2007年6月 5日 (火)

漫画原作つくりは面白い ⑤断られても断られても持ち込むことが大切

 漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するのでしょうか? 今月の1日から、

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで

  漫画原作つくりは面白い

  というテーマで

①漫画原作の基本形式

②漫画原作のキャラ立ての基本

③漫画原作のルールを押さえる

④応募と持ち込み、どちらが有利?

⑤断られても断られても持ち込むことが大切

の5回シリーズが始まりました。

 最終日、第5回の今日は

漫画原作つくりは面白い ⑤断られても断られても持ち込むことが大切

です。

01_4  若桜木虔先生・すぎたとおる先生は編書の「プロの原作者になる 漫画原作のつくり方」の中で次のように書いています。

・・・・・

採用に一歩近づくために

【淡路】  原稿を持ち込む前の段階で、自分の原稿が果たしてクズなのかどうか、という見極めの付け方は、ありますか?

【若桜木】  これは難しいですね。この本を読んでポイントを身に付けた上で持ち込んでください、としか言いようがありません。 キャラが立っているか否か、従来の漫画にない売り(セールス・ポイント)があるかどうか、きちんと起承転結が纏まっているか。 でもまあ、おそらく自分自身では判断がつかないと思いますよ。編集さんに正直な感想を言ってもらう以外にないですが、カルチャー・センターの講師などと違って、編集さんは懇切丁寧には教えてくれませんから。

【淡路】 持ち込み原稿は普通、何本くらい持って行けばいいのでしょうか?

【若桜木】 五本~十本ですね。それを、一つの編集部につき一本ずつ置いて回る。つまり五社~十社を回るわけです。 神保町界隈を歩けば、漫画を出している版元は山ほどありますから。 秋田書店・竹書房・祥伝社・角川書店・集英社・小学館・日本文芸社・白泉社・少年画報社・芳文社が、いずれも徒歩五分~十分くらいの間隔で固まって存在します。 しかも、雑誌は一社につき一誌ではありません。何誌もあります。勘定していませんが、前述の版元トータルで五十誌にはなるでしょう。

 その内で自分と感性がフイットしそうな雑誌の編集部を順繰りに訪ねます。時間が読めないので、最初の一社だけアポを取って、以降の版元は飛び込みですね。 門前払いされたら、次の版元に行けば良い。門前払いされるのが当たり前――と思っていれば、ショックはありませんよ。

06  一発採用などということは、まず有り得ないので、週に一回、この曜日は持ち込み日、とでも決めて、延々と回り続ける。 一社で断られた原稿は、そのまま他社に持っていくんです。断られる時は、編集さんが「どこが悪いのか」を指摘してはくれますが、先刻も言ったように編集さんの言うことは言葉が少なくて“舌っ足らず”ですから、どうしてもピンと来ません。 そのために、手を加えずに他社に持ち込むんです。一社で不採用のものは、まあ、確率的に言っても他社で採用になる可能性は低く、蹴られます。 こうやって蹴られ蹴られて五社ぐらいで蹴られると、どこが悪いのか、編集さんの求めている意図とのズレがどの程度なのか、何となくニュアンスが呑み込めてきます。 そうなったらシメタもので、それだけ採用に一歩、近づいたことになります。

 とにかく、しつこく定期的に持ち込み続けること。これが採用の鍵で、編集さんも人間ですから、何度も来る新人には優しくなって、だんだん懇切丁寧になってくるものです。 それから、雑誌の原稿は穴が空くことがあります。執筆者の病気とか事故で原稿が入らないことが、何カ月かに一度は必ず起きます。 そういう時に編集さんと親しくなっていると「じゃあ、穴埋めにアイツの原稿を使ってやるか」という気持ちになってもらえる。

 特に優れた原稿でなくても、可もなく不可もない原稿なら使ってもらえるんです。私の新人時代は、まさにこの“穴埋め作家”でした。 編集さんから電話が入ってきて「**先生が事故で原稿が落ちそうなんで、大至急、書いてもらえる?」という依頼でした。 「やります! で、締切はいつですか?」 [馬鹿! 今に決まってるだろうが! それは無理だろうから、明日の朝一番で持ってきて」 という遣り取りがあって、それが麻雀劇画でした。その時まで麻雀を知らなくて、大急ぎで書店に麻雀のルールブックを買いに走った――という凄まじい仕事です。

・・・・・

うーん。

デビューするのはやはり簡単ではないですね。持ち込んで、持ち込んで、またまた持ち込んで。これもまた成功する人の素質になるのでしょうか。

このことは漫画原作者を目指す人だけではなく、漫画家を目指す人にも大いに参考になりますね。

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2007年6月 4日 (月)

漫画原作つくりは面白い ④応募と持ち込み、どちらが有利?

 漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するのでしょうか? 今月の1日から、

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで

  漫画原作つくりは面白い

  というテーマで

①漫画原作の基本形式

②漫画原作のキャラ立ての基本

③漫画原作のルールを押さえる

④応募と持ち込み、どちらが有利?

⑤断られても断られても持ち込むことが大切

の5回シリーズが始まりました。

 第4回の今日は

漫画原作つくりは面白い ④応募と持ち込み、どちらが有利?01_3

です。

 若桜木虔先生・すぎたとおる先生は編書の「プロの原作者になる 漫画原作のつくり方」の中で次のように書いています。

・・・・・

応募と持ち込み、どちらが有利?

【若桜木】  それでは締めくくりとして、漫画原作者としてデビューする具体的な方法論に移りましょう。何か質問はございますか?

【淡路】 漫画原作は応募と持ち込みでは、どちらが有利なんですか? また持ち込みの場合は、だいたい何ページくらいを設定して書けばいいのでしょうか?

【若桜木】  私の感触では、持ち込んだほうが有利ですね。実際に編集さんと会って話していると、その時点で編集部が何を求めているのか“空気”が読めますから。 漫画原作の新人賞の場合は、意外に“持ち込み新人賞”が多い。持ち込んで採用となった場合に、編集部としては、いきなり新人の原作者を無冠でデビューさせるよりは、何かしら冠を付けたほうが宣伝しやすいので、持ち込み作品なのに、新人賞の公募に応じてきた作品のような体裁にしてしまうわけです。

【すぎた】 私のデビューも、その形式でした。持ち込んだ作品が『第二回青年漫画原作大賞』の大賞作品となってデビューしました。ちなみに漫画界では「大賞を取った作家は大成しない」とのジンクスがありまして、私がどうなったかは、ご想像におまかせします(笑)。

05 【近藤】 新人が参入しやすい分野というのは、あるのでしょうか? 若桜木先生は、小説に関しては「自分の仕事のことを書け」という持論のようですが、漫画の場合は、その仕事のジャンルが必ずしも漫画雑誌編集部の気に入られるものではない可能性もあるのではないでしょうか?

【若桜木】  そのとおりです。ですから、漫画雑誌は多いので、どの雑誌が自分に合っているか、最低限、書店の店頭で中身をチェックしてリサーチする作業が必要ですね。

 あと、自分が野球に非常に詳しいので、野球漫画の原作を考えたとします。その場合、野球漫画が載っている雑誌をターゲットにするのが良いのかというと、必ずしもそうとは限りません。

 例えば先ほども『朱雀』という作品を例に挙げた『麻雀ゴラク』という雑誌。このように全誌が麻雀の劇画ばかり、という特殊なジャンルに限定した雑誌の場合は話が別ですが、まあ、野球漫画は二本まででしょう(四コマのギャグ漫画を除いて)。 となると、そこへ三本目の原作を持ち込んでも、採用にはなりません。仮に採用されたとしても、連城中の二本のいずれかが終わるまで順番待ちの状況になります。

 私の体験ですと、「週刊少年サンデー」に持ち込んだ原作が「採用! でも、**の連載が終わるまで、二年くらい待って」と編集さんに言われて断念し、他社に持っていった経験があります。 それは、他社では漫画にならずにライトノベルで出版することになりました。

「馬鹿野郎、こんなクズ原稿を持って来やがって! 二度と来るな」と言われて、原稿も返してもらえず、目の前でビリビリに破かれてゴミ箱に叩き込まれた――という実話もありますし。

・・・・・

うーん。

デビューするには持ち込みがいいのですね。このことは漫画原作者を目指す人だけではなく、漫画家を目指す人にも大いに参考になりますね。

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2007年6月 3日 (日)

漫画原作つくりは面白い ③漫画原作のルールを押さえる

 漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するのでしょうか? 今月の1日から、

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで

  漫画原作つくりは面白い

  というテーマで

①漫画原作の基本形式

②漫画原作のキャラ立ての基本

③漫画原作のルールを押さえる

④応募と持ち込み、どちらが有利?

⑤断られても断られても持ち込むことが大切

の5回シリーズが始まりました。

 第3回の今日は

漫画原作つくりは面白い ③漫画原作のルールを押さえる01_2

です。 

 若桜木虔先生・すぎたとおる先生は編書の「プロの原作者になる 漫画原作のつくり方」の中で次のように書いています。

・・・・・ 

漫画原作のルールを押さえる

【淡路】  それでは、主人公に過去を語らせたい場合とか、現在から始めて過去のエピソードをどうしても知らせたい場合には、どのようなやり方で書けばいいのでしょうか?

【若桜木】 漫画原作では、過去を語らせてはいけないんです。その“語らせたい過去”の部分から脚本を書く。 で、その後は、ひたすら出来事の順番どおりにエピソードを連ねていく。これがもう、絶対厳守の鉄則です。 それを漫画家さんが「主人公が過去を語る」シーンにするかも知れないし、何かもっと別の手法を考えるかも知れませんが、いずれにせよ漫画家さんが自分の裁量で“演出”する分野なんですね。 映像脚本から入った人は、どうしても主人公に過去を語らせたり、回想させたりしたくなる。でも、その欲求を抑えて割り切らないと、漫画原作は絶対に採用になりません。これはルールなのだと心得なければならないんです。

【すぎた】 私の『新佐の剣』のオープニングがまさにその典型なので、参考にしてください。

【近藤】 そうすると、本来“オチ”となるような部分が過去のエピソードだった場合、シナリオではそのオチを先にばらすことになりますね。そういうシナリオを書いた場合、逆に編集部から、構成力のない原作者だと思われる恐れはないのでしょうか?

04 【若桜木】 それは多分にあります。だから、時系列順に物語を構成して、なおかつ起承転結がピタリと決まってオチがついている作品を書く以外にない。 そういう点で、漫画原作というのは小説や映像脚本よりも制約が大きいんです。だから「たかが漫画原作」と舐めて懸かると、いつまで経っても突っ返されてデビューできない、という悲劇にも遭遇しかねません。 すぎたさんも賛成してくださいましたが「漫画原作を舐めて懸かるなかれ」です(笑)。

【淡路】 こういうアドバイスが一番役に立つと思います。どうしても自分の筆力への過信とか、書きたいことが先行しがちですから、これがルールなのだと、はっきり言われれば納得がいきます。 映像脚本で言えば、監督さんやプロデューサーや、俳優さんの仕事に脚本家が立ち入ってはいけない、という意味だと理解して良いでしょうか?

【若桜木】 そうです。まさに、そういうことです。

【淡路】 脚本でも「大きな鞄」は、後々その鞄が大きくなければならない必然性がなければ「鞄」とだけ書くようにと注意されます。それでは漫画原作で「過去を語らせない」以外に、明確なルールはありますか?

【若桜木】 色彩に関する情報は書いてはいけません。漫画は基本的に単色ですからね。 現代物だと、登場人物のヘアースタイルやファッションは特に書かなくても漫画家さんが好みで描きますから構わないんですが、時代劇になると、きっちり説明しなければなりません。たいてい漫画家さんは時代考証に疎いですからね。 例えば忍者を登場させる。この場合、忍刀を背負った姿で描かれることが多いんですが、刀の柄は左肩に来なければならない。そうでないと抜けないんです。 ところが、右肩に来るように描いている間違いが非常に多い。漫画でなく、時代小説のカバーイラストなんかでも、かなり間違って描かれています。

 これは忍者映画で大ヒットした市川雷蔵主演の『忍びの者』(原作‥村山知義)で考証ミスが起きたのが元凶じゃないかと睨んでいるんですが。あれが大映じゃなく、チャンバラ大得意の東映の制作だったら、ああいう間違いは起きなかっただろうと思います。

 宮本武蔵のライバルの佐々木小次郎も、愛剣“物干し竿”は柄が左肩に来なければならない。吉川英治の『宮本武蔵』は朝日新聞連載ですが、挿絵の石井筒三画伯は、ちゃんと考証して左肩に柄が来るように描いておられる。とにかくテレビ化、映画化される時に、忍者と佐々木小次郎の刀の担ぎ方の間違いがどれほど多いか、呆れるばかり。

 話を元に戻して、漫画家さんが間違えそうなことは、可能な限り事細かく書いておく必要があります。 スポーツ漫画だったら、選手のフォーメーションなどは念人りに書いておかないと、とんでもないデッサン間違いが起きる場合があります。その漫画家さんが非常にその種目に詳しい、と分かっていれば話は別ですが、そうでない限りは要注意です。

 私が「週刊マーガレット」で一年間に亘って連載した『白球を叩け!』(漫画:柿崎普美)では、連載終了時のラストのカットが、とんでもない大間違いの構図になってしまいました。 最終回ということで気が緩んだせいもあるのですが、今でも断腸の思いです。

【淡路】 料理などを題材として、どうしても色を伝えなければならない場合は、セリフで語らせればいいのでしょうか?

【若桜木】 非常に難しいところですね。たとえ台詞で語らせたところで、そもそも絵がモノクロですから。

・・・・・ 

うーん。

漫画原作ではルールをルールとして守るということが大事なんですね。漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するんですね。

知るということは大切ですね。

あなたはどう思いましたか? 

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2007年6月 2日 (土)

漫画原作つくりは面白い ②漫画原作のキャラ立ての基本

 漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するのでしょうか? 昨日から、

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで

  漫画原作つくりは面白い

  というテーマで

①漫画原作の基本形式

②漫画原作のキャラ立ての基本

③漫画原作のルールを押さえる

④応募と持ち込み、どちらが有利?

⑤断られても断られても持ち込むことが大切

の5回シリーズが始まりました。

01_1  第2回の今日は

漫画原作つくりは面白い ②漫画原作のキャラ立ての基本

です。 

 若桜木虔先生・すぎたとおる先生は編書の「プロの原作者になる 漫画原作のつくり方」の中で次のように書いています。

・・・・・ 

漫画原作のキャラ立ての基本

【淡路】 脚本の先生にはよく「物語を転がすな。登場人物の心情を書け」と怒られましたが、漫画原作にも、そのことは当てはまるのでしょうか?

【若桜木】 登場人物の心情を描くというのは、キャラを立てるという意味で非常に重要ですね。 しかも、非常に難しい。小説よりも難しい。さきほども触れましたが、三十ページの原作の場合、一ページにつき二百字ですから、四百字詰め十五枚で起承転結をまとめ、しかも登場人物の心情を書き込む上に「漫画家では思いつけない物語」(第六章)でなければならない、という制約が加わります。 必然的に、自分が専門的知識を持っている分野にテーマを置いてアイディアを練るのがベター、ということになってきます。

【近藤】 漫画と小説、映像で、キャラの立て方の違いはありますか? 漫画とアニメは空想的なキャラ(非現実的な能力を持つとか)が出てくることが多く、小説や実写はどこか地に足のついたキャラが出てくるという印象があります。思い切って空想的なキャラにしたほうが、漫画原作向きなのでしょうか?

03_1 【若桜木】  いや、小説や実写でも吸血鬼・悪魔・超能力者などは出てきますからね。地に足がついた、というのは当てはまらないでしょう。 ただ、吸血鬼や悪魔が出てくる話などは、小説や実写では冒頭からいきなり登場することは滅多にありません。映画『13日の金曜日』など、ジェイソンが登場するのは、話も半ばに差し掛かってから。要するに“出し惜しみ”です。 しかし、漫画原作では、これは許されません。いきなり単行本書き下ろしの漫画というのは、滅多にありませんからね。雑誌に連載された後で単行本に――というのが一般的な流れ。

 人気が出なければ、すぐに連載が打ち切られてしまうし、単行本にもなりません。だから、主要登場人物は可能な限り早く、基本的には連載の第一回に出さなければなりません。 それも、できるだけ魅力的に。だいたい何かのトラブルに巻き込まれ、それを手際よく処理するシーンを盛り込むことで主人公に読者の関心を引きつけるのが最もオーソドックスな手法ですね。

【近藤】 漫画のキャラ立ての場合、漫画家のキャラクターデザインの能力も重要なポイントになると思いますが、原作者側から留意するキャラ立てのポイントはありますか? ここに気をつけたほうがいい、連に、これはやってはいけない、などありましたら教えてください。

【若桜木】 とにかく何か、際立った個性を出さなければならない。そこが最大のポイントでしょうか。 これが非常に難しいんですね。個性を出そうとするあまり、単なる変人になってしまって魅力的にならない、などという失敗が、よくあります。 そういう点では、小説よりも逞かに難しいと思いますよ、漫画原作のキャラ立ては。

 主人公を消極的な性格に設定するのは、まず駄目。九分九厘、失敗します。魅力的にできません。

・・・・・ 

うーん。

漫画原作ではキャラ立てがポイントですね。漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するんですね。

すばらしいですね。

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2007年6月 1日 (金)

漫画原作つくりは面白い ①漫画原作の基本形式

 漫画家を目指す人もいれば、漫画原作者を目指す人もいると思います。漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するのでしょうか? 名作を描いた漫画家や原作者ががどのような人生を歩み、また、どのようにしてプロになったのかを知りたいと思うのは、マンガの描き手や原作者、またそれらを目指す人たちだけではありません。マンガの読み手にとっても、大変興味深いものです。なぜなら、その人生の歩みのなかから学ぶものがたくさんあるからです。

今日から

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで

01   漫画原作つくりは面白い

  というテーマで

     漫画原作の基本形式

    

漫画原作のキャラ立ての基本

    

漫画原作のルールを押さえる

    

応募と持ち込み、どちらが有利?

    

断られても断られても持ち込むことが大切

の5回シリーズで進めます。

 第1回の今日は

漫画原作つくりは面白い ①漫画原作の基本形式

です。 

 若桜木虔先生・すぎたとおる先生は編書の「プロの原作者になる 漫画原作のつくり方」の中で次のように書いています。

・・・・・ 

漫画原作の基本形式

【近藤】 質問があります。事件の最初から物語を始めるのではなく、「ゴムボート事件」という話の途中から物語を始めているのですね。 これはやはり、いきなり読者を引き込もうとするためでしょうか。枚数制限のためもあるのでしょうか?

【若桜木】 枚数制限の要素のほうが大きいですね。限られた枚数の中で読者を引き込もうとすると、どうしても、いきなり冒頭に何か事件なりアクシデントなりを持ってくることになります。新人の場合に許されるのは多くても三十ページ。一ページにつき二百字が原則ですから、四百字詰め十五枚で起承転結をまとめ、しかも登場人物の心情を書き込まなければなりません。

【淡路】 他の部分に比べると冒頭のナレーションがかなり長いような気がするのですが、これにも長さの制限はありますか?

02_1 【若桜木】 ナレーションも、セリフの吹き出しと同様でスペース的な制約がありますから、基本的には短ければ短いほど良いです。 セリフは一行以内、ナレーションは二行以内が目安でしょう。ただ、どうしても状況説明などでオーバーしてしまう場合は起こり得ます。この場合は、大幅オーバーですね。 ナレーションが多すぎるのは『ゴルゴ13』(さいとう・プロダクション)などもそうで、これで許されるのかと思って持っていくと編集さんに「長すぎる」と否定されるのは、ほぼ確実です。

新人原稿の必須条件

【近藤】  一話完結連作のようですが、編集部からは、どんな注文があったのでしょうか? 例えばアニメだと、絵が描かれたキャラクター設定書がありますが、この漫画原作もストーリーを書く前に、そういうものが用意されていたのでしょうか? キャラの姿形描写は敢えて省いているように感じましたが。

【若桜木】 良い点に気づきましたね。 確かに、この脚本は新人が出版社に応募する、持ち込み作品として見ると欠陥商品です。主人公のキャラ描写が書かれていません。 実は、これは依頼原稿で、依頼時に編集部で漫画家さんと引き合わされて最初に登場人物の見本絵を見せられて「このキャラに合うストーリーを」という形で要請されているんです。 だから、主要登場人物の年齢も、容貌や服装も、その他の細かい小道具なども書く必要がありませんでした。

 新人が応募する場合には、キャラをきっちり書き込んでおく必要があります。 副主人公のバイクなどは文章で説明するより、バイクのカタログ写真を切り取るか、コピーして貼っておくのもOKです。とにかく原作は漫画家さんに情報を提供するのが最大の使命ですから。

【近藤】 資料のレジメなどを漫画家さんに渡すことはあるんでしょうか?

【若桜木】 それどころか、「週刊少女コミック」で連載したサッカー漫画『よろしく! マリーン』では、絵を担当した野崎ふみこさんがサッカーをご存じなかったので、サッカー観戦に連れて行って脇で戦術解説もやりましたし、ラフコンテを見てフォーメーションの間違いも指摘しました。球を持っていない選手の動きは、これは素人だと、ちょっと理解できませんからね。 そのせいか、野崎さんはその後、熱狂的なサッカー・ファンになられたそうで。要するに“何でも有り”ですよ。

【高桐】 この『こちら花恋捜査局』の狼は、結構ワイルドでぶっきらぼうな役ですが、やはり漫画家さんの絵から性格までも創造したのでしょうか?

【若桜木】  これは私と漫画家さん、編集さんの三者面談で、初期のストーリーに肉付けする格好でキャラを固めました。 初期の面談前の脚本が残っていれば良いんですが、あいにく残していません。もうちょっとマトモなボーイフレンド像に設定したんじゃないかと思いますが。

【近藤】 第一話を始めるにあたり、肝心なことは何でしょうか?

【若桜木】 第一話に主人公はもちろん、レギュラーが出揃うようにします。このレギュラー総登場は必須ですが、漫画・劇画は読者の人気投票でランクが低いと即座に打ち切られるので、主人公をできるだけダイナミックなシーンで登場させることが求められますね。 ダイナミックなシーンが良いからと言って、安直に“どっかで見たシーン”を持ってくるのは駄目。そこが難しいところです。

・・・・・ 

うーん。

漫画原作者は漫画家とはまた違った才能を違った技術で発揮するんですね。

すばらしいですね。

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2007年3月 5日 (月)

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

  名作漫画家は「人生の達人」でもあります。人生の達人である小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学ぶ5回目です。 

0220_101_1 今日は 

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで、あの小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学びたく、先生の人生の歩みを追いながら

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

と題した5回シリーズのうち、第5回目の 

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

です。

小山ゆう先生は多くの人との出会いに恵まれているようです。人との出会いに恵まれてマンガの描き手として成長しているそうです。人との出会いとはどんなものなのでしょうか。また、それはどんな影響があるのでしょうか。人との出会いに恵まれるか恵まれないかの違いはどうしてなのでしょうか。いったい先生はどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか? 

 宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。

・・・・・ 

0220_116   小山ゆうさんは、アニメーションの会社でアルバイトを始め、1年ほど、ここで働いた。たまたま休憩時間に、さいとう・たかをさんの「無用ノ介」を模写していた。「学校時代、絵はクラスでもうまいほうだった」という。その絵を見た先輩が「知り合いがさいとうプロにいるから紹介してやろうか」と言ってくれたので、「じゃ、お願いします」と頼んだ。20歳のときに、さいとうプロの面接を受けた。雑誌「スクリーン」の模写などを数点見せたところ合格し、アシスタントに採用された。 これが小山さんのマンガ道のスタートだった。

さいとうプロには、「それまでの人生では出会ったことのない人たちがいっぱいいた」。まずは、劇画界の巨人、さいとう・たかをさん。先輩には当時はまだ無名だった小池一夫さん。兄貴分の山本又一朗さん。アシスタント仲間のやまさき拓味さん。多くの人々との出会いが始まった。

  当時のアシスタント仲間のひとりが、2歳年下のやまさき拓昧さんだ。やまさきさんの1、2ヵ月後に人社してきたのが小山さんだった。ふたりは1年間ほど、4畳半のアパートで一緒に暮らした。その後、山本又一朗さん、やまさき拓味さん、と3人で「オリオンプロ」という会社を作って活動した。小山さんはこの当時のことを「楽しくてしょうがない、1年半くらいでしたけど、共同生活の合宿みたいでした」と振り返る。この期間を経て変化を迎えた。このころ、先にさいとうプロから独立した小池一夫さんは、[子連れ狼」の大ヒットで、青年誌を中心に、ものすごい売れっ子になっていた。「デザインより、マンガをやりたいんだ」という気持ちが募っていた3人は、やがて会社をたたんで小池さんの「スタジオ・シップ」へ。

 小山さんがデビューしたのは26歳。早熟な人が多いマンガ家としては、遅咲きだった。デビュー作「おれは直角」(週刊少年サンデー、昭和48年~51年)はめちゃくちゃ明るくて、ギャグが満載だ。当時“コミックのドン”と呼ばれていた小西湧之助さんがデビューのきっかけを作ってくれた。は「オレは直角」を初めて読んだとき、黒鉄ヒロシさんの「赤兵衛」と比べ、小山さんの「直角」も黒鉄ギャグに通じるものがあると思ったという。 「ドタバタじゃない、インテリギャグ。(喜劇王)キートンの喜劇にあるような、ポンとたたくとあっちのほうの蛇口から水が出てくる、そんなしゃれた使い方を感じた。大竹君(小山ゆうの本名)は才能があるなあと思いました」

 「おれは直角」が終わったあと、小山さんは新たな「冒険」を始める。まず、小池さんの「スタジオ・シップ」を辞めてひとりになったのだ。さらに、新連載ではボクシングを題材にすることにした。 小山さんは「がんばれ元気」の連載が始まるのと前後して、もう一人の名物編集者と運命の出会いをする。小山さんが言う。「『がんばれ元気』は担当編集者とふたりでつくったような感じです」

 「元気」を担当した亀井修さんは早大商学部卒業後、小学館に入社し、「週刊少年サンデー」編集部へ。その後、「ヤングサンデー」「ビッグコミックスペリオール」「ビッグコミックオリジナル」「ビッグコミックスピリッツ」4誌の編集長を約10年務めた。 「直角」連載中に、飲み屋で小山さんとばったりあったとき、亀井さんはこうアドバイスした。「マンガとして面白いけれど、芯が弱い。骨太さが欲しい」小山さんは「その通りだ……」と答えたという。

「がんばれ元気」が始まった直後、亀井さんはベテラン編集者がひとり異動したため、「マンガ班」に呼び戻され、「がんばれ元気」担当となった。 最初はなにも言わなかったが、間もなくして小山さんに、こう直言した。「なんで、こんな甘ったるい話を描いているんだ。父親が邪魔なんだ。早く殺しちゃえ」。 小山さんの構想だと元気の父が亡くなるのは、もっと先のはずだった。幼い元気を残し父が亡くなったため、「おれは父ちゃんの子だ」と、かつての楽しかった日々を元気が回想するシーンに胸詰まらされた。「そうでしょ。あそこで鮮やかに死んじゃうからいい。生きて、たこ焼き屋なんかやってたら、たまんないよ」(亀井さん)

 ボクシングをほとんど見たことがなかった亀井さんは、ボクシング評論家の郡司信夫さん(1999年死去、享年90歳)に、「ソープランド王が経営していることでも話題だが、理想的なジム」という角海老ボクシングジム(東京都豊島区)を紹介してもらい、しょっちゅう通った。 また、後楽園ホールで年中、ボクシングの試合があり、約1年間で100試合以上は見にいった。「とくに東京で行われたタイトルマッチは全部見てました」

 スポーツ紙のボクシング担当をはじめ、「ブレーンになってもらった人がゴロゴロいた」という。 元東洋バンタム級チャンピオンの三浦清さんも、そのうちのひとりだった。

・・・・・ 

 小山ゆう先生はこのように多くの人との出会いに恵まれているんですね。人との出会いに恵まれてマンガの描き手として成長しているんですね。人との出会いに恵まれたのは先生の人柄によるのですね。小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。 

 あなたはどう思いましたか? 

0220_233 小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。 

・・・・・

小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。

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2007年3月 4日 (日)

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

  名作漫画家は「人生の達人」でもあります。人生の達人である小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学ぶ4回目です。 

今日は 

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで、あの小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学びたく、先生の人生の歩みを追いながら

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

と題した5回シリーズのうち、第4回目の 

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

です。

0220_601  小山ゆう先生はマンガを描くにあたって多くのブレーンに囲まれているそうです。そのブレーンに恵まれたということで作品に深みと広がりとが実現しているのでしょうか。多くのブレーンに恵まれた理由は何だったのでしょうか。いったい先生はどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか? 

 宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。

・・・・・ 

「『がんばれ元気』を担当した「週刊少年サンデー」編集部の亀井修さんは職人肌の編集者だ。ボクシングをほとんど見たことがなかった亀井さんは、ボクシング評論家の郡司信夫さん(1999年死去、享年90歳)に、「ソープランド王が経営していることでも話題だが、理想的なジム」という角海老ボクシングジム(東京都豊島区)を紹介してもらい、しょっちゅう通った。また、後楽園ホールで年中、ボクシングの試合があり、約1年間で100試合以上は見にいった。「とくに東京で行われたタイトルマッチは全部見てました」

 スポーツ紙のボクシング担当をはじめ、「ブレーンになってもらった人がゴロゴロいた」という。元東洋バンタム級チャンピオンの三浦清さんも、そのうちのひとりだった。亀井さんは、元天才ボクサーの三浦さんからもいろいろなエピソードを聞き出している。「だから実話がたくさん入ってますよ」(亀井さん)

0220_104  ある日、亀井さんは有望な新人選手に「きょうの試合が終わったらごちそうするよ」と持ちかけたところ、「いや、店は休めないんだ」と言うから、「じゃ、お前の店へ行ってやるよ」 約束通り、試合後、ジムの会長と一緒に日暮里の店に出かけた。「そいつの顔を見て、店のオヤジさんが『食いもんの店に顔をはらしてくるな』と怒鳴りつけた。これって『きょうは店を休んでいいよ』という意昧だったんだ」

 この話を下敷きにしているのが、次のシーンだ。プロデビュー前の元気が、中学時代の1年先輩で「次のオリンピックの金メダル候補」と目される天才ボクサー、火山尊(ひやまたける)とのスパーリングでメッタ打ちにされ、傷だらけの顔でアルバイト先の寿司屋に出勤する。すると、板前さんが「おいおい、食い物商売なんだぜ。そんな顔で店の中うろつかれちゃ客が逃げちまうぜ」「きょうはもういいから帰りな」

 また、フェザー級の新入王戦で、トーナメントを順調に勝ち進んだ元気と、同じジムに所属する幼なじみ皆川のぼるのふたりの対戦が決まるが、「どちらも負けさせたくない」というジムの方針でのぼるに棄権させ、元気の不戦敗となるというシーンがある。これも「同門だった斉藤清作(のちの喜劇役者、たこ八郎)とファイティング原田が昭和34年(1959年)の新入王決定戦の準々決勝でぶつかり、斉藤を棄権させた」(小山さん)実例を参考にした。

 このほか、刺青を背中一面に彫ってしまったため、リングに上がれなくなった元全日本学生チャンピオンで、中学生時代の元気の師匠の三島栄司、元気をはるかに上回る素質を持ちながらパンチドランカーになってしまう海道卓、パンチを受けすぎた後遺症で目を痛め、元気との対戦後、ほとんど視力を失ってしまう火山など、登場人物にまつわるエピソードもそれぞれ実話をもとにしている。

・・・・・ 

0220_423  小山ゆう先生はマンガを描くにあたってこんなに多くのブレーンに囲まれているんですね。そのブレーンに恵まれたということで作品に深みと広がりとが生まれているんですね。多くのブレーンに恵まれた理由は小山先生の人柄だったんですね。小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。 

 あなたはどう思いましたか? 

小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。 

・・・・・

小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。

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2007年3月 3日 (土)

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

 名作漫画家は「人生の達人」でもあります。人生の達人である小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学ぶ3回目です。

今日は

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで、

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

と題した5回シリーズのうち、第3回目の

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

0218_100_1です。

作家と編集者との関係は特別のものがあるのでしょうか。小山ゆう先生がデビューする時、あるいは作品を書き続けるとき、そこには編集者との間にさまざまなドラマがあったはずです。どんなドラマがあったのでしょうか。小山先生はたしてどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか?

 宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。

・・・・・

0220_351_1  「おれは直角」を小学館の「週刊少年サンデー」編集部に売り込みに行ったところ反応はあまりよくなくて、途方にくれていた。すると近くにいた小西湧之助さんに下書きを渡すと、4ページほど読んだところで、小西さんは「週刊少年サンデー」の井上敬三編集長(当時、のちに専務)に声をかけた。「敬三さん、これ、面白いよ。すぐ連載してみたら」

 マンガ家「小山ゆう」誕生の瞬間だった。

 “コミックのドン”。当時、すでにこう呼ばれていた小西湧之助さんは、今では「伝説の編集者」と言われている。なにしろ、手がけた創刊誌などが、ざっと十数誌に上るのだ。当時すでに“コミックのドン”と呼ばれていた小西さんは「おれは直角」を初めて読んだときの感想を、こう語る。「鉛筆描きのラフプランだったけど、スピードがあった。親父は気が弱いのに、せがれには真っ直ぐ進むように育てる。せがれは『父上』の言う通りに真っ直ぐ進み、曲がるときは直角に曲がる。すごく面白い」

0220_102  小山さんは「がんばれ元気」の連載が始まるのと前後して、もう一人の名物編集者と運命の出会いをする。小山さんが言う。「『がんばれ元気』は担当編集者とふたりでつくったような感じです」

 「元気」を担当した亀井修さんは昭和20年(1945年)9月14日生まれで、小山さんより3歳年上の職人肌の編集者だ。昭和43年(1968年)、早大商学部卒業後、小学館に入社し、「週刊少年サンデー」編集部へ。その後、「ヤングサンデー」「ビッグコミックスペリオール」「ビッグコミックオリジナル」「ビッグコミックスピリッツ」4誌の編集長を約10年務めた。“コミックのドン”小西湧之助さんは「カメにはライバルなんかいないよ」とほめる。数多く一緒に仕事をした原作者の武論尊さんによると、「カメさんが行くと(その雑誌が)持ち直すとも言われた。ただ、連載作家を7割切ったことがあって、“首切りカメさん”とも“傲慢カメさん”とも呼ばれた」という。

 漠然と「作家志望」でもあった。マンガ家が作品を描きあげるのを、ただじっと待って編集部に持ち帰るのが仕事だという編集者にはなりたくなかった。「当時は、出版社によって違うけれど、(マンガ家と編集が)マンツーマンでつくれる時代が始まった。つまらないときはつまらないと批判を言えた」という。

 当時の少年サンデーの編集部は「マンガ班」「特集班」「グラビア班」に分かれていた。小山さんの「おれは直角」が連載されているころ、亀井さんは「マンガ班」を離れ、「グラビア班」にいた。

 「直角」連載中に、飲み屋で小山さんとばったりあったとき、亀井さんはこうアドバイスした。

「マンガとして面白いけれど、芯が弱い。骨太さが欲しい」

小山さんは「その通りだ……」と答えたという。

「がんばれ元気」が始まった直後、亀井さんはベテラン編集者がひとり異動したため、「マンガ班」に呼び戻され、「がんばれ元気」担当となった。最初はなにも言わなかったが、間もなくして小山さんに、こう直言した。

 「なんで、こんな甘ったるい話を描いているんだ。父親が邪魔なんだ。早く殺しちゃえ」

 小山さんの構想だと元気の父が亡くなるのは、もっと先のはずだった。幼い元気を残し父が亡くなったため、「おれは父ちゃんの子だ」と、かつての楽しかった日々を元気が回想するシーンに胸詰まらされた。

 「そうでしょ。あそこで鮮やかに死んじゃうからいい。生きて、たこ焼き屋なんかやってたら、たまんないよ」(亀井さん)

 小山さんと亀井さんは毎週、連載ストーリーの打ち合わせをした。アシスタントを帰してからふたりで飲みにいき、「ここをこう直したらもっと面白くなる」という激論を交わしたこともしばしばあった。「サンシャインの一番上で東京を見下ろしながら、バニーちゃんのいるところで打ち合わせたこともあった。根をつめると、固まっちゃうからね。帰りのタクシーの中で、いいネタを思いついたこともあった」(亀井さん)

 小山さんは「担当(亀井さん)のイメージを超えようとする。戦いです。もっと、もっと……とノッていった」

0220_109  連載の初めは、「週刊少年サンデー」で人気が5~7位と低迷したが、元気が小学校4年生になったあたりからで1位になった。「絵の明るさが小山さんの特徴で、いろんな演出もうまい。複数の感情を、表情と仕草でどう表現できるか、いろいろと挑戦していた」(亀井さん)。そして、面白いことに、「試合から試合の途中が人気のあるマンガだった」という。

元気が小学校4年生のときのエピソードに、こういうのがある。雨が降り出してくる。放課後、児童たちの母親が傘を持って迎えにくるのを、元気は「いいな-」とボーっと見ていた。父が亡くなったあと、資産家で優しい祖父母(母方)に引き取られ、何不自由なく育った元気だが、母の面影を知らない。病弱だった母は元気を生むと死んでしまったからだ。「母ちやんってどんな人だったの?」 元気にそうたずねられた祖父母はアルバムを取り出して見せる。そこには、美人で成績も良く、祖父が「自慢の娘だった」という母がイキイキと写っていた。だが、大学生を最後に、アルバムの写真が途切れている。「このあと、父ちゃんと知り合うんだね」と元気。祖父母は、身よりも学歴もない、しがないボクサーとの結婚を最後まで猛反対。母は家を飛び出し、ふたりは結ばれたのだった。「苦労に苦労を押し付けて殺しちまいやがった」と、愛娘を奪われ、今も怒りが解けない祖父に向かって、元気は「違うよ。父ちゃんと母ちゃんは絶対そうじゃなかった。おれにはわかるんだよ」と静かに言い残して、トレーニングに向かう……。

 亀井さんは「いいねえ。それで行こうという話になって、達う話がボツになった」と思い出す。

 友人たちから[柔の小山、剛の亀井」と評されるふたりは、とにかく気が合った。「同じ世代で、東映のチャンバラ映画や、にっかつの裕次郎など、シビれるもの、泣けるものが一緒。好きなシーンなども、いちいち言わなくてもわかり合えた」(小山さん)という。マンガ家と編集者という枠を超えた「親友」でもあるのだ。「けっこう、ケンカもやるときはやった」という亀井さんは、あるとき、小山さんにこう言った。

 「(作品が)はやらないと、無理には原稿を頼まないよ。でも酒くらいは飲もうよ、友達なんだから」

・・・・・

 作家と編集者との関係は特別のものがあるんですね。小山ゆう先生がデビューする時、あるいは作品を書き続けるとき、そこには編集者との間にさまざまなドラマがあったんですね。小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。

 あなたはどう思いましたか?

小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。

・・・・・

小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。

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2007年2月25日 (日)

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

 名作漫画家は「人生の達人」でもあります。人生の達人である小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学ぶ2回目です。

今日は

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで、

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

と題した5回シリーズのうち、第2回目の

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

です。

小山ゆう先生はいつもニコニコしていて、おおらかな人柄だそうですが、ことマンガについては譲らない所があるようです。確固たる信念をもっている、あるいは自己の感性・趣味を大切にするということなのでしょうか。小山先生はたしてどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか? 

0218_100  宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。

・・・・・ 

アシスタントとして小山ゆうが「さいとうプロ」に在籍したのは約3年半だった。さいとうプロには、「それまでの人生では出会ったことのない人たちがいっぱいいた」。まずは、劇画界の巨人、さいとう・たかをさん。先輩には当時はまだ無名だった小池一夫さん。兄貴分の山本又一朗さん。アシスタント仲間のやまさき拓味さん。多くの人々との出会いがあった。

その後、山本又一朗さん、やまさき拓味さん、と3人で「オリオンプロ」という会社を作って活動した。小山さんはこの当時のことを「楽しくてしょうがない、1年半くらいでしたけど、共同生活の合宿みたいでした」と振り返る。この期間を経て変化を迎えた。このころ、先にさいとうプロから独立した小池一夫さんは、[子連れ狼」の大ヒットで、青年誌を中心に、ものすごい売れっ子になっていた。「デザインより、マンガをやりたいんだ」という気持ちが募っていた3人は、やがて会社をたたんで小池さんの「スタジオ・シップ」へ。

0218_211  山本さんと小山さんはマンガのストーリーをよくふたりで考えたという。山本さんによると、「たいていは僕が調子に乗って話し、ゆうちやんが聞き役となった。聞き上手のゆうちやんは、僕の話の雲行きが怪しくなっても『うんうん、面白い』と言って僕を乗せてくれた」という。

 やまさきさんは小池さん原作の「鬼輪番」で一足先にデビューする。 一方の小山さんは「僕は、青年誌で出るのは嫌。小池さんの原作があるものではなく、オリジナルで、少年誌で出たいと意地を張った。だから同僚、後輩からもデビューが遅れた。でも、小池さんの脚本をもらっていたら、今の自分はなかったと思う」

 小山さんがデビューしたのは26歳。早熟な人が多いマンガ家としては、遅咲きだった。デビュー作「おれは直角」(週刊少年サンデー、昭和48年~51年)はめちゃくちゃ明るくて、ギャグが満載だ。当時“コミックのドン”と呼ばれていた小西湧之助さんは「オレは直角」を初めて読んだとき、黒鉄ヒロシさんの「赤兵衛」と比べ、小山さんの「直角」も黒鉄ギャグに通じるものがあると思ったという。

 「ドタバタじゃない、インテリギャグ。(喜劇王)キートンの喜劇にあるような、ポンとたたくとあっちのほうの蛇口から水が出てくる、そんなしゃれた使い方を感じた。大竹君(小山ゆうの本名)は才能があるなあと思いました」

 “コミックのドン”の目に狂いはなかった。「おれは方角」は3話読み切りでスタートしたが、読者からの反響が良く、4話目から連載になった。とくに、直角の同級生で西洋かぶれの照正クン(先代の城代家老の孫)が、ギターを出して「グイター、グイター」とやり始めると、バカウケ。

 小山さんは「成長ドラマが好きなので、ストーリーを運ぼうとすると、編集者から『この作品は喜劇だからストーリーより笑いで行かなきやダメだ』と言われた。自分でもああいうもの(笑いのセンス)があるとは思っていなかった。悲劇と喜劇は紙一重なんてすね。電車の中で自分の作品を読んでクククッと笑っている人を見かけたら、やっぱりうれしかったですよ」

 「小山ゆう」というペンネームは、デビューのときのふたりの恩人、小池一夫さんの「小」と山本又一朗さんの「山」。そして、本名の「由次」から「ゆう」をとってつけたものだ。

0220_351  「おれは直角」が終わったあと、小山さんは新たな「冒険」を始める。まず、小池さんの「スタジオ・シップ」を辞めてひとりになったのだ。さらに、新連載ではボクシングを題材にすることにした。

 「笑いで読者にウケるのではなく、死闘を続ける中で主人公が成長していくドラマをどうしても手がけてみたかった。時代劇だと、敬遠する人がいるから舞台は現代にしよう。現代で命がけの闘いを描けるのはボクシングしかない。ただし、『あしたのショー』という金字塔があるから、冒険だった」と振り返る。

 「加んばれ元気」では、父と子、ふたりの姿にジーンとくる場面が多い。「子連れ狼の影響もあると思う。父と子がいて一緒に育って、父が亡くなると、息子がひとりで歩く。そんな世界のイメージがわいてきた」そうだ。

 連載スターートの当初は、人気が出なかった。「読者は『おれは直角』を読んでいたから、笑いを期待する。非難の手紙も来ましたよ。『笑えない』『もっと直角みたいなものを描いて』とか。でも、笑いを捨ててやるんだと決めてました」

・・・・・ 

 小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。 

 あなたはどう思いましたか? 

小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。 

・・・・・

小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。

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2007年2月22日 (木)

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

 名作漫画家は「人生の達人」でもあります。名作を描いたマンガ家がどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのか、を知りたいと思うのは、マンガの描き手や、描き手を目指す人だけではありません。マンガの読み手にとっても、大変興味深いものです。なぜなら、その人生の歩みのなかから学ぶものがたくさんあるからです。

今回は

  まんが③マンガの書き手はソコントコをコウしてます

  というカテゴリーのなかで、あの小山ゆう先生の漫画家としての成長の姿から学びたく、先生の人生の歩みを追いながら

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

小山ゆう②やりたいことにはトコトンこだわる

小山ゆう③編集長とは激しく戦う

小山ゆう④ブレーンがゴロゴロいた

小山ゆう⑤人との出会いにに恵まれて成長するということ

と題した5回シリーズで進めたいと思います。

第1回目の今日は

小山ゆう①マンガの世界に入ったのはほんの軽い気持ちだった

です。

0220_301 「おれは直角」、「がんばれ元気」や「あずみ」など。作者の小山ゆう先生はいつもニコニコしていて、おおらかな人柄だそうです。はたしてどのような人生を歩み、また、どのようにしてマンガ家になったのか、そしてまた、その後どのように成長しているのでしょうか。

 マンガの書き手はソコントコをどうしているのでしょうか? 

 宇都宮滋一先生は著書の「名作マンガの知られざる制作現場・<ダメ!>といわれてメガヒット」の中で小山ゆう先生について次のように書いています。

・・・・・ 

  小山ゆうさん(本名・大竹由次)は昭和23年(1948年)2月20目、静岡県小笠郡の専業農家の長男に生まれ、「のんびり、ぽかぽか育った」という。中学校までは成績が良かった。「農業は自分に向かない」と思い、商業高校に進んだ。当時まわりに大学へ進学する人は少なく、「大学はハナから考えていなかった」。 高校進学を境に順調だった人生に異変が起きる。思春期の肉体的変調なのか、声が出なくなった。身長もクラスで一番小さかったのが急激に伸び、ヒザが痛くて思うように歩けなくなった。これらが「大きなコンプレックス」になり、暗い高校生活を送る羽目になった。あとで振り返れば、とるに足らないようなことでも深刻に考えるのが思春期特有の傾向だ。「こんなことじゃ、まともな就職先もない」と悩んだ末、「えーい、就職なんかしないぞ」と決めた。

0220_101  かつて先生に「音感がいい。ブラスバンドに入れ」とすすめられたことを思い出した。「テレビで見たりしていると、作曲家や詩人は不遇な人生を送るけど、美学を感じさせた。東京で苦労して、たとえ売れなくてもいい。1曲残せれば満足しようと考えたんです」。 18歳の夏、作曲家を目指して上京した。このころには体調も回復していた。夢は夢として、とりあえず食わなくてはいけない。新聞広告を見て、アニメーションの会社でアルバイトを始めた。1年ほど、ここで働いた。

 たまたま休憩時間に、さいとう・たかをさんの「無用ノ介」を模写していた。「学校時代、絵はクラスでもうまいほうだった」という。その絵を見た先輩が「知り合いがさいとうプロにいるから紹介してやろうか」と言ってくれたので、「じゃ、お願いします」と頼んだ。当時はマンガ家になりたいという希望を持っていたわけではなく、バイトならなんでもよかったので、軽い気持ちだった。実はマンガ自体、東京に出てくるまでほとんど読んだことがなかった。なにしろ手塚治虫さんの「鉄腕アトム」さえ読んでなかったのだ。初めて「マンガって面白いなあ。マンガってこんなに深く人に感動を与えるんだ」とわかったのは、「週刊少年マガジン」の「あしたのジョー」だったという。「ジョーは自分の身近で生きているという気がした。マンガの中でジョーが殴られると痛みを感じたもの」。

 20歳のときに、さいとうプロの面接を受けた。雑誌「スクリーン」の模写などを数点見せたところ合格し、アシスタントに採用された。 これが小山さんのマンガ道のスタートだった。

さいとうプロには、「それまでの人生では出会ったことのない人たちがいっぱいいた」。まずは、劇画界の巨人、さいとう・たかをさん。先輩には当時はまだ無名だった小池一夫さん。兄貴分の山本又一朗さん。アシスタント仲間のやまさき拓味さん。多くの人々との出会いが始まった。

0218_203  アシスタントとしてさいとうプロに在籍したのは約3年半だった。「午前8時から午後10時までが定時で、休みは月2日」(関係者)という、ほぼ休みなしでみっちりマンガの基礎を仕込まれた。「背景と人物はだいたい描けるようになった」小山さんだが、さいとうプロの中では「劣等生だった」という。アシスタント仲間は当然のことながら、絵に自信があってこの世界に飛び込んできた人ばかり。「ほかの人はマンガが大好きで、さいとう先生のことが大好きで育ってきた。それに比べて僕はさいとう先生がすごい人だということも知らずに入ってきた。マンガ界の常識をあまりにも知らなかった。拳銃や車にやたら詳しいオタクもいた。すごい人たちばかりだなあとカルチャーショックを受けてました」

 当時のアシスタント仲間のひとりが、2歳年下のやまさき拓昧さんだ。小池一夫さんの原作「鬼輪番」でデビューし、競走馬のエピソードを綴った「優駿たちの蹄跡」(集英社・ビジネスジャンプ)、「優駿の門」(秋田書店・少年チャンピオン)で売れっ子マンが家になった。「(双葉社の「漫画ストーリー」連載の)」『鬼輪番』は、ながやす巧さんが画を担当していたんですが、途中で身体をこわしてしまって、代打を探していたんです。それで、僕のところに回って来たんです」と振り返るやまさきさんは昭和43年(1968年)、新宮高校(和歌山県)卒業後、さいとうプロに入った。和歌山県はさいとう・たかをさんの母親の地元だった。しかも、さいとうさんのいとこが県議会議員で、やまさきさんの父親がその秘書という縁もあった。高校時代、美術部だったやまさきさんは「本の装丁やデザインの仕事」をしたかったが、マンガもよく読んでいた。「父が、行きたいなら話をしてやるぞとすすめるので、『東京へ行けるならいいかな』と思いました」。

 やまさきさんの1、2ヵ月後に人社してきたのが小山さんだった。ふたりは1年間ほど、4畳半のアパートで一緒に暮らした。やまさきさんは「仕事が終わってもいつも一緒。よく新宿で夜明け近くまで遊んだ」という。「初めのころは、マンガはそれほど好きじゃなかったと思うな。僕もそうだから、マンガの話はしない。映画が好きだから、一緒に見にいったり。夜中の2時か3時ごろに『この本、面白いぞ』と言って持っていったりした。ふたりとも好きなのは、映画なら黒沢明、小説なら山本周五郎、司馬遼太郎などでした」。

0220_232  当時の小山さんについて、やまさきさんは「絵を描く手は遅かったし、絵(マンガではない)はうまいとのイメージはなかったなあ」と言うが、脱帽した点が1つあった。「マンガに関して、これが面白い、あれが面白いというと、すぐにそれをやる。自分の知らない世界だったから他人の意見をよく聞けたのかもしれないが、すれてない。あの素直さは、まるで砂が水を吸いこむみたいだった」と語っている。

・・・・・ 

 小山ゆう先生は、このように人生を歩み、このようにしてマンガ家になり、そしてまたその後このように成長しているのですね。 

 あなたはどう思いましたか? 

小山ゆう先生の、●「がんばれ元気」、●「あずみ」、●「おれは直角」、●「いざ!!竜馬」、●「スプリンター」、●「ももたろう」は、東京漫画探偵団(まんたん)においてあります。 

・・・・・

小山ゆう
1948年静岡県生まれ。「さいとう・プロダクション」のアシスタントを経て独立、73年に「おれは直角」でデビュー。76年から5年間「がんばれ元気」が少年サンデーに連載され、80年にはテレビアニメ化されてヒットした。現在も「あずみ」を小学館ビッグコミックスぺりオールに連載中で映画化もされている。

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