。落語で言うなら、まずサゲをタイトルにつけて話が始まったのである。この意表のつき方がいい。そしてキャラクターがいいのである。浦沢氏のマンガに登場する人物は青年やおばはんやおっさんが実に個性的に生き生きとしていて面白い。特に女の子の使い分けがはっきりしていてわかりやすい。安心して読めるのである。可愛い主人公、冷たい金持ちの令嬢、ちょっと不細工なわき役、それはテニスをモチーフにした「HAPPY!」でもまったく同じなのだ。

20061204_yawara_1 武蔵山高校に通う女子高生猪熊柔はある日、学校の帰り、逃げてきたひったくり犯を見事な巴投げで投げ捨てる。この絵がなかなか色っぽくていいのだ。色気の出し方もえげつなくないし、品があるのもいい。その巴投げを日刊エヴリースポーツ社の松田記者がスクープし、日本柔道界の次代を背負って立つ逸材と見込んで取材を始める。こうしてスタートする柔道マンガは新聞記者との恋を絡ませながら進んでゆく。同じ柔道マンガでも昔読んだ「イガグリ君」とは随分マンガも進歩したものだと感心させられる。すべては映画のカット割をマンガに持ち込んだ手塚マンガからはじまっているのだろうが、絵やキャラクター やギャグやストーリーが研究されていて、興奮と感動をまるで映画のように一回目から最後まで引っ張っていくのである。特に「YAWARA!」はやさしいし、温かくて元気が出る。マンガはどんどん進化しているのだ。

どうです? もう一度読んでみたくなったでしょう? 「YAWARA!」は東京漫画探偵団の「格闘技マンガ」コーナーに全巻あります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)